愛する御子の支配下へ 2025年8月24日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:9 そういうわけで、私たちも、このことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と洞察によって神の御心を深く知り、
1:10 主にふさわしく歩んで、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善い行いによって実を結び、神をますます深く知るように。
1:11-12 また、あなたがたが神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、何事にも忍耐と寛容を尽くすように。また、光の中にある聖なる者たちの相続分にあずかる資格を、あなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝するように。
1:13 御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下へと移してくださいました。
1:14 私たちはこの御子において、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。コロサイの信徒への手紙 1章9節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は、『コロサイの信徒への手紙』の第1章1節から14節までを読んでいただきましたが、今朝は9節から14節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。『コロサイの信徒への手紙』は、イエス・キリストの使徒パウロが牢獄の中から、コロサイにある教会に宛てて記した手紙です。

 9節から12節までを読みます。

 そういうわけで、私たちも、このことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と洞察によって神の御心を深く知り、主にふさわしく歩んで、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善い行いによって実を結び、神をますます深く知るように。また、光の中にある聖なる者たちの相続分にあずかれる資格を、あなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝するように。

 ここには、パウロたちの執り成しの祈りが記されています。パウロたちは、コロサイの信徒たちが、エパフラスから福音を聞いて実を結び、成長していることを聞いた日から、絶えずコロサイの信徒たちのために、執り成しの祈りをささげていました。ちなみに、執り成しの祈りとは、他者のために、他者に代わって祈ることを言います。パウロたちは牢獄において、コロサイの信徒たちのために、コロサイの信徒たちに代わって祈りをささげていたのです。ここでの「私たち」とは誰でしょうか。まず考えられるのは、この手紙の差出人であるパウロとテモテです。また、パウロと一緒に捕らわれの身となっていた人々が含まれていると考えられます。第4章10節以下を読むと、パウロのもとには、アリスタルコ、バルナバのいとこマルコ、ユストと呼ばれるイエス、エパフラス、愛する医者ルカ、デマスがいたと記されています。そのような人々がパウロと一緒に、コロサイの信徒たちのために祈っていたのです。私たちの教会でも、水曜日の午前中に、「聖書と祈りの会」(祈祷会)を行っています。そこでは、イエス・キリストの御名によって、二人または三人が集まって執り成しの祈りをささげています。週報に載せている祈りの課題を覚えて、記念日を迎える教会員のために、執り成しの祈りをささげているのです。

 ここでパウロたちは、コロサイの信徒たちのために、三つのことを祈り、願っています。一つ目の執り成しの祈りは、「どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と洞察によって神の御心を深く知り、主にふさわしく歩んで、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善い行いによって実を結び、神をますます深く知るように」です。このパウロたちの祈りの背景には、コロサイの信徒たちが置かれていた状況があります。エパフラスは、コロサイの信徒たちが聖霊によっていただいている愛をパウロたちに伝えましたが、それだけではなく、コロサイの信徒たちが置かれている状況についても伝えました。一言で言えば、イエス・キリストを信じたばかりのコロサイの信徒たちが、巧みな議論によって騙され、空しいだまし事の哲学のとりこになっていたのです(2:4「私がこう言うのは、あなたがたが誰にも巧みな議論でだまされないようにするためです」、2:8「空しいだまし事の哲学によって、人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、人間の言い伝えに基づくもの、この世のもろもろの霊力に基づくものであり、キリストに基づくものではありません」参照)。コロサイの町では、いろいろな宗教(占星術や密儀宗教やユダヤ教など)が信じられていました。そのようないろいろな宗教が信じられている社会で、パウロたちは、コロサイの信徒たちが、「あらゆる霊的な知恵と洞察によって神の御心を深く知り、主にふさわしく歩んで、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善い行いによって実を結び、神をますます深く知るように」と執り成しの祈りをささげていたのです。現代の日本にも、さまざまな宗教があります。また、風水や占いなどスピリチュアルなものがあります。そのような社会において、私たちはイエス・キリストを信じて歩んでいます。その私たちに必要なことは、霊的な知恵と洞察によって神の御心を深く知り、主にふさわしく歩んで、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善い行いによって実を結び、神をますます深く知ることであるのです。霊的な視点を持って、主の御前に生かされていることを自覚して歩むことが大切であるのです。

 二つ目の執り成しの祈りは、「また、あなたがたが神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、何事にも忍耐と寛容を尽くすように」です。「忍耐」とは「こらえること。たえしのぶこと」を意味します(広辞苑)。また、「寛容」とは「寛大で、よく人をゆるし受けいれること」を意味します(広辞苑)。神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められて行うことが、忍耐と寛容であるとは、意外な気がします。しかし、「神の栄光」が「イエス・キリスト」であるならば、納得できるのではないかと思います(1:27「神は彼らに、この秘義が異邦人の間でどれほど栄光に満ちたものであるかを知らせようとされました。この秘義とは、あなたがたの内におられるキリスト、すなわち栄光の希望です」参照)。イエス・キリストの力はどの点に表れたのか。それは、イエス・キリストの忍耐と寛容においてです。ちなみに、忍耐と寛容は、キリスト者としての最高の道(最高の徳)である愛の特質でもあります。『コリントの信徒への手紙一』の第13章4節から7節にこう記されています。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。このように、忍耐と寛容は愛の特質であるのです。イエス・キリストにおいて示された神の力は、私たちを忍耐強く、寛容な愛に生きる者としてくれるのです。

 三つ目の執り成しの祈りは、「また、光の中にある聖なる者たちの相続分にあずかる資格を、あなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝するように」です。「相続分」と訳されている言葉(クレーロス)は、イスラエルの民が受け継いだカナンの土地を思い起こさせます。もちろん、ここでカナンの土地(パレスチナの土地)のことが言われているのではありません。「光の中にある聖なる者たちの相続分」とあるように、イエス・キリストの再臨によって到来する「新しい天と新しい地」のことが言われているのです(黙21:1参照)。約束の地カナンは、新しい天と新しい地(天国)を指し示す予型であるのです(ヘブライ11:13~16参照)。御父は、私たちにも、光の中にある聖なる者たちの相続分にあずかる資格を与えてくださいました。では、どのようにして、御父は、私たちにその資格を与えてくださったのでしょうか。それは、イエス・キリストを信じる信仰を与えてくださることによってです。本来、光の中にある聖なる者たちの相続分にあずかる資格を持っているのは、御子イエス・キリストだけです。私たちは、御子イエス・キリストにあって、新しい天と新しい地を受け継ぐ者とされたのです。このことは、パウロが『ローマの信徒への手紙』の第8章で記していることです。新約の279ページです。第8章14節から17節までを読みます。

 神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます。子どもであれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共に栄光をも受けるからです。

 光の中の聖なる者たちの相続分にあずかる資格を持っているのは、神の御子イエス・キリストであります。私たちは、御子イエス・キリストを信じて、神の子(神の養子)とされて、相続分にあずかる資格をいただいたのです。このことは、私たちが御父に、喜びをもって感謝するのに十分な恵みであるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の360ページです。

 13節と14節を読みます。

 御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下へと移してくださいました。私たちはこの御子において、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

 「御父」とは「父なる神」のことですが、父なる神は、私たちを闇の力から救い出して、愛する御子イエス・キリストの支配下へと移してくださいました。「闇の力」とは「神の敵である悪魔の支配」のことです。初めの人であり、私たちの始祖アダムは、神の掟に背いて、悪魔(蛇)の言葉に従って罪を犯しました(創世2、3章参照)。はじめの人アダムは、悪魔(蛇)の言葉を女の口から聞いて、神のようになりたいとの思いから、禁じられていた善悪の知識の木から取って食べてしまったのです。そのようにして、アダムから普通の仕方で生まれてくる全人類が悪魔の支配下に生きる者となってしまったのです。アダムの子孫として生まれてくるすべての人間は、闇の力のもとに生まれてくるのです。そのことは、人間が罪をもって生まれてくること、人間が神の言葉に背く性質をもって生まれてくることに表れています。かつて私たちも闇の力の下(もと)に生きていました。しかし、御父は、その私たちを救い出して、愛する御子イエス・キリストの支配下へと移してくださったのです。それゆえ、私たちは、「イエス・キリストは主である」と告白しているのです。愛する御子イエス・キリストの支配とは、御言葉と聖霊による支配であります。イエス・キリストは、御言葉と聖霊によって、私たちを支配してくださるのです。また、御父は、愛する御子イエス・キリストの支配に生きる私たちをも「愛する子」としてくださいました。『ルカによる福音書』の第3章に、イエス様が洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように降り「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が天から聞こえたと記されています。あの天からの声は、イエス・キリストの名によって洗礼を受けた私たち一人一人にも言われているのです。ですから、私たちも「アッバ、父よ」と呼び、親しく祈ることができるのです。

 私たちは、御子イエス・キリストにおいて、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。「贖い」とは、「代価を払って、奴隷を自由にすること」を意味します。御子イエス・キリストは、『マルコによる福音書』の第10章42節から45節で、弟子たちにこう言われました。新約の81ページです。

 「あなたがたも知っているように、諸民族の支配者と見なされている人々がその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、あなたがたの中で頭(かしら)になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 御子イエス・キリストは、私たちを罪の奴隷状態から解放するための身代金として、十字架の上で、命を献げるために来てくださったのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の360ページです。

 もう一度、13節と14節を読みます。

 御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下へと移してくださいました。私たちはこの御子において、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

 光の中にある聖なる者たちの相続分にあずかる資格を与えられたことと、闇の力から救い出されて愛する御子の支配下へと移されたこととは一体的な関係にあります。私たちは闇の力から救い出されて、愛する御子の支配下へ移されたことにより、光の中にある聖なる者たちの相続分にあずかる者とされたのです。このことは、私たちが自分の力でしたことではありません、父なる神が私たちにしてくださったことであります。父なる神は、恵みによって、私たちを闇の力から救い出し、御子イエス・キリストの命と恵みの支配に生きる者としてくださいました(創立50周年 伝道の宣言、「神の国は、主イエス・キリストにあってなされる神の命と恵みの支配です」参照)。そのことを心に留めて、私たちは、父なる神に、喜びをもって感謝したいと願います。

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