主を畏れるなら悪を離れることができる 2025年8月20日(水曜 聖書と祈りの会)

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主を畏れるなら悪を離れることができる

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
箴言 16章6節

聖句のアイコン聖書の言葉

16:6 過ちは慈しみとまことによって覆われる。/主を畏れるなら悪を離れることができる。箴言 16章6節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『箴言』の第16章6節を中心にしてお話しします。箴言の特徴は、二つの文を並べて、一つの思想を表すパラレリズム、並行法にあります。並行法には、同じ意味の言葉を並べる同意並行法と、反対の意味の言葉を並べる反意並行法があります。今朝の第16章6節は、「過ち」と「悪」という同じ意味の言葉を並べる同意並行法であると言えます。

 過ちは慈しみとまことによって覆われる。主を畏れるなら悪を離れることができる。

 ソロモンは、「過ちは慈しみとまことによって覆われる」と言います。ここでの「慈しみとまこと」には二つの解釈があります。一つは、過ちを犯した人の「慈しみとまこと」を指すという解釈です。過ちを犯してしまっても、悔い改めて、慈しみとまことに生きるならば、犯した過ちを赦してもらえると解釈するのです。もう一つの解釈は、主の「慈しみとまこと」を指すという解釈です。人の過ちは、主の慈しみとまことによって赦されると解釈するのです。私は、二つ目の解釈、人の過ちは、主の慈しみとまことによって赦されるという解釈を取りたいと思います。と言いますのも、私たちは、主の慈しみとまことであるイエス・キリストによってすべての罪を覆われた者たちであるからです。『ヨハネによる福音書』の第1章17節と18節を読みます。新約の160ページです。

 律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

 「恵み(カリス)と真理(アレーセイア)はイエス・キリストを通して現れた」とありますが、これを旧約聖書の言葉で言うと「慈しみ(ヘセド)とまこと(エメット)はイエス・キリストを通して現れた」となります。主は、私たちの過ちを、御自分の慈しみとまことの現れである御子イエス・キリストによって覆ってくださったのです。イエス・キリストは、私たちに代わって神の掟を完全に守ってくださり、私たちに代わって罪の刑罰としての十字架の死を死なれることによって、私たちのすべての過ちを覆ってくださったのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の994ページです。

 第16章6節。「過ちは慈しみとまことによって覆われる。主を畏れるなら悪を離れることができる」。ソロモンは「主を畏れるなら悪を離れることができる」と言います。なぜなら、「悪」とは主の御心に適わないこと、主の御心に背くことであるからです。主は善であり、その主の御心に適わないこと、主の御心に背くことが悪であるのです。「主を畏れる」とは、新約の言い方ですと、「主を信じる」「主を愛する」ということです。主を愛する者は、主が忌み嫌われる悪を愛することはできません。主を愛する者は、主が忌み嫌われる悪を忌み嫌い、悪から離れることができるのです。私たちは、聖霊のお働きによって、主イエス・キリストを畏れる者、信じる者、愛する者とされました。それゆえ、私たちは、悪を憎み、悪から離れることができるようにされているのです。そのようにして、イエス・キリストは、私たちを聖なる者としてくださるのです。『ヨハネの手紙一』の第2章1節から6節までを読みます。新約の429ページです。

 私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。私たちは、神の戒めを守るなら、それによって神を知っていることが分かります。「神を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であり、その人の内に真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、その人の内に神の愛が全うされています。これによって、私たちが神の内にいることが分かります。神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。

 このように、イエス・キリストによって罪を赦された者は、神を愛する者として、神の戒めを守り、悪から遠ざかって生きるのです。それは、私たちが罪を犯さないということではありません。実際、私たちは、日々、罪を犯してしまいます。それゆえ、私たちは、日々、悔い改めて、私たちの罪のために十字架の上で死んでくださり、復活されたイエス・キリストに依り頼むべきであるのです。そのような歩みが、私たちの聖化の歩みであるのです。私たちは、日々、悔い改め、罪の赦しをいただいて、イエス様に似た者へと少しずつ変えられていくのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の994ページです。

 第16章6節。「過ちは慈しみとまことによって覆われる。主を畏れるなら悪を離れることができる」。この御言葉は、主の慈しみとまことの現れであるイエス・キリストによる罪の赦しと、主イエス・キリストを愛する私たちの聖化の歩みについて教えています。罪の赦しも、主を畏れる信仰も、主の慈しみとまことであるイエス・キリストによって恵みとして与えられます。「過ちは慈しみとまことによって覆われる。主を畏れるなら悪を離れることができる」。私たちは、ここに、イエス・キリストの福音を聞き取ることができるのです。

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