正しい人の祈りを喜ばれる主 2025年8月06日(水曜 聖書と祈りの会)

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正しい人の祈りを喜ばれる主

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
箴言 15章8節

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15:8 主は悪しき者のいけにえをいとい/正しい人の祈りを喜ばれる。箴言 15章8節

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 今朝は、『箴言』の第15章8節を中心にしてお話しします。箴言の特徴は、パラレリズム、並行法にあります。並行法とは、二つの文を並べて、一つの思想を言い表す表現方法です。並行法には、同じ意味の言葉を並べる同意並行法と反対の意味の言葉を並べる反意並行法があります。第15章8節は、反対の意味の言葉を並べて、一つの思想を言い表す反意並行法で記されています。

 主は悪しき者のいけにえをいとい/正しい人の祈りを喜ばれる。

 ソロモンは、「主は悪しき者のいけにえをいとう」と言います。それは、主(ヤハウェ)が、人の心を御覧になるからです(サムエル上16:7参照)。主はいけにえよりも、そのいけにえをささげる人の心を御覧になるのです。このことを教えているのが、『創世記』の第4章に記されているアベルとカインの礼拝であります。旧約の5ページです。第4章1節から7節までを読みます。

 さて、人は妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は主によって男の子を得た」と言った。彼女はさらに弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。日がたって、カインは土地の実りを供え物として主のもとに持って来た。アベルもまた、羊の初子、その中でも肥えた羊を持って来た。主はアベルとその供え物に目を留められたが、カインとその供え物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに向かって言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしあなたが正しいことをしているなら、顔を上げられるはずではないか。正しいことをしていないのなら、罪が戸口で待ち伏せている。罪はあなたを求めるが、あなたはそれを治めなければならない。」

 4節の後半から5節の前半にこう記されています。「主はアベルとその供え物に目を留められたが、カインとその供え物には目を留められなかった」。このように、主は供え物に先立って、供え物をささげる人の心を御覧になるのです。そして、ささげる人の心が供え物によって表されるのです。カインは土地の実りを供え物として持って来ました。他方、アベルは羊の初子を、その中でも肥えた羊を持って来ました。アベルは、最上のものを供え物として持って来たのです。そこにアベルの信仰が表れているのです。『ヘブライ人への手紙』の第11章4節にはこう記されています。「信仰によって、アベルはカインにまさるいけにえを神に献げ、それにより正しい者であると認められました。神がその供え物を認められたからです」。主がカインとその供え物に目を留められなかったことは、主が悪しき者のいけにえをいとわれる御方であることを教えているのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の993ページです。

 ソロモンは8節の後半で、「正しい人の祈りを喜ばれる」と記します。主は正しい人の祈りを喜ばれる御方であるのです。この御言葉を読んで、私は、『ヨハネによる福音書』の第9章に記されている生まれつき目の見えない人の言葉を思い出しました。新約の181ページです。第9章24節から34節までを読みます。

 そこで、ユダヤ人たちは、目の見えなかった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。私たちは、あの者が罪人であることを知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私には分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかった私が、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らは罵って言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、ご存じないとは、実に不思議です。あの方は、私の目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、私たちは承知しています。しかし、神を敬い、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。

 ここで注目したいのは、31節です。「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、私たちは承知しています。しかし、神を敬いその御心を行う人の言うことは、お聞きになります」。生まれつき目が見えなかった人は、イエス様が自分の目を開くことができたのは、イエス様が神を敬い、御心を行う正しい人であり、神がその正しい人であるイエス様の祈りを聞いてくださったからであると言うのです。ソロモンは、主は「正しい人の祈りを喜ばれる」と言いましたが、その正しい人とは、私たちの主であるイエス・キリストのことであるのです。今朝の御言葉に戻ります。新約の993ページです。

 第15章8節をもう一度読みます。「主は悪しき者のいけにえをいとい/正しい人の祈りを喜ばれる」。この御言葉を、新約時代に生きる私たちは、正しい人イエス・キリストを抜きにして考えることはできません。初めの人アダムの子孫である全人類は、神の御前に悪しき者であります。しかし、神様は、正しい人イエス・キリストを信じる人を、正しい人として受け入れてくださいます。神様は、正しい人イエス・キリストの御名によってささげる私たちの祈りを、正しい人の祈りとして喜んでくださるのです。それゆえ、イエス様は、「よくよく言っておく。あなたがたが私の名によって願うなら、父は何でも与えてくださる」と言われるのです(ヨハネ16:23参照)。

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