希望に基づく信仰と愛 2025年7月27日(日曜 朝の礼拝)
問い合わせ
希望に基づく信仰と愛
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
コロサイの信徒への手紙 1章3節~8節
聖書の言葉
1:3 私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。
1:4 キリスト・イエスにあるあなたがたの信仰と、すべての聖なる者たちに対してあなたがたが抱いている愛について、聞いたからです。
1:5-6 その愛は、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたはすでにこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。あなたがたにもたらされたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたの間でも、神の恵みを聞いて真に理解した日から、実を結んで成長しています。
1:7 あなたがたはこの福音を、私たちと同じ僕である愛するエパフラスから学びました。彼は、私たちのためにキリストに忠実に仕える者であり、
1:8 あなたがたが霊によって抱いている愛を、私たちに知らせてくれた人でもあります。コロサイの信徒への手紙 1章3節~8節
メッセージ
関連する説教を探す
先程は、『コロサイの信徒への手紙』の第1章1節から8節までを読んでいただきました。前回(6月22日)は、1節と2節を中心にしてお話ししましたので、今朝は3節から8節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
3節を読みます。
私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。
ここでの「私たち」は、この手紙の差出人であるパウロとテモテのことです。1節にこう記されています。「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから」。この手紙を書いたとき、パウロは捕らわれの身でした(4:18参照)。パウロは、この手紙を牢獄の中で書き記したのです(4:3参照)。『コロサイの信徒への手紙』は、いわゆる獄中書簡であるのです。
また、「あなたがた」とは、この手紙の受取人であるコロサイの信徒たちのことです。2節にこう記されています。「コロサイにいる聖なる者たち、キリストにある忠実なきょうだいたちへ」。パウロは、コロサイの信徒たちと会ったことはありませんでした。少し先の7節と8節にこう記されています。「あなたがたはこの福音を、私たちと同じ僕である愛するエパフラスから学びました。彼は、私たちのためにキリストに忠実に仕える者であり、あなたがたが霊によって抱いている愛を、私たちに知らせてくれた人でもあります」。このように、コロサイの信徒たちは、パウロからではなく、エパフラスから福音を学びました。エパフラスについては、第4章12節に記されています。新約の365ページです。
あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をことごとく確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています。
「あなたがたの一人」とありますから、エパフラスはコロサイの出身であったようです。『使徒言行録』の第19章に、パウロがエフェソに三年間滞在して、福音を宣べ伝えたことが記されています(使徒20:31参照)。エパフラスは、エフェソでパウロから福音を聞いて、イエス・キリストを信じる者となったようです(使徒19:10参照)。パウロからイエス・キリストの福音を学んだエパフラスが、コロサイに帰って、コロサイの人々にイエス・キリストの福音を宣べ伝えて、信じる者たちが起こされたのです。このとき(パウロがこの手紙を書いていた時)、エパフラスは捕らわれの身であるパウロと共にいました。しかし、エパフラスは離れていても、コロサイの信徒たちのために熱心に祈っていたのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の360ページです。
エパフラスがコロサイの信徒たちのために熱心に祈っていたように、パウロも、コロサイの信徒たちのためにいつも祈っていました。パウロが「いつもあなたがたのために祈り」と記すとき、それは朝、昼、晩の決まった時間に祈っていたことを意味します。ユダヤ人は、一日に三度、9時と12時と3時に祈りをささげました。パウロもユダヤ人ですから、その祈りの習慣を身につけていたのです。「私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています」。これと同じような言葉を、パウロは、『テサロニケの信徒への手紙一』や『エフェソの信徒への手紙』にも記しています(一テサロニケ1:2、エフェソ1:15参照)。パウロは、一日の三度の祈りの時間に、諸教会のために祈っていたのです。そして、その諸教会の中に、エパフラスから伝え聞いたコロサイの教会も含まれていたのです。このことは、コロサイの信徒たちにとってうれしい驚きであったと思います。イエス・キリストの使徒パウロが、いつも自分たちのために祈ってくれている。そして、自分たちのことで、主イエス・キリストの父なる神に感謝をささげている。そのような、祈りの交わりの中に、パウロとコロサイの信徒たちはあるのです。同じことが牧師と信徒との関係においても言えます。私も羽生栄光教会の牧師として、皆さんのために祈り、神様に感謝しています。そして、皆さんも、私の牧師としての働きのために祈り、神様に感謝しているのです。
4節と5節を読みます。
キリスト・イエスにあるあなたがたの信仰と、すべての聖なる者たちに対してあなたがたが抱いている愛について、聞いたからです。その愛は、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたはすでにこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。
ここには、パウロが祈りの度に、主イエス・キリストの父なる神に感謝している理由が記されています。パウロが祈りの度に、感謝しているのは、コロサイの信徒たちがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛についてエパフラスから聞いたからです。「キリスト・イエスにある信仰」と「すべての聖なる者たちに対して抱いている愛」。この信仰と愛は、「天に蓄えられている希望に基づくものである」と記されています。ここには、信仰と希望と愛というキリスト者の三つの徳(品性)が記されています(ローマ・カトリック教会の『カトリック要理』の第16課によれば、神を信じ、神に希望し、神を愛することはキリスト信者の生活にとって最も重要なことであり、それゆえ、神は、信仰・希望・愛という超自然の徳を与えてくださる)。信仰と希望と愛について記している最も有名な箇所は、『コリントの信徒への手紙一』の第13章です。そこにはこう記されています。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です」(一コリント13:13)。この第一コリント書の御言葉と比べると、順番が違うことに気づきます。コロサイ書においては、信仰と愛と希望の順番で記されています。しかも、信仰と愛が希望に基づくと記されているのです。信仰と愛の源は、天に蓄えられている希望にあると言うのです。パウロが、「あなたがたのために天に蓄えられている希望」と記すとき、その希望とは、父なる神の右に座しておられるイエス・キリストのことです。パウロは、第3章1節から4節で、次のように記しています。新約の363ページです。
あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地上のものに思いを寄せてはなりません。あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているからです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
「私たちのために天に蓄えられている希望」とは、父なる神の右に座しておられるイエス・キリスト、世の終わりの日に、栄光の主として来られるイエス・キリストであるのです。私たちの希望であるイエス・キリストは父なる神の右に座しておられます。そして同時に、聖霊と御言葉において私たちの内におられる御方でもあるのです。第1章26節と27節で、パウロは、次のように記しています。新約の361ページです。
永遠の昔から幾世代にもわたって隠されてきた秘義が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。神は彼らに、この秘義が異邦人の間でどれほど栄光に満ちたものであるかを知らせようとされました。この秘義とは、あなたがたの内におられるキリスト、すなわち栄光の希望です。
パウロが「あなたがたの内におられるキリスト、すなわち栄光の希望です」と記すとき、二つの意味を持っています。一つは、私たちの交わりの内に、イエス・キリストが聖霊と御言葉においておられるという意味です(マタイ18:20「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」、一コリント3:16「あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか」参照)。二つ目は、私たちの一人一人の内にイエス・キリストが聖霊と御言葉において住み込んでいてくださるという意味です(ヨハネ14:23「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む」、一コリント6:19「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」参照)。私たちの交わりの内に、また、私たち一人一人の内に、栄光の希望であるイエス・キリストがおられる。それゆえ、私たちは、イエス・キリストを信頼して歩むことができるし、主にある兄弟姉妹を愛することができるのです。
6節から8節までを読みます。
あなたがたにもたらされたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたの間でも、神の恵みを聞いて真に理解した日から、実を結んで成長しています。あなたがたはこの福音を、私たちと同じ僕である愛するエパフラスから学びました。彼は、私たちのためにキリストに忠実に仕える者であり、あなたがたが霊によって抱いている愛を、私たちに知らせてくれた人でもあります。
ここでパウロは、福音の成長について記しています。イエス・キリストの福音は命の言葉ですから、身を結んで成長していくのです。そのことをイエス様は、たとえを用いて教えられました。『マルコによる福音書』の第4章26節から29節までを読みます。新約の67ページです。
また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が地に種を蒔き、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるのであり、初めに茎、次に穂、それから穂には豊かな実ができる。実が熟すと、すぐに鎌を入れる。収穫の時が来たからである。
イエス様は神の国を成長する種にたとえられます。ここでの種は「神の言葉」のことです(マルコ4:14「『種を蒔く人』は、神の言葉を蒔くのである」参照)。種を蒔くと、夜昼寝起きしているうちに、芽を出して成長する。それは、蒔いた人が成長させるのではありません。地はおのずから実を結ばせるのです。つまり、種そのものに命があり、神様が成長させてくださるのです。それと同じように、神の国は成長していくのだとイエス様は教えられたのです。神の国の中心的な現れは、キリスト教会ですから、ここでイエス様は教会の成長について教えているとも言えます。私たちは、どのようにすれば教会は成長するのかと頭を悩ませるのですが、イエス様は楽観的です。イエス様は、「神の言葉が持つ成長力、人を造り変える力を信じて、御言葉を語り続ければよい。後は、神様にお任せすればよろしい」と言われるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の360ページです。
もう一度6節を読みます。「あなたがたにもたらされたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたの間でも、神の恵みを聞いて真に理解した日から、実を結んで成長しています」。ここでの「実」とは、イエス・キリストを信じる者たちの群れである教会のことです。福音宣教によって、世界中の至るところにキリスト教会が生まれました。エパフラスの福音宣教によって、コロサイにも教会が生まれたわけです。そして、その教会に新しい人が加わって成長していたのです。同じことが、私たち羽生栄光教会においても言えます。羽生栄光教会は、1979年に、二家族(のちに三家族)が牧師を招いて始まりました。羽生栄光教会は、信徒によって始められた開拓伝道というユニークな歴史を持っています。福音という真理の言葉を聞いて、神の恵みを悟った人たちによって、羽生栄光教会は始められました。そして、そこに私たちは加えられたのです。特に、先週は、Kさんの成人洗礼式を執り行うことができました。神様は私たちの群れに、一人の兄弟を加えてくださったのです。そのことを通して、私たちは、栄光の希望であるイエス・キリストが私たちの内におられることを味わい知ることができたのです。栄光の希望であるイエス・キリストは、御言葉の教師を用いて、福音を語ってくださいます(これまでも、嘉成公悦先生、今井献先生、矢内昭二先生を用いて、福音を語ってくださった)。私たちは御言葉の教師から、福音を学ぶことによって、キリスト教会として、また、キリスト者として実を結び、成長しているのです。