望みが適うことは命の木 2025年7月23日(水曜 聖書と祈りの会)

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望みが適うことは命の木

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
箴言 13章12節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:12 望みがかなえられないと心が病み/願いがかなうと命の木を得たようだ。箴言 13章12節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『箴言』の第13章12節を中心にしてお話しします。

 箴言の特徴は、パラレリズム、並行法で記されていることです。並行法とは、二つの文を並べて一つの思想を表す表現方法です。並行法には、同じ意味の言葉を並べる同意並行法と、反対の意味の言葉を並べる反意並行法があります。今朝の第13章12節は、「望みがかなえられない」と「願いがかなう」という反対の意味の言葉を並べる反意並行法であると言えます。

 望みがかなえられないと心が病み/願いがかなうと命の木を得たようだ。

 私がこの聖句を選んだのは、「そのおとり」と思ったからです。今回お話しを準備するために、幾つかの翻訳聖書を調べてみました。例えば、新改訳2017は、次のように翻訳しています。「期待が長引くと、心は病む。望みがかなうことは、いのちの木」。また、岩波書店から出ている旧約聖書は次のように翻訳しています。「期待が長引くと、心は病む。だが、望みがかなうのは命の木」。「望みがかなえられない」とは「期待が長引く」ことでもあるのです。今度こそは望みがかなうのではないかと期待しても、望みがかなわずに期待が長引いてしまう。そうすると、私たちの心は病んでしまうのです。私は、「心が病む」という言葉にも、目を引かれました。心の病は、現代病であるかのように思い込んでいたからです。しかし、考えてみれば、昔の人も心の病を患ったはずです。現代のように、いろいろな病名がなくても、心が落ち込んだり、何もする気が起きなかったり、死んでしまいたいと思うことがあったと思います(列王上19:4参照)。「望みがかなえられないと心が病む」。そのようなとき、私たちはどうすればよいのでしょうか。一つの選択肢は、かなえられない望みではなく、かなえられそうな望みを抱くということです。実現可能な望みを抱くことによって、自分の心を守るということです。もちろん、望みを小さくすることなく、かなえられるまで挑戦するという選択肢もあります。そのような願いがかなうならば、その人は命の木を得たようになるでしょう。ここでの「命の木」は、人生に活力を与えるものの象徴です。あるいは、幸福をもたらす成功の象徴です。皆さんにも、望みがかなえられないで落ち込んでしまったり、願いがかなって「生きててよかった」とうれしくなったことがあると思います。私にもそのような経験がありますので、この聖句が私の心に響いたのだと思います。

 さて、この聖句を、新約聖書の光の中で、イエス・キリストの十字架と復活の光の中で、思い巡らしてみたいと思います。

 イエス・キリストの弟子である私たちの望み、あるいは、願いとは何でしょうか。それを知る手がかりが、イエス様が弟子たちに教えられた「主の祈り」にあります。新約の9ページです。『マタイによる福音書』の第6章7節から15節までをお読みします。

 祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。

 『天におられる私たちの父よ/御名が聖とされますように。御国が来ますように。御心が行われますように/天におけるように地の上にも。私たちに日ごとの糧を今日お与えください/私たちの負い目をお赦しください/私たちも自分の負い目のある人を/赦しましたように。私たちを試みに遭わせず/悪からお救いください。』

 もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

 父なる神の御名が聖とされること。父なる神の御国が来ること。父なる神の御心が行われること。これらのことは、イエス様の願いであり、また、イエス様の弟子である私たちの願いでもあるのです。その願いがかなえられる時と場が、イエス・キリストの名によってささげられる礼拝であるのです。ですから、私たちは、礼拝において、命の木を得るのです。この地上を生きるための、上からの力をいただくのです(ネヘミヤ8:10「今日は、我らの主の聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜びとすることこそ、あなたがたの力であるからだ」参照)。

 私たちの望みが、父なる神の御名が聖とされることであり、御国が来ることであり、御心が行われることであるならば、その望みがかなえられずに、心を病んでしまうことはありません。なぜなら、私たちの主であるイエス・キリストが十字架に上げられることによって、父なる神の御名を聖としてくださったからです(ヨハネ17:4「私は、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」参照)。もちろん、父なる神の御名が完全に聖とされているわけではありません。すべての人がイエス・キリストの父なる神をほめたたえているわけではないからです。すべての人がイエス・キリストの父なる神をほめたたえるのは、イエス・キリストの再臨によってもたらされる新しい天と新しい地においてであります(フィリピ2:10、11「それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが膝をかがめ/すべての舌が『イエス・キリストは主である』と告白して/父なる神が崇められるためです」参照)。イエス・キリストにおいて到来した神の国は、すでに実現しているが、いまだ完成していないという緊張状態にあるのです。しかし、そうであっても、私たちは、イエス・キリストに御名によってささげる礼拝において、私たちの望みが実現していることを体験し、生きるための力をいただくことができるのです。

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