聖書の言葉 12:18 あたかも剣で刺すかのように軽率に語る者がいる。/知恵ある人の舌は癒やしを与える。箴言 12章18節 メッセージ 今朝は、『箴言』の第12章18節を中心にしてお話しします。 『箴言』の特徴は、パラレリズム、並行法で記されていることです。並行法とは、二つ以上の似た言葉ないし文を並べて、一つの思想を表す方法です。並行法には、同じ意味の言葉ないし文を並べる同意並行法と、反対の意味の言葉ないし文を並べる反意並行法があります。今朝の第12章18節は、反対の意味の言葉ないし文を並べる反意並行法であると言えます。 あたかも剣で刺すかのように軽率に語る者がいる。知恵ある人の舌は癒やしを与える。 私がこの御言葉を選んだのは、自分自身に覚えがあるからです。2行目の「知恵ある人の舌は癒やしを与える」の方であれば良いのですが、残念ながら1行目の「あたかも剣で刺すかのように軽率に語る者がいる」の方に覚えがあるのです。人を傷つけてしまう言葉を深く考えることなく、軽率に語ってしまう。さらには、これを言ったら傷つくのではないかと分かっていながら語ってしまうことがあります。それは、やはり、私の心が冷たいからではないかと思うのです。別の言葉で言えば、私が自己中心的であるからではないかと思うのです。そのようなことを踏まえて、今朝は、『ヤコブの手紙』の御言葉を読みたいと思います。新約の414ページです。第3章1節から12節までをお読みします。 私のきょうだいたち、あなたがたの多くは教師になるべきではありません。知ってのとおり、私たち教師はより厳しい裁きを受けるのです。私たちは皆、度々、過ちを犯します。言葉で過ちを犯さないなら、その人は体全体を制御することのできる完全な人です。馬を御するのに、口にくつわをはめれば、その体全体を操ることができます。また船を見なさい。あのように大きくて、風に激しくあおられていても、ごく小さな舵によって、舵取りの望む方に操られて行きます。同じように、舌も小さな器官ですが、大言を吐くのです。 見なさい。いかに小さな火が大きな森を燃やすことか。舌もまた火です。舌は、私たちの体の器官の中で、不義の世界を成しています。それは体全体を汚し、人生の歩みを焼き尽くし、自らもゲヘナの火によって焼き尽くされます。あらゆる種類の獣や鳥、地を這うものや海の生き物は、人類が治めており、また治めてきました。しかし、舌を治めることのできる人は一人もいません。舌は、制することのできない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私たちは舌で父なる主をほめたたえ、また、舌で神にかたどって造られた人間を呪っています。同じ口から、賛美と呪いが出て来るのです。私のきょうだいたち、このようなことがあってはなりません。泉の同じ穴から、甘い水と苦い水が湧き出るでしょうか。私のきょうだいたち、いちじくの木がオリーブの実をつけたり、ぶどうの木がいちじくの実をつけたりすることができるでしょうか。塩水が甘い水を生むこともありません。 8節で、ヤコブは、「舌を治めることのできる人は一人もいません。舌は、制することのできない悪で、死をもたらす毒に満ちています」と記します。イエス・キリストを信じたならば、舌を制御することができるようになり、人を傷つける言葉を一切口にすることはなくなるとはいかないのです。私たちはイエス・キリストによって罪赦された者ですが、なお罪の残る者であります。聖霊の御業である聖化によって、私たちは罪に死に、義に生きる者と日々造り変えられています。しかし、この地上では完全聖化はありませんので、私たちは生涯、舌を制御することに取り組まねばならないのです。私たちは、人を傷つけてしまう言葉を語る前に、このヤコブの言葉を思い起こしたいと思います。すべての人は神のかたちに似せて造られている尊い存在である。それゆえ、神をほめたたえている私たちは人を傷つける言葉を語ってはならないのです。 今朝の御言葉に戻ります。旧約の990ページです。 ソロモンは、「知恵ある人の舌は癒やしを与える」とも記しました。私たちが人を傷つける言葉ではなく、人を癒やす言葉を語るとき、私たちは、神の知恵に適って生きていると言えます。なぜなら、神が人間に言葉を与えられたのは人を癒やすため、人を慰め、励まし、力づけるためであるからです。エデンの園で罪を犯す前のアダムと女は、人を癒やすための言葉を語っていたと思います。しかし、罪を犯した後のアダムと女は、互いを傷つける言葉を語るようになったのです。罪を犯す前、アダムは女を見てこう言いました。「これこそ、私の骨の骨、肉の肉。これを女と名付けよう。これは男から取られたからである」(創世2:23)。しかし、罪を犯したアダムはこう言うのです。「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、その妻が木から取ってくれたので、私は食べたのです」(創世3:12)。このように、罪を犯したアダムは、罪の原因を神様と妻に責任転嫁したのです。アダムの最初の違反によって、人間の言葉そのものが堕落してしまったのです。ですから、私たちが神様をほめたたえることができることは驚くべきことであるのです。私たちがイエス・キリストの父なる神をほめたたえることができる。そのことは、私たちが確かに罪を赦された者であり、私たちに聖霊が与えられていることを示しているのです。それゆえ、使徒パウロは、『エフェソの信徒への手紙』の第4章29節と32節でこう記すのです。新約の350ページです。 悪い言葉を一切口にしてはなりません。口にするなら、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるために必要な善い言葉を語りなさい。神の聖霊を悲しませてはなりません。あなたがたは、聖霊によって、贖いの日のために証印を受けたのです。恨み、憤り、怒り、わめき、冒涜はすべて、一切の悪意と共に捨て去りなさい。互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。 私たちは、ヤコブが言っているように、舌を完全に制御することはできません。しかし、パウロが言っているように、聞く人に恵みが与えらえるように、その人を造り上げるために必要な言葉を語るべきであるのです。 関連する説教を探す 2025年の水曜 聖書と祈りの会 『箴言』
今朝は、『箴言』の第12章18節を中心にしてお話しします。
『箴言』の特徴は、パラレリズム、並行法で記されていることです。並行法とは、二つ以上の似た言葉ないし文を並べて、一つの思想を表す方法です。並行法には、同じ意味の言葉ないし文を並べる同意並行法と、反対の意味の言葉ないし文を並べる反意並行法があります。今朝の第12章18節は、反対の意味の言葉ないし文を並べる反意並行法であると言えます。
あたかも剣で刺すかのように軽率に語る者がいる。知恵ある人の舌は癒やしを与える。
私がこの御言葉を選んだのは、自分自身に覚えがあるからです。2行目の「知恵ある人の舌は癒やしを与える」の方であれば良いのですが、残念ながら1行目の「あたかも剣で刺すかのように軽率に語る者がいる」の方に覚えがあるのです。人を傷つけてしまう言葉を深く考えることなく、軽率に語ってしまう。さらには、これを言ったら傷つくのではないかと分かっていながら語ってしまうことがあります。それは、やはり、私の心が冷たいからではないかと思うのです。別の言葉で言えば、私が自己中心的であるからではないかと思うのです。そのようなことを踏まえて、今朝は、『ヤコブの手紙』の御言葉を読みたいと思います。新約の414ページです。第3章1節から12節までをお読みします。
私のきょうだいたち、あなたがたの多くは教師になるべきではありません。知ってのとおり、私たち教師はより厳しい裁きを受けるのです。私たちは皆、度々、過ちを犯します。言葉で過ちを犯さないなら、その人は体全体を制御することのできる完全な人です。馬を御するのに、口にくつわをはめれば、その体全体を操ることができます。また船を見なさい。あのように大きくて、風に激しくあおられていても、ごく小さな舵によって、舵取りの望む方に操られて行きます。同じように、舌も小さな器官ですが、大言を吐くのです。
見なさい。いかに小さな火が大きな森を燃やすことか。舌もまた火です。舌は、私たちの体の器官の中で、不義の世界を成しています。それは体全体を汚し、人生の歩みを焼き尽くし、自らもゲヘナの火によって焼き尽くされます。あらゆる種類の獣や鳥、地を這うものや海の生き物は、人類が治めており、また治めてきました。しかし、舌を治めることのできる人は一人もいません。舌は、制することのできない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私たちは舌で父なる主をほめたたえ、また、舌で神にかたどって造られた人間を呪っています。同じ口から、賛美と呪いが出て来るのです。私のきょうだいたち、このようなことがあってはなりません。泉の同じ穴から、甘い水と苦い水が湧き出るでしょうか。私のきょうだいたち、いちじくの木がオリーブの実をつけたり、ぶどうの木がいちじくの実をつけたりすることができるでしょうか。塩水が甘い水を生むこともありません。
8節で、ヤコブは、「舌を治めることのできる人は一人もいません。舌は、制することのできない悪で、死をもたらす毒に満ちています」と記します。イエス・キリストを信じたならば、舌を制御することができるようになり、人を傷つける言葉を一切口にすることはなくなるとはいかないのです。私たちはイエス・キリストによって罪赦された者ですが、なお罪の残る者であります。聖霊の御業である聖化によって、私たちは罪に死に、義に生きる者と日々造り変えられています。しかし、この地上では完全聖化はありませんので、私たちは生涯、舌を制御することに取り組まねばならないのです。私たちは、人を傷つけてしまう言葉を語る前に、このヤコブの言葉を思い起こしたいと思います。すべての人は神のかたちに似せて造られている尊い存在である。それゆえ、神をほめたたえている私たちは人を傷つける言葉を語ってはならないのです。
今朝の御言葉に戻ります。旧約の990ページです。
ソロモンは、「知恵ある人の舌は癒やしを与える」とも記しました。私たちが人を傷つける言葉ではなく、人を癒やす言葉を語るとき、私たちは、神の知恵に適って生きていると言えます。なぜなら、神が人間に言葉を与えられたのは人を癒やすため、人を慰め、励まし、力づけるためであるからです。エデンの園で罪を犯す前のアダムと女は、人を癒やすための言葉を語っていたと思います。しかし、罪を犯した後のアダムと女は、互いを傷つける言葉を語るようになったのです。罪を犯す前、アダムは女を見てこう言いました。「これこそ、私の骨の骨、肉の肉。これを女と名付けよう。これは男から取られたからである」(創世2:23)。しかし、罪を犯したアダムはこう言うのです。「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、その妻が木から取ってくれたので、私は食べたのです」(創世3:12)。このように、罪を犯したアダムは、罪の原因を神様と妻に責任転嫁したのです。アダムの最初の違反によって、人間の言葉そのものが堕落してしまったのです。ですから、私たちが神様をほめたたえることができることは驚くべきことであるのです。私たちがイエス・キリストの父なる神をほめたたえることができる。そのことは、私たちが確かに罪を赦された者であり、私たちに聖霊が与えられていることを示しているのです。それゆえ、使徒パウロは、『エフェソの信徒への手紙』の第4章29節と32節でこう記すのです。新約の350ページです。
悪い言葉を一切口にしてはなりません。口にするなら、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるために必要な善い言葉を語りなさい。神の聖霊を悲しませてはなりません。あなたがたは、聖霊によって、贖いの日のために証印を受けたのです。恨み、憤り、怒り、わめき、冒涜はすべて、一切の悪意と共に捨て去りなさい。互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。
私たちは、ヤコブが言っているように、舌を完全に制御することはできません。しかし、パウロが言っているように、聞く人に恵みが与えらえるように、その人を造り上げるために必要な言葉を語るべきであるのです。