主は僕の平和を望む方 2025年7月13日(日曜 夕方の礼拝)
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主は僕の平和を望む方
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- 村田寿和 牧師
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詩編 35編1節~28節
聖書の言葉
35:1 ダビデの詩。/主よ、私と争う者と争い/私と戦う者と戦ってください。
35:2 盾と大盾を手にし/私を助けるために立ち上がってください。
35:3 槍と投げ槍を構えて/私に迫り来る者に立ち向かい/私の魂に言ってください/「あなたの救いは私だ」と。
35:4 私の命を狙う者が恥と屈辱を受け/私に悪をたくらむ者が退き、辱められますように。
35:5 彼らが風の前のもみ殻のようになり/主の使いが彼らを吹き倒しますように。
35:6 彼らの道が暗く、滑りやすくなり/主の使いが彼らに追い打ちをかけますように。
35:7 彼らは訳もなく私に落とし穴と網を仕掛け/訳もなく私の魂を狙って穴を掘りました。
35:8 破滅が彼に、知らぬ間に臨みますように。/自ら仕掛けた網にかかって破滅に陥りますように。
35:9 私の魂は主によって喜び躍り/その救いによって喜び勇む。
35:10 私の骨がこぞって言います。/「主よ、誰があなたのようでありえましょうか。/苦しむ人を強い者から/苦しむ人と貧しい人を奪い取る者から/助け出される方よ」と。
35:11 悪意のある証人が立ち上がり/身に覚えのないことばかりを問い詰める。
35:12 彼らは私の善に悪をもって報い/私の魂を不毛なものにした。
35:13 彼らが病のとき/私は粗布をまとって断食し、自らを苦しめ/胸の内に祈りを繰り返した。
35:14 私は友のように、兄弟のように歩き回り/母の喪に服する子のように/打ちひしがれて、うずくまった。
35:15 ところが、私がよろめいたとき/彼らは喜んで押し寄せた。/私に向かって押し寄せた。/私の知らないよそ者までもが/私を引き裂いて鎮まらなかった。
35:16 彼らは私を試し、ひどく嘲笑い/私に向かって歯ぎしりした。
35:17 わが主よ、あなたはどのように御覧でしょうか。/彼らのたくらむ破滅から私の魂を/若獅子から私のただ一つのものを/取り戻してください。
35:18 私は大いなる集会であなたに感謝を献げ/強力な民の中で、あなたを賛美します。
35:19 偽りに満ちた敵が/私のことで喜ぶことがありませんように。/私を憎む者が訳もなく目くばせしています。
35:20 彼らは平和を語らず/地に暮らす穏やかな人々に向かい/欺きの言葉をたくらんでいます。
35:21 私に向かって彼らは大口を開け/「あはは、あはは、この目で見たぞ」と/言い張ります。
35:22 主よ、あなたは御覧になりました。/黙っていないでください。/わが主よ、私から遠ざからないでください。
35:23 わが神、わが主よ/目を覚まし、身を起こしてください/私の裁きのために、私の争いのために。
35:24 わが神、主よ/あなたの義にふさわしく私を裁いてください。/彼らが私のことで喜び
35:25 心の中で「あはは、我らの望みどおりだ」/と言わないように。/「奴を一呑みにしてやった」/と言わないように。
35:26 私の災いを喜ぶ者が皆、恥を受け、辱められ/私に対し尊大に振る舞う者が/恥と屈辱を身に負いますように。
35:27 私の義を喜ぶ人たちが楽しみ、喜び/絶えることなく言いますように/「主は大いなるかな、その僕の平和を望む方は」と。
35:28 私の舌はあなたの義を/あなたへの賛美を日夜、唱えます。詩編 35編1節~28節
メッセージ
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今夕は、『詩編』の第35編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節に、「ダビデの詩」とあるように、第35編はダビデが歌った詩編です。そのことを前提にしてお話しします。
1節後半から3節までをお読みします。
主よ、私と争う者と争い/私と戦う者と戦ってください。盾と大盾を手にし/私を助けるために立ち上がってください。槍と投げ槍を構えて/私に迫り来る者に立ち向かい/私の魂に言ってください/「あなたの救いは私だ」と。
ダビデは、「主よ」と呼びかけます。主とは、「私はあなたと共にいる」という約束を含んだ神様のお名前です(出エジプト3:12参照)。主は、預言者サムエルの手によって、サウルに代わる王として、ダビデに油を注ぎました。(サムエル上16:13参照)。ダビデは、サウル王に代わるイスラエルの王として選ばれた者であったのです。「わたしはあなたと共にいる」と言われる主は、油を注がれたダビデと共にいてくださいます。しかし、ダビデはすぐに王に即位したのではありません。ダビデが王に即位するのは、サウル王がペリシテ人との戦いで死んだ後のことです(サムエル下2:4「それからユダの人々がやって来て、そこでダビデに油を注ぎ、ユダの家の王とした」参照)。それまでは、ダビデは、サウル王から命を狙われて、逃亡生活を余儀なくされていました。そのような苦しみの中にあって、ダビデは、「主よ、私と争う者と争い/私と戦う者と戦ってください」と言うのです。2節に「盾と大盾」とあり、3節に「槍と投げ槍」とありますが、これらは比喩的な表現であり、実際に戦いが起こっているわけではありません。ダビデの争いは、日常生活における身近な者たちとの争いでした。しかし、その争いは、ダビデにとっては生きるか死ぬかの争いであったのです。
4節から6節までをお読みします。
私の命を狙う者が恥と屈辱を受け/私に悪をたくらむ者が退き、辱められますように。彼らが風の前のもみ殻のようになり/主の使いが彼らを吹き倒しますように。彼らの道が暗く、滑りやすくなり/主の使いが彼らに追い打ちをかけますように。
「私の命を狙う者」とは、ダビデの命を狙うサウル王とその部下たちのことです。ダビデは、主から油を注がれた者として、「私の命を狙う者が恥と屈辱を受け/私に悪をたくらむ者が退き、辱められますように」と祈ります。ダビデは、主の使いが、自分に悪をたくらむ者たちをもみ殻のように吹き飛ばし、彼らを陰府の道に押しやるようにと願います。ここでも戦いの比喩が用いられています。と言いますのも、主の使いは、万軍の主の兵士たちであるからです。
7節から10節までをお読みします。
彼らは訳もなく私に落とし穴と網を仕掛け/訳もなく私の魂を狙って穴を掘りました。破滅が彼に、知らぬ間に臨みますように。自ら仕掛けた網にかかって破滅に陥りますように。私の魂は主によって喜び躍り/その救いによって喜び勇む。私の骨がこぞって言います。「主よ、誰があなたのようでありえましょうか。苦しむ人を強い者から/苦しむ人と貧しい人を奪い取る者から/助け出される方よ」と。
ここでダビデは、自分を獣に、自分を苦しめる者たちを狩人に譬えています。ダビデを苦しめる者は訳もなく落とし穴を掘り、網を仕掛けます。彼らはダビデを破滅させようと策略をめぐらすのです。ここで「訳もなく」と繰り返し記されています。つまり、ダビデは何も悪いことをしていないのです。『サムエル記上』の第20章で、ダビデは、サウル王の息子ヨナタンにこう言いました。「私が何をし、私にどのような過ちがあるのでしょう。あなたの父上に対し、私がどのような罪を犯したというのでしょう。あの方は私の命を狙っています」(サムエル上20:1)。このように、サウル王はダビデの命を狙っていたのですが、それは周りの人々が、「ダビデがサウルに危害を加えようとしている」という噂を流していたからです(サムエル上24:10参照)。そのような噂を流す者たちこそ、訳もなくダビデを破滅させようと策略をめぐらす者たちであるのです。ダビデは、「破滅が彼に、知らぬ間に臨みますように。自ら仕掛けた網にかかって破滅に陥りますように」と祈ります。主が悪人の悪を用いて、罰してくださるようにと願うのです。そして、「私の魂は主によって喜び躍り、その救いによって喜び勇む」というのです。それは、ダビデは、「主が苦しむ人を強い者から、苦しむ人と貧しい人を奪い取る者から助け出してくださる」と心から信じているのです。
11節から18節までをお読みします。
悪意のある証人が立ち上がり/身に覚えのないことばかりを問い詰める。彼らは私の善に悪をもって報い/私の魂を不毛なものにした。彼らが病のとき/私は粗布をまとって断食し、自らを苦しめ/胸の内に祈りを繰り返した。私は友のように、兄弟のように歩き回り/母の喪に服する子のように/打ちひしがれて、うずくまった。ところが、私がよろめいたとき/彼らは喜んで押し寄せた。私に向かって押し寄せた。私の知らないよそ者までもが/私を引き裂いて鎮まらなかった。彼らは私を試し、ひどく嘲笑い/私に向かって歯ぎしりした。わが主よ、あなたはどのように御覧でしょうか。彼らのたくらむ破滅から私の魂を/若獅子から私のただ一つのものを/取り戻してください。私は大いなる集会であなたに感謝を献げ/強力な民の中で、あなたを賛美します。
「悪意のある証人が立ち上がり、身に覚えのないことばかりを問い詰める」とありますから、ここでは裁判のことが言われているようです。彼らはダビデの善に悪をもって報い、ダビデの魂を不毛なものにしました。ダビデは彼らが病のとき、粗布をまとい断食し、祈りを繰り返しました。ダビデは、彼らの友のように、彼らの兄弟のように打ちひしがれてうずくまったのです。イエス・キリストの使徒パウロは「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」と記していますが、ダビデは彼らが病に苦しんでいたとき、共に苦しんだのです(ローマ12:15)。しかし、ダビデがよろめいたとき、彼らは喜んで押し寄せたのです。彼らはダビデを引き裂き、ひどく嘲笑ったのです。そのような惨状(いたましい様子)を、ダビデは自分の主に申し述べるのです。そして、「彼らのたくらむ破滅から私の魂を/若獅子から私のただ一つのものを/取り戻してください」と願うのです。ダビデは、自分を引き裂く者たちを「若獅子」に譬えています。「私のただ一つのもの」とは、「ダビデの魂(命)」のことです。そして、ダビデは、「私は大いなる集会であなたに感謝を献げ/強力な民の中で、あなたを賛美します」と言うのです。ダビデは、主が願いを聞いてくださることを信じて、主に感謝をささげ、賛美するのです。イエス・キリストは、「祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」と言われました(マルコ11:24)。そのような信仰をもって、ダビデは祈っているのです。
19節から28節までをお読みします。
偽りに満ちた敵が/私のことで喜ぶことがありませんように。私を憎む者が訳もなく目くばせしています。彼らは平和を語らず/地に暮らす穏やかな人々に向かい/欺きの言葉をたくらんでいます。私に向かって彼らは大口を開け/「あはは、あはは、この目で見たぞ」と言い張ります。主よ、あなたは御覧になりました。黙っていないでください。わが主よ、私から遠ざからないでください。わが神、わが主よ、目を覚まし、身を起こしてください/私の裁きのために、私の争いのために。わが神、主よ、あなたの義にふさわしく私を裁いてください。彼らが私のことで喜び/心の中で「あはは、我らの望みどおりだ」と言わないように。「奴を一呑みにしてやった」と言わないように。私の災いを喜ぶ者が皆、恥を受け、辱められ/私に対して尊大に振る舞う者が/恥と恥辱を身に負いますように。私の義を喜ぶ人たちが楽しみ、喜び、絶えることなく言いますように/「主は大いなるかな、その僕の平和を望む方は」と。私の舌はあなたの義を/あなたへの賛美を日夜、唱えます。
ダビデは、すべてのことを御覧になっている主に、救いを求めます。「わが神、わが主よ/目を覚まし、身を起こしてください/私の裁きのために、私の争いのために」。このようにダビデが願うことができたのは、自分は敵たちが訴える悪事をしていないという確信があったからです。『サムエル記上』の第20章で、ダビデは、サウル王の息子ヨナタンにこう言っています。「あなたは主の前で僕と契約を結んでくださったのですから、僕に慈しみを示してください。もし私に過ちがあるなら、あなたが私を殺してください。どうして、私をお父上のところまで連れて行く必要があるでしょう」(サムエル上20:8)。このように、ダビデは自分が過ちを犯していないからこそ、主の助けと主の裁きを祈り求めることができたのです。ダビデが求めていたのは、主の助けだけではなく、主の正しい裁きであるのです。それゆえ、ダビデは、「わが神、主よ、あなたの義にふさわしく私を裁いてください」と祈るのです。「あなたの正しい裁きによって、私の濡れ衣を晴らしてください」と祈るのです。主なる神が、正しい裁きをされるとき、ダビデの災いを喜ぶ者たちは、恥を受けることになります。そして、ダビデの義を喜ぶ人たちは、ダビデと一緒に喜び、主をほえたえることになるのです。「主は大いなるかな、その僕の平和を望む方は」。ここには、主なる神こそ、イスラエルの王であることが言い表されています。主なる神こそ、その僕に平和(シャローム)をもたらしてくださる御方であるのです。
今夕の御言葉は、私たちに、ダビデの子孫であるイエス・キリストのことを思い起こさせます。最高法院の議員たちは、策略を用いて、偽証人を立て、イエス様を死に定めました。しかし、すべてをご存じである神様は、ご自分の正しさにふさわしく、イエス様を死者の中から栄光の体で復活させられたのです。それは、イエス様の民である私たちが喜び、主をほめたたえるためであるのです。「主は大いなるかな、その僕の平和を望む方は」とあるように、主なる神は、その僕であるイエス・キリストとその民である私たちに、平和(シャローム)を与えてくださるのです。