聖書の言葉 10:12 憎しみはいさかいを引き起こし/愛は背きのすべてを覆い隠す。箴言 10章12節 メッセージ 今朝は、『箴言』の第10章12節を中心にして短くお話しします。 第10章の1節に、「ソロモンの箴言」とありますが、これは第22章16節までの見出しとなっています(第22章17節から第24章22節までは「知恵ある人の言葉」)。第10章には、ソロモンの箴言(格言)が記されています。箴言の文体の特徴の一つは、対句法(パラレリズム)にあります。対句法は並行法とも言います。対句法(並行法)とは、一つの思想を二つ以上の似た言葉ないし文を並べて言う方法です。12節も、対句法(並行法)で記されています。しかも、反対の内容の句を並べて、一つの思想を表現する「反意対句法」(反意並行法)で記されています。12節は、「憎しみはいさかいを引き起こし」という句とその反対の内容の「愛は背きのすべてを覆い隠す」という句から成っているのです。 憎しみはいさかいを引き起こし/愛は背きのすべてを覆い隠す。 私たちは憎しみによっていさかいを引き起こします。私たちが他人と言い争っているとき、その心の中には憎しみがあるのです。他方、愛は背きのすべてを覆い隠します。私たちが他人の背きをすべて覆い隠して見えないようにしてしまうとき、その心の中には愛があるのです。いさかいを引き起こす心には憎しみがあり、背きを赦す心には愛がある。そうであれば、私たちは憎しみではなく、愛に生きる者でありたいと願います。しかし、そう願っていても、私たちの心はすぐに憎しみに支配されてしまいます。また、愛に生きようとしても、他人の背き(罪)をなかなか赦すことができません。そのことを認めたうえで、私たちは、上からの知恵を祈り求めたいと願います。『ヤコブの手紙』の第1章5節に、こう記されています。「あなたがたの中で知恵に欠けている人があれば、神に求めなさい。そうすれば、与えられます。神は、とがめもせず惜しみなくすべての人に与えてくださる方です」。 12節後半の「愛は背きのすべてを覆い隠す」という御言葉は、『ペトロの手紙一』の第4章8節に引用されています。新約の423ページです。第4章7節と8節をお読みします。 万物の終わりが迫っています。それゆえ、思慮深く振る舞い、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、互いに心から愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。 使徒ペトロは、「何よりもまず、互いに心から愛し合いなさい」と命じます。そして、『箴言』の第10章14節を引用して、「愛は多くの罪を覆うからです」と言うのです。ペトロがこのように語るとき、神様が私たちをイエス・キリストにあって愛してくださり、すべての罪を赦してくださったことが前提となっています。また、イエス・キリストの聖霊によって、私たちの心に神の愛が注がれていることが前提となっています。私たちは、イエス・キリストにあって、神様から愛され、すべての罪を赦されている者として、互いに愛し合い、罪を赦し合うことが命じられているのです(コロサイ3:13「互いに耐え忍び、不満を抱くことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」も参照)。 私たちは、旧約聖書を新約聖書の光の中で読んでいます。私たちは、「憎しみはいさかいを引き起こし/愛は背きのすべてを覆い隠す」という御言葉も、イエス・キリストの十字架と復活の光の中で思い巡らすべきであるのです。そうしますと、「憎しみ」がイエス・キリストへの憎しみであり、その「いさかい」がイエス・キリストを「十字架につけろ」と叫んだいさかいであることが分かります。そして、「愛」が、イエス・キリストの愛であり、「背き」がイエス・キリストに対する私たちの背きであることが分かるのです。そのような罪を赦された者として、私たちは憎しみではなく愛に生きることが求められているのです。 今朝は最後に、『ヨハネの手紙一』の第4章7節から11節までをお読みします。新約の433ページです。 愛する人たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれた者であり、神を知っているからです。愛さないものは神を知りません。神は愛だからです。神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちに現わされました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する人たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。 関連する説教を探す 2025年の水曜 聖書と祈りの会 『箴言』
今朝は、『箴言』の第10章12節を中心にして短くお話しします。
第10章の1節に、「ソロモンの箴言」とありますが、これは第22章16節までの見出しとなっています(第22章17節から第24章22節までは「知恵ある人の言葉」)。第10章には、ソロモンの箴言(格言)が記されています。箴言の文体の特徴の一つは、対句法(パラレリズム)にあります。対句法は並行法とも言います。対句法(並行法)とは、一つの思想を二つ以上の似た言葉ないし文を並べて言う方法です。12節も、対句法(並行法)で記されています。しかも、反対の内容の句を並べて、一つの思想を表現する「反意対句法」(反意並行法)で記されています。12節は、「憎しみはいさかいを引き起こし」という句とその反対の内容の「愛は背きのすべてを覆い隠す」という句から成っているのです。
憎しみはいさかいを引き起こし/愛は背きのすべてを覆い隠す。
私たちは憎しみによっていさかいを引き起こします。私たちが他人と言い争っているとき、その心の中には憎しみがあるのです。他方、愛は背きのすべてを覆い隠します。私たちが他人の背きをすべて覆い隠して見えないようにしてしまうとき、その心の中には愛があるのです。いさかいを引き起こす心には憎しみがあり、背きを赦す心には愛がある。そうであれば、私たちは憎しみではなく、愛に生きる者でありたいと願います。しかし、そう願っていても、私たちの心はすぐに憎しみに支配されてしまいます。また、愛に生きようとしても、他人の背き(罪)をなかなか赦すことができません。そのことを認めたうえで、私たちは、上からの知恵を祈り求めたいと願います。『ヤコブの手紙』の第1章5節に、こう記されています。「あなたがたの中で知恵に欠けている人があれば、神に求めなさい。そうすれば、与えられます。神は、とがめもせず惜しみなくすべての人に与えてくださる方です」。
12節後半の「愛は背きのすべてを覆い隠す」という御言葉は、『ペトロの手紙一』の第4章8節に引用されています。新約の423ページです。第4章7節と8節をお読みします。
万物の終わりが迫っています。それゆえ、思慮深く振る舞い、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、互いに心から愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。
使徒ペトロは、「何よりもまず、互いに心から愛し合いなさい」と命じます。そして、『箴言』の第10章14節を引用して、「愛は多くの罪を覆うからです」と言うのです。ペトロがこのように語るとき、神様が私たちをイエス・キリストにあって愛してくださり、すべての罪を赦してくださったことが前提となっています。また、イエス・キリストの聖霊によって、私たちの心に神の愛が注がれていることが前提となっています。私たちは、イエス・キリストにあって、神様から愛され、すべての罪を赦されている者として、互いに愛し合い、罪を赦し合うことが命じられているのです(コロサイ3:13「互いに耐え忍び、不満を抱くことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」も参照)。
私たちは、旧約聖書を新約聖書の光の中で読んでいます。私たちは、「憎しみはいさかいを引き起こし/愛は背きのすべてを覆い隠す」という御言葉も、イエス・キリストの十字架と復活の光の中で思い巡らすべきであるのです。そうしますと、「憎しみ」がイエス・キリストへの憎しみであり、その「いさかい」がイエス・キリストを「十字架につけろ」と叫んだいさかいであることが分かります。そして、「愛」が、イエス・キリストの愛であり、「背き」がイエス・キリストに対する私たちの背きであることが分かるのです。そのような罪を赦された者として、私たちは憎しみではなく愛に生きることが求められているのです。
今朝は最後に、『ヨハネの手紙一』の第4章7節から11節までをお読みします。新約の433ページです。
愛する人たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれた者であり、神を知っているからです。愛さないものは神を知りません。神は愛だからです。神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちに現わされました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する人たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。