聖霊の働き 2025年6月08日(日曜 朝の礼拝)
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聖霊の働き
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 16章4節~24節
聖書の言葉
16:4 「初めからこれらのことを言わなかったのは、私があなたがたと一緒にいたからである。
16:5 しかし今私は、私をお遣わしになった方のもとに行こうとしている。それなのに、あなたがたのうち誰も、『どこへ行くのか』と尋ねる者はいない。
16:6 かえって、私がこれらのことを話したので、あなたがたの心は苦しみで満たされている。
16:7 しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
16:8 その方が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする。
16:9 罪についてとは、彼らが私を信じないこと、
16:10 義についてとは、私が父のもとに行き、あなたがたがもはや私を見なくなること、
16:11 また裁きについてとは、この世の支配者が裁かれたことである。
16:12 言っておきたいことはまだたくさんあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。
16:13 しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
16:14 その方は私に栄光を与える。私のものを受けて、あなたがたに告げるからである。
16:15 父が持っておられるものはすべて、私のものである。だから、私は、『その方が私のものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
16:16 「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる。」
16:17 そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたは私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」
16:18 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」
16:19 イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたは私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる』と、私が言ったことについて、論じ合っているのか。
16:20 よくよく言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、世は喜ぶ。あなたがたは苦しみにさいなまれるが、その苦しみは喜びに変わる。
16:21 女が子どもを産むときには、苦しみがある。その時が来たからである。しかし、子どもが生まれると、一人の人が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。
16:22 このように、あなたがたにも、今は苦しみがある。しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
16:23 その日には、あなたがたが私に尋ねることは、何もない。よくよく言っておく。あなたがたが私の名によって願うなら、父は何でも与えてくださる。
16:24 今までは、あなたがたは私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」ヨハネによる福音書 16章4節~24節
メッセージ
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今朝は、教会の暦によると、聖霊の降臨をお祝いするペンテコステの礼拝です。ペンテコステは、ギリシャ語の序数で「50番目の」という意味です。過越の祭りから50日目に行われる五旬祭の日に、約束の聖霊は、イエス・キリストの弟子たちに遣わされました(使徒2章参照)。真理の霊は、「イエスは主である」と告白する私たちのもとに、既に来てくださっているのです(一コリント12:3参照)。その聖霊のお働きについて、今朝は、『ヨハネによる福音書』から教えられたいと願います。
『ヨハネによる福音書』の第13章から第16章には、イエス様が捕らえられる前に、弟子たちに語られた告別説教が記されています。イエス様は、数時間後に、御自分がユダヤ人たちによって捕らえられ、裁きを受け、十字架に上げられることをご存じでありました。また、イエス様は、御自分が死者の中から上げられ、天へと上げられ、父のもとへと帰ることをご存じでありました。イエス様は、弟子たちのもとを去って行こうとしておられます。弟子たちにとって、そのことは大きな苦しみでした。「どこへ行くのか」と尋ねられないほどに、弟子たちの心は苦しみで満たされていたのです。そのような弟子たちに、イエス様はこう言われます。7節。「しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」。ここで「実を言うと」と訳されている言葉は、直訳すると「私はあなたがたに真理を言う」となります。イエス様は、私たちに真理を教えてくださるのです。イエス様が弟子たちのもとを去って、父のもとへ行くことは、弟子たちのためになること、弟子たちの益になることであるのです。なぜなら、イエス様が父なる神のもとへ行かなければ、弁護者は弟子たちのもとへ来ないからです。「弁護者」と訳されている言葉は、パラクレートスというギリシャ語です。元々の意味は、「傍らに呼ばれた者」という意味です。聖書協会共同訳は、「傍らに呼ばれた者は弁護してくれる者である」と解釈して「弁護者」と翻訳しました。また、新改訳2017は「傍らに呼ばれた者は助けてくれる者である」と解釈して「助け主」と翻訳しています。弁護者であり、助け主であるパラクレートスとは、イエス様が御自分の名によって、父のもとから遣わされる聖霊のことです。聖霊は、天の父のもとから、イエス様によって遣わされるのです。聖霊は、イエス様に代わる、もうひとりの弁護者、助け主として遣わされるのです(14:16「私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」参照)。
イエス様は、聖霊のお働きについて、こう言われます。8節から11節。「その方が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らが私を信じないこと、義についてとは、私が父のもとに行き、あなたがたがもはや私を見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が裁かれたことである」。「その方が来れば・・・世の誤りを明らかにする」とありますが、ここでの「世」は神様によって造られていながら、神様が遣わされたイエス・キリストを受け入れない人々のことです。聖霊は、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかにします。罪について、イエス様はこう言われます。「罪についてとは、彼らが私を信じないこと」。ここでの「彼ら」は、世の代表とも言えるユダヤ人たちのことです。『ヨハネによる福音書』において、「ユダヤ人たち」は民族のことではなく、イエス様を信じない人たちのことです(民族としては、イエス様も弟子たちもユダヤ人)。ユダヤ人たちは、イエス様を、神を冒涜する罪人として、十字架の呪いの死に引き渡しました。しかし、聖霊が来られるとき、明らかになることは「罪とはイエス・キリストを信じないこと」であるのです。神様から遣わされたイエス・キリストを信じないことこそ罪であることが、聖霊のお働きによって明らかになるのです。
また、義(正しさ)について、イエス様はこう言われます。「義についてとは、私が父のもとに行き、あなたがたがもはや私を見なくなること」。神様は、十字架に上げられたイエス・キリストを、死者の中から上げられ、天の御自分のもとへと上げられました。そのようにして、神様は、イエス様が正しい者であることを明かにされるのです。神様はイエス様を復活させることによって、最高法院の判決をひっくり返されるのです。
さらに、裁きについて、イエス様はこう言われます。「また裁きについてとは、この世の支配者が裁かれたことである」。「この世の支配者」とは、イエス様を信じない人たちの背後に働く悪魔のことです。イエス様は、ユダヤ人たちによって裁かれ、十字架につけられ、死なれました。そこでは、イエス様が裁かれたように見えます。しかし、そこで裁かれ、罪に定められたのは、この世の支配者、悪魔であるのです。悪魔は、罪のない御方を死に定めることによって罪を犯すのです。悪魔は、何一つ罪を犯したことのないイエス様を死に定めたことによって断罪されたのです。
私たちも、イエス・キリストを信じる前は、世に属する者でありました。しかし、イエス様が遣わされた聖霊によって、罪について、義について、裁きについて、正しく知る者とされたのです。
聖霊の第一のお働き、それは世の誤りを明らかにすることでした。では、第二のお働きは何でしょうか。それは、弟子たちをあらゆる真理に導くことです。イエス様は、弟子たちにこう言われます。12節から15節。「言っておきたいことはまだたくさんあるが、あなたがたは今それに堪えられない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方は私に栄光を与える。私のものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、私のものである。だから、私は、『その方が私のものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである」。イエス様は、「弁護者」である聖霊のことを「真理の霊」と言われます。それは、聖霊が、弟子たちをあらゆる真理に導いてくれるからです。「私のものを受けてあなたがたに告げる」とあるように、聖霊は、イエス様が語った言葉を用いて、弟子たちをあらゆる真理に導くのです。ですから、「あらゆる真理」とは、イエス様によって示された神の真理のことです(1:17参照)。真理の霊である聖霊は、御子イエス・キリストのものを受けて語ります。そして、父なる神が持っておられるものはすべて、御子イエス・キリストのものであるのです。聖霊が弟子たちに告げることは、御子イエス・キリストの言葉であります。そして、御子イエス・キリストの言葉は、御父から語るように命じられた言葉であるのです(12:49、50「なぜなら、私は自分勝手に語ったのではなく、私をお遣わしになった父ご自身が、私の言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、私は知っている。だから、私が語ることは、父が私に言われたとおりを、そのまま語っているのである」参照)。三位一体の神は、そのメッセージにおいても一つであるのです。
神の真理は、御子イエス・キリストにおいて示されました。しかし、生まれながらの人間は、その真理を悟ることができません。人間は、真理の霊である聖霊に導かれるとき、イエス・キリストの言葉が神の言葉であり、真理であることを悟ることができるのです。ですから、私たちは、説教の前に、説教を語る者と説教を聴く者のために、聖霊の導きを祈り求めるのです。それは、聖霊なる神が、私たちをあらゆる真理に導いてくださる御方であるからです。イエス様は、「その方は私に栄光を与える」と言われます。聖霊の御業である説教の目的は、イエス・キリストの栄光をあらわすことであるのです。
聖霊の第一のお働きは、世の誤りを明らかにすることでした。また、第二のお働きは、弟子たちをあらゆる真理に導くことでした。では、第三のお働きはなんでしょうか。聖霊の第三のお働きは、イエス・キリストの霊的な臨在をもたらすことです。16節以下に、「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる」という御言葉を巡るイエス様と弟子たちとの対話が記されています。「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる」。日本語の翻訳ですと「見る」という言葉が2回用いられています。しかし、元のギリシャ語では「見る」と訳されている言葉は違う言葉です。「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなる」は、「肉の目で、物理的に見ることがない」という意味です(セオレオー、16:10の「見る」)。他方、「またしばらくすると、私を見るようになる」は「信仰の目によって見る」「霊的に、人格的にお会いする」という意味です(ホラオー、16:22「会う」)。ちなみに、第14章19節の「しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る」の「見る」はどちらもセオレオーで、復活されたイエス様が弟子たちに現れてくださることを意味しています。しかし、第16章16節の「見る」は違う言葉であるのです。ですから、第16章16節はこう訳すことができます。「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私に会うことになる」。イエス様は、これから十字架に上げられ、死者の中から上げられ、天へと上げられます。それゆえ、弟子たちは、イエス様を肉の目で見ることができなくなります。しかし、イエス様は御父のもとからもうひとりの弁護者である聖霊を遣わしてくださいます。聖霊と御言葉において、イエス様は、弟子たちと人格的に出会ってくださるのです。私たちは、復活されたイエス・キリストの姿を肉の目で見たことはありません。しかし、私たちは、イエス・キリストの聖霊と御言葉によって、イエス・キリストと人格的にお会いして、心から喜んでいるのです。22節に、「このように、あなたがたにも、今は苦しみがある。しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」とあるように、私たちは、聖霊と御言葉によって、十字架と復活の主であるイエス・キリストにお会いして、心から喜んでいるのです(礼拝の根本にある喜び!)。
私たちは、聖霊によってイエス・キリストを信じて神の子とされています(1:12参照)。私たちは、イエス・キリストに結ばれて、父なる神との親しい交わり、永遠の命を持っているのです(15:1~17参照)。それゆえ、イエス様は、23節と24節でこう言われます。「その日には、あなたがたが私に尋ねることは、何もない。よくよく言っておく。あなたがたが私の名によって願うなら、父は何でも与えてくださる。今までは、あなたがたは私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」。御子イエス・キリストの名によって祈ること、それは御子イエス・キリストに結ばれた神の子として祈るということです。父なる神は、御子イエス・キリストを信じる神の子たちの願いを喜んで聞いてくださいます。それゆえ、私たちは、与えられ喜びに満たされることを信じて、何でも願うことができるのです。「私の名によって願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」というイエス・キリストの約束を信じて、私たちは何でも願うことができるのです(一ヨハネ5:13~15「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、あなたがたが永遠の命を持っていることを知ってほしいからです。何事でも神の御心に適うことを願うなら、神は聞いてくださる。これこそ私たちが神に抱いている確信です。私たちは、願い事を何でも聞いてくださると知れば、神に願ったことは、すでにかなえられたと知るのです」参照)。