死者の中から復活したイエス 2025年4月20日(日曜 朝の礼拝)

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死者の中から復活したイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 28章1節~20節

聖句のアイコン聖書の言葉

28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
28:2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石を転がして、その上に座ったからである。
28:3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
28:4 見張りの者たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:5 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』あなたがたにこれを伝えます。」
28:8 女たちは、恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、女たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう。」

28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスの指示された山に登った。
28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。
28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、
28:20 あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイによる福音書 28章1節~20節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、イエス・キリストの復活をお祝いするイースターの礼拝です。イエス・キリストは、今からおよそ2000年前、ローマの総督ポンテオ・ピラトによって裁かれ、十字架に磔にされました。イエス・キリストは、十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。このイエス・キリストの叫びは、多くの人の罪を担った主の僕としての叫びでありました。イエス・キリストは、私たちの罪を担って、私たちに代わって神から見捨てられる絶望の死を死んでくださったのです。ですから、イエス・キリストを信じる者は、もはや罪の刑罰としての死を死ぬことはありません。イエス・キリストを信じる者にとって、死は天国の入り口となったのです。このように聞くと、「なぜ、そのように断言できますか」という疑問が湧いてくると思います。「イエス・キリストを信じる者は、罪の刑罰としての死を死ぬことはない。イエス・キリストを信じる者にとって、死は天国の入り口である」と、なぜ断言できるのか。それは、イエス・キリストが死者の中から三日目に栄光の体で復活したからです。今朝は、そのことを、『マタイによる福音書』から教えられたいと願います。

 第28章1節に、「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」とあります。「安息日」とは、週の最後の日、土曜日のことです。「週の初めの日」とは、日曜日のことです。日曜日の朝早く、マグダラのマリアともう一人のマリアは、イエス様が葬られた墓を見に行きました。この二人の女性はイエス様の弟子で、イエス様が十字架につけられて死んだ出来事を見守っていました(27:56参照)。また、イエス様が墓に葬られたことも見ていました(27:61参照)。イエス様の十字架の死と墓の葬りを見ていたマグダラのマリアともう一人のマリアが、これからイエス様が復活したことの証人(証し人)となるのです。

 マグダラのマリアともう一人のマリアが墓に着くと、大きな地震が起こりました。主の天使が天から降って来たことによって大きな地震が起こったのです。主の天使は、岩に掘った墓の入り口を塞いでいた大きな石を転がし、その上に座りました。女たちは、イエス様のお体が墓に横たわっていると思って、墓を見に来ました。しかし、天使は、女たちに、空っぽの墓を見せて、「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」と言うのです。ここで注意したいことは、天使たちは、復活したイエス様を墓の外に出すために、石を転がしたのではないということです。天使が石を転がしたときには、イエス様は既に復活していて、墓の中にはいなかったのです。では、イエス様はどのようにして、岩に掘られた墓の外に出られたのでしょうか。それはイエス様が天に属する栄光の体で復活したことと関係しています(一コリント15章参照)。つまり、イエス様は、ただ息を吹き返したのではないということです。イエス様は、時間と空間に縛られない天に属する栄光の体で復活したのです。『ヨハネによる福音書』の第20章を読むと、週の初めの日の夕方に、弟子たちが、ユダヤ人を恐れて、家の戸にみな鍵をかけて閉じこもっていたことが記されています。家の戸にみな鍵をかけていたわけですから、外からは誰も入ることはできません。しかし、復活されたイエス様は弟子たちの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。このことは、復活したイエス様が時間と空間に縛られない天に属する栄光の体で復活したことを教えています。天に属する栄光の体で復活したイエス様は、墓の石を転がすことなく、墓の外へと立ち去られたのです。

 また、天使が「かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」と言っていることにも注意したいと思います。イエス様は御自分が復活することを、弟子たちに予め告げていたのです。その予告どおり、イエス様は復活なさった。その証拠として、天使は、空っぽの墓を女たちに見せるのです。では、イエス様は、いつ、ご自分が復活することを予告されたのか。それは、第16章で、ペトロが信仰を言い表した後です。聖書を開いて確認したいと思います。新約の31ページです。

フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、イエス様は弟子たちに、「あなたがたは私を何者だと言うのか」と尋ねられました。すると、弟子たちを代表して、シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。このペトロの信仰告白を、イエス様は大変喜ばれました。しかし、イエス様は、ご自分がメシアであることを誰にも話さないように、弟子たちに命じられました。弟子たちは、イエス様がどのようなメシアであるかが分かっていなかったからです。それでイエス様は、この時から、ご自分がどのようなメシア、救い主であるのかを弟子たちに教え始めたのです。第16章21節にはこう記されています。「この時から、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と打ち明け始められた」。イエス様は、ご自分が指導者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に、神様によって復活させられるメシア、救い主であると打ち明け始められたのです。イエス様に対する神様のご計画は、イエス様が指導者たちから苦しみを受けて殺され、三日目に神様によって復活させられることであるのです。このイエス様の死と復活の予告は、三度も弟子たちに語られました(16:21、17:22,23、20:17〜19)。三度も予告されたということは、必ずそのとおりになるということです。しかし、墓を見に行った女たちは、そのことをすっかり忘れていたのです。しかし、神様は忘れることはありません。神様は、ご自分の計画どおりに、十字架につけられたイエスを死者の中から復活させられたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の58ページです。

 7節で、天使は、女たちにこう言います。「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』あなたがたにこれを伝えます」。ここで、天使は女たちに弟子たちへの伝言を託しています。十字架につけられたイエスは死者の中から復活した。この福音(良き知らせ)が託されたのは、二人の女であったのです。当時、紀元1世紀のユダヤの社会において、女の証言は有効ではありませんでした。しかし、神様は、イエス・キリストが死者の中から復活したという良き知らせを、二人の女に託されたのです。このことは、私たちに、男の証言だけではなく、女の証言も有効であることを教えています。イエス・キリストの福音を宣べ伝えるのに、男も女もないのです(ガラテヤ3:28参照)。

 女たちは、恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行きました。すると、復活したイエス様が行く手に立っていて、「おはよう」と言われたのです。「おはよう」と訳されている言葉(カイレー)は直訳すると「喜べ」となります。復活したイエス様が最初に言われた言葉、それは「喜びなさい」という言葉であったのです(フィリピ4:4参照)。「喜びなさい」。これは、今朝、私たちに言われている言葉でもあります。私たちは、週の始めの日の朝に、イエス・キリストの復活を祝う礼拝に集っています。その私たちに、イエス様は、「喜びなさい」と言われるのです。それは、イエス・キリストが、弟子である私たちの初穂(最初の実り)として復活したからです(一コリント15:20参照)。イエス・キリストの復活を祝うことは、私たち自身の復活を祝うことでもあるのです。

 イエス様は、ひれ伏す女たちにこう言います。「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう」。このイエス様の御言葉は、天使からの伝言とほぼ同じです。ただひとつ違うことは、イエス様が弟子たちのことを「きょうだいたち」と呼んでいることです(もとの言葉には「私のきょうだいたち」と記されている。新共同訳、新改訳2017参照)。イエス様が捕らえられた夜、弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまいました(26:56参照)。一番弟子のペトロでさえ、我が身かわいさに、イエス様との関係を三度否定しました(26:69〜75参照)。そのような弟子たちを、イエス様は「私のきょうだいたち」と呼ぶのです。イエス様はご自分を見捨てた弟子たちの罪を赦して、ご自分の兄弟姉妹として受け入れてくださるのです。このことは、私たちにとっても福音(良き知らせ)です。イエス・キリストは、弟子である私たちの罪を赦して、ご自分の兄弟姉妹として受け入れてくださいます。イエス・キリストを信じる私たちは、神様を父とし、イエス様を長兄(一番上の兄)とする神の家族の一員とされているのです(12:50参照)。

 女たちは、天使から言われたこと、イエス様から言われたことを、弟子たちに伝えました。そして、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行き、イエス様から指示された山に登ったのです。イエス様は山の上で待っておられたのでしょう。弟子たちは、イエス様に会い、ひれ伏しました。しかし、ひれ伏しながらも、疑う者もいたのです。復活したイエス様を目の当たりにしながらも、イエス様が復活したことを疑う者もいたのです。死者の中からの復活は、当時の人々にとっても信じがたい出来事であったのです。その弟子たちの疑いを吹き払うように、イエス様は近づいて、御言葉を与えられます。復活したイエス様は、弟子たちにこう言われます。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」。天と地の一切の権能を持っている神様は、復活したイエス様に、天と地の一切の権能を授けられました。それゆえ、イエス様は、「すべての民を私の弟子にしなさい」と言われるのです。すべての民をイエス様の弟子にすることは、イエス様がすべての民に対する権能を授かっていることに根拠を持つのです。権能とは「ある事柄について権利を主張し、行使することのできる能力」を意味します(明鏡国語辞典)。イエス様は、すべての民をご自分の弟子にすることができる権利と能力、権能を持っているのです。それゆえ、イエス様は、私たちにも、「あなたがたは行って、すべて民を弟子にしなさい」と言われるのです。

 「すべての民を弟子にする」とは、具体的にはどういうことでしょうか。続けてイエス様はこう言われます。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい」。ここには、父と子と聖霊という神様の三つの位格(スリー パーソンズ)が記されています。神様はただ一人の御方ですが、父と子と聖霊という三つの位格を持つ、三位一体の神であるのです。そのことは、父と子と聖霊という三者を受けながら「名」(ホノマ)が単数形で記されていることによって示されています(英語で言えばネームズではなくネームと記されている)。洗礼とは水の洗いのことですが、イエス・キリストの弟子である私たちは皆、父と子と聖霊の名によって洗礼を受けています。そのようにして、私たちは、聖霊において、父なる神と子なる神イエス・キリストとの交わりにあずかる者となったのです(私たちはイエス様の兄弟姉妹となることによって、神の子とされた)。そして、私たちは、聖書に記されているイエス・キリストの教えを学んでいるのです。

 最後にイエス様はこう言われます。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。『使徒言行録』を読むと、復活したイエス・キリストが、弟子たちの見ている前で、天に昇ったことが記されています。天に昇ったイエス・キリストは、父なる神の右の座に着いて、弟子たちに聖霊を与えてくださいました。では、イエス様は、弟子である私たちと共にいてくださらないのでしょうか。そうではありません。復活されたイエス・キリストは、聖霊と御言葉において、いつも私たちと共にいてくださるのです。イエス・キリストは、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」と言われました(18:20)。イエス・キリストは、私たちの只中に、聖霊と御言葉において、共にいてくださるのです。それゆえ、私たちは喜びに溢れて、すべての人に、イエス・キリストの福音を宣べ伝えているのです。

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