イエス・キリストを預言する詩編 2025年4月13日(日曜 夕方の礼拝)

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イエス・キリストを預言する詩編

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 69編1節~37節

聖句のアイコン聖書の言葉

69:1 指揮者によって。「百合」に合わせて。ダビデの詩。
69:2 神よ、私を救ってください。/大水が喉元にまで迫っているからです。
69:3 私は深い泥沼にはまり込み/足がかりもありません。/大水の深みに沈み/激流が私を押し流します。
69:4 叫び疲れて、喉は涸れ/わが神を待ち望み、目は衰えました。
69:5 いわれなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く/私を滅ぼそうとする者/偽り者の私の敵は強いのです。/私は自分が奪わなかったものさえも/償わなければなりません。
69:6 神よ、あなたは私の愚かさをご存じです。/私の犯した罪もあなたには隠すことができません。
69:7 わが主、万軍の主よ/あなたに望みを置く人が/私のことで恥じ入ることがありませんように。/イスラエルの神よ/あなたを尋ね求める人が私のことで/屈辱を受けることがありませんように。
69:8 私はあなたのゆえにそしられ/顔は恥辱に覆われています。
69:9 兄弟にとっては見知らぬ者/同じ母の子らにとってはよそ者となりました。
69:10 あなたの家を思う熱情が私を食い尽くし/あなたをそしる者のそしりが/私の上に降りかかっています。
69:11 私が断食し、自分のことで泣けば/そのことでそしられ
69:12 粗布を衣とすれば/私は彼らの話の種となります。
69:13 町の門に座る人々は私を噂の的とし/酒に酔った者は嘲り歌います。
69:14 しかし主よ、私はあなたに向かって祈ります。/神よ、御旨に適うとき/豊かな慈しみとまことの救いとによって/答えてください。
69:15 泥沼にはまり込んだままにならないように/助け出してください。/私を憎む者から/大水の深みから助け出してください。
69:16 大水の激流が/私を押し流すことがありませんように。/深い底が呑み込むことがありませんように。/穴が私の上に口を閉ざすことがありませんように。
69:17 主よ、恵みと慈しみのゆえに答えてください。/深い憐れみにふさわしく御顔を向けてください。
69:18 僕に御顔を隠さないでください。/私は苦難の中にあります。/急いで答えてください。
69:19 私の魂に近づき、贖い/敵から解き放ってください。
69:20 あなたはご存じです/私が受けたそしりを、恥を、辱めを。/私を苦しめる者はすべてあなたの前にいます。
69:21 そしりは私の心を打ち砕き/私は病に伏しました。/望んでも同情は得られず/慰めてくれる人もいません。
69:22 彼らは私の食物に毒を入れ/渇く私に酢を飲ませようとします。
69:23 彼らの食卓が彼ら自身の罠となり/その仲間には落とし穴となりますように。
69:24 彼らの目が曇って見えなくなりますように。/その腰を絶えず震えさせてください。
69:25 あなたの憤りを彼らの上に注ぎ/あなたの燃える怒りが/彼らに迫るようにしてください。
69:26 彼らの宿営は荒れ果て/その天幕に住む者はいなくなりますように。
69:27 彼らは、あなたに打たれた人をなおも迫害し/あなたに刺し貫かれた人の痛みを/数え上げているからです。
69:28 彼らの罰には罰を与え/あなたの義にあずからせないでください。
69:29 彼らが命の書から消し去られ/正しき人と並んで書き記されることが/ありませんように。
69:30 私は苦しみ、痛みの中にいます。/神よ、あなたの救いが/私を高く上げてくださいますように。
69:31 私は歌をもって神の名を賛美し/感謝をもって、神を崇めます。
69:32 それは雄牛よりも/角と割れたひづめのある牛よりもなお/主の喜びとなるでしょう。
69:33 苦しむ人はこれを見て喜びます。/神を尋ね求める人よ/あなたがたの心に命が与えられますように。
69:34 主は貧しい人に耳を傾け/捕らわれた民を決して侮ることはありません。
69:35 天と地、海とその中にうごめくものすべてが/主を賛美しますように。
69:36 神は必ずシオンを救い、ユダの町を築かれる。/彼らはそこに住み、そこを受け継ぐ。
69:37 主の僕らの子孫はこれを譲り受け/主の名を愛する人はその中に住む。
詩編 69編1節~37節

原稿のアイコンメッセージ

 今週は、イエス・キリストの苦しみと死を覚える受難週です。それで、今夕は、『詩編』の第69編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。第69編は、イエス・キリストを預言する詩編です。そのことを念頭に置きながら、読み進めて行きたいと思います。

 1節に、「指揮者によって。『百合』に合わせて。ダビデの詩」とあるように、第69編は、イスラエルの王ダビデが歌った詩編であります。そのことを前提にしてお話しします。

 2節から5節までをお読みします。

 神よ、私を救ってください。大水が喉元にまで迫っているからです。私は深い泥沼にはまり込み/足がかりもありません。大水の深みに沈み/激流が私を押し流します。叫び疲れて、喉は涸れ/わが神を待ち望み、目は衰えました。いわれなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く/私を滅ぼそうとする者/偽り者の私の敵は強いのです。私は自分が奪わなかったものさえも/償わなければなりません。

 ダビデは、「神よ、救ってください」と叫びます。このときダビデは、大きな苦しみの中にありました。ダビデは、大きな苦しみを、深い泥の沼にはまり込んだことに譬えます。足がかりもなく、深い泥の沼にズブズブと沈んでしまうことに譬えるのです。また、ダビデは、大きな苦しみを、大水の深みに沈み、激流によって押し流されることに譬えます。激しく流れる大水が、ダビデの命を呑み込もうとしているのです。そのような大きな苦しみの中で、ダビデは、「神よ、私を救ってください」と叫ぶのです。4節を見ると、これまでも、ダビデが神に叫び続けていたことが分かります。ダビデは叫び疲れて、喉は涸れ、自分の神を待ち望んで、目が衰えるほどであったのです。ダビデの大きな苦しみとは、何だったのでしょうか。それは、いわれなくダビデのことを憎む者たちによる苦しみでした。多くの人が理由もなくダビデを憎み、ダビデを滅ぼすために偽りの証言をしていたのです。ダビデは、自分を憎む者たちの偽りの証言によって、自分が奪わなかったものさえ償わねばならないほど惨(みじ)めな状態にあったのです。

 6節から13節までをお読みします。

 神よ、あなたは私の愚かさはご存じです。私の犯した罪もあなたには隠すことができません。わが主、万軍の主よ/あなたに望みを置く人が/私のことで恥じ入ることがありませんように。イスラエルの神よ/あなたを尋ね求める人が私のことで/屈辱を受けることがありませんように。私はあなたのゆえにそしられ/顔は恥辱に覆われています。兄弟にとっては見知らぬ者/同じ母の子らにとってはよそ者となりました。あなたの家を思う熱情が私を食い尽くし/あなたをそしる者のそしりが/私の上に降りかかっています。私が断食し、自分のことで泣けば/そのことでそしられ/粗布を衣とすれば/私は彼らの話の種となります。町の門に座る人々は私を噂の的とし/酒に酔った者は嘲り歌います。

 ダビデは、神に、自分の愚かさを告白します。また、ダビデは、自分が神の御前に罪を犯したことを率直に告白します。ダビデは、「愚かな罪人である私を、神よ、救ってください」と言うのです。

 7節でダビデは、「神に望みを置く人が自分のことで恥じ入ることがありませんように。神を尋ね求める人が自分のことで屈辱を受けることがありませんように」と言います。ここでダビデは、王である自分とその民であるイスラエルの人々を一体的に考えています。神によってイスラエルの王とされたダビデが、偽り者の敵に屈服するようなことがあれば、その民である、神に望みを置く人々は恥じ入ることになるのです。そのようなことがないように、「神よ、私を救ってください」とダビデは言うのです。

 ダビデは、人々からのそしり(悪口や非難)を、神のゆえであると言います。ダビデは、神の御心に従って歩んでいるゆえに、人々からそしられているのです。ダビデは、同じ母から生まれた兄弟たちからもそしられ、見知らぬ者、よそ者となってしまいました。ダビデは深い孤独の中にあったのです。しかし、ダビデは、主の御心に従って歩み続けました。10節に、「あなたの家を思う熱情が私を食い尽くし」とあるように、ダビデは、神の家を思う熱情にとらわれているのです。「あなたの家を思う熱情が私を食い尽くし」。この御言葉を、福音書記者ヨハネは、イエス様が神殿から商人を追い出した場面で引用しています(ヨハネ2:17参照)。ダビデの時代、まだ神殿はありませんでした。ですから、ここでの「あなたの家」は「神の家族であるイスラエルの民」を意味すると理解したいと思います。神の家族であるイスラエルの民を思う熱情のゆえに、神をそしる者のそしりがダビデのうえに降りかかっていたのです。

 ダビデをそしる者は、ダビデが断食して泣けばそのことでそしり、粗布を衣とすれば話の種としました。彼らは、自分たちが言っていたとおり、ダビデは罪を犯したのだと言ってそしり、噂するのです。そのようなダビデについての噂は、公共の場である町の門に座る人々に広まり、酒に酔った者の嘲りの歌となったのです。

 14節から19節までをお読みします。

 しかし主よ、私はあなたに向かって祈ります。神よ、御旨に適うとき/豊かな慈しみとまことの救いとによって/答えてください。泥沼にはまり込んだままにならないように/助け出してください。私を憎む者から/大水の深みから助け出してください。大水の激流が/私を押し流すことがありませんように。深い底が呑み込むことがありませんように。穴が私の上に口を閉ざすことがありませんように。主よ、恵みと慈しみのゆえに答えてください。深い憐れみにふさわしく御顔を向けてください。僕に御顔を隠さないでください。私は苦難の中にあります。急いで答えてください。私の魂に近づき、贖い/敵から解き放ってください。

 ダビデは、再び、主に祈ります。ダビデは自分の苦しみを、泥沼や大水の激流に再び譬えます。ここで注意したいことは、ダビデが、「神よ、御旨に適うとき/豊かな慈しみとまことの救いとによって/答えてください」と祈っていることです。ダビデは、「御旨に適うとき」に救ってくださいと言うのです。神様がもっとも良いと思われる時に、神様のタイミングで救ってくださいと言うのです。また、17節にも注意したいと思います。ダビデは、「主よ、恵みと慈しみのゆえに答えてください。深い憐れみにふさわしく御顔を向けてください」と祈ります。ダビデが主に祈ることができる根拠は、契約の神である主の恵みと慈しみにあるのです。主は憐れみ深いお方であるゆえに、ダビデは「私の魂に近づき、贖い/敵から解き放ってください」と祈ることができるのです。

 20節から29節までをお読みします。

 あなたはご存じです。私が受けたそしりを、恥を、辱めを。私を苦しめる者はすべてあなたの前にいます。そしりは私の心を打ち砕き/私は病に伏しました。望んでも同情は得られず/慰めてくれる人もいません。彼らは私の食物に毒を入れ/渇く私に酢を飲ませようとします。彼らの食卓が彼ら自身の罠となり/その仲間には落とし穴となりますように。彼らの目が曇って見えなくなりますように。その腰を絶えず震えさせてください。あなたの憤りを彼らの上に注ぎ/あなたの燃える怒りが/彼らに迫るようにしてください。彼らの宿営は荒れ果て/その天幕に住む者はいなくなりますように。彼らは、あなたに打たれた人をなおも迫害し/あなたに刺し貫かれた人の痛みを/数え上げているからです。彼らの罰には罰を与え/あなたの義にあずからせないでください。彼らが命の書から消し去られ/正しき人と並んで書き記されることがありませんように。

 ダビデは、神がご存じである自分の苦しみを訴えます。それによって、ダビデは苦難の中にある自分に、神が急いで答えてくださるように促すのです。ダビデが病に伏しても慰めてくれる人はおらず、かえって彼らは食物に毒を入れ、酢を飲ませようとするのです。ダビデの敵たちは、病に伏すダビデを慰めるどころか、苦しめるのです。「渇く私に酢を飲ませようとします」。このことが、ダビデの子孫であるイエス・キリストにおいて実現しました。ここは聖書を開いて確認したいと思います。『ヨハネによる福音書』の第19章28節から30節までをお読みします。新約の203ページです。

 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酢を満たした器が置いてあった。人々は、この酢をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口元に差し出した。イエスは、この酢を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

 ここには、「渇く私に酢を飲ませようとします」という聖書の言葉が、そのとおりにイエス様のうえに実現したことが記されています。このことは、『詩編』の第69編が、イエス様の御苦しみを預言するメシア預言であることを示しているのです。ここでの「酢」はローマの兵士たちが飲む、酸っぱいぶどう酒のことです。その酸っぱいぶどう酒が、イエス様の勝利の杯であったのです。なぜなら、十字架の苦難の死においてこそ、神の救いは成し遂げられたからです(イザヤ53章参照)。

 今夕の御言葉に戻ります。旧約の886ページです。

 23節から29節には、報復を求める祈りが記されています(「報復」とは「仕返しをすること」の意味)。ダビデは、神の正しい裁きを信じる者として、報復を祈り求めるのです。このような報復の祈りは、私たちを戸惑わせます。と言いますのも、私たちの主イエス・キリストは、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈りなさい」と言われているからです(ルカ6:27、28)。実際、私たちの主イエス・キリストは、十字架の上で、報復を祈り求めませんでした。イエス・キリストは、御自分を十字架につけてあざける人々のためにこう祈られたのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23:34)。イエス・キリストは、自分を殺そうとする者たちのために、執り成しの祈りをささげられたのです。ですから、イエス・キリストの民である私たちは、報復を祈り求めてはならないのです(使徒7:60「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」参照)。

 30節から37節までをお読みします。

 私は苦しみ、痛みの中にいます。神よ、あなたの救いが/私を高く上げてくださいますように。私は歌をもって神の名を賛美し/感謝をもって、神を崇めます。それは雄牛よりも/角と割れたひづめのある牛よりもなお/主の喜びとなるでしょう。苦しむ人はこれを見て喜びます。神を尋ね求める人よ/あなたがたの心に命が与えられますように。主は貧しい人に耳を傾け/捕らわれた民を決して侮ることはありません。天と地、海とその中にうごめくものすべてが/主を賛美しますように。神は必ずシオンを救い、ユダの町を築かれる。彼らはそこに住み、そこを受け継ぐ。主の僕らの子孫はこれを譲り受け/主の名を愛する人はその中に住む。

 31節に、「私は歌をもって神の名を賛美し/感謝をもって、神を崇めます」とあるように、ダビデは主に感謝します。ダビデは、今なお苦しみと痛みの中にいます。しかし、ダビデは、主が祈りに答えてくださった確信を与えられて、神に感謝するのです。そして、このことは、ダビデだけではなく、主に従うゆえに苦しむ人の喜びとなるのです。ダビデが救われることによって、神を尋ね求める人の心に、命が与えられるのです。主に依り頼むダビデの祈りが聞かれることは、主に依り頼むすべての貧しい人の希望となるのです(イエス・キリストの祈りが聞かれて死者の中から復活したことが、その民である私たちの希望であるように)。

 34節に、主が捕らわれた民を決して侮られないこと。また、36節と37節に、神がユダの町を築き、主の名を愛する人がその中に住むことが記されています。この所は、ダビデの後の時代、バビロン捕囚後の時代に書き加えられたようです。この詩編を、イエス・キリストを預言する詩編として読むとき、ここに、罪の奴隷状態からの解放と、新しいエルサレムに住むことになる私たちの将来が預言されていると読むことができます(黙21章参照)。父なる神は、イエス・キリストを死者の中から三日目に復活させ、高く上げてくださいました。このダビデの祈りは、その子孫であるイエス・キリストにおいて、確かに実現したのです。

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