十字架につけられたイエス 2025年4月13日(日曜 朝の礼拝)

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十字架につけられたイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 27章32節~56節

聖句のアイコン聖書の言葉

27:32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、この人を徴用し、イエスの十字架を担がせた。
27:33 そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、
27:34 胆汁を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。
27:35 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその衣を分け合い、
27:36 そこに座って見張りをしていた。
27:37 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。
27:38 同時に、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられた。
27:39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスを罵って、
27:40 言った。「神殿を壊し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
27:41 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
27:42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
27:43 彼は神に頼ってきた。お望みならば、神が今、救ってくださるように。『私は神の子だ』と言っていたのだから。」
27:44 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスを罵った。
27:45 さて、昼の十二時から全地は暗くなり、三時に及んだ。
27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。
27:47 そこに立っていた何人かが、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。
27:48 するとすぐ、そのうちの一人が走り寄り、海綿を取って酢を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませた。
27:49 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
27:50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
27:51 その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、
27:52 墓が開いて、眠りに就いていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。
27:53 そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人に現れた。
27:54 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。
27:55 またそこでは、大勢の女たちが遠くから見守っていた。イエスに仕えてガリラヤから従って来た女たちであった。
27:56 その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。マタイによる福音書 27章32節~56節

原稿のアイコンメッセージ

 今週は、主イエス・キリストの御苦しみを覚える受難週です。イエス・キリストは、今からおよそ2000年前の今週の金曜日に、ローマの総督ポンテオ・ピラトによって裁かれ、十字架につけられて死なれました。そのことを、今朝は、『マタイによる福音書』から教えられたいと願います。

 32節に、「兵士たちは出ていくと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、この人を徴用し、イエスの十字架を担がせた」とあります。十字架に磔にされる者は、十字架の横木を背負って、処刑場まで歩いて行ったと言われます。しかし、このとき、イエス様は、十字架の横木を背負うことができないほど、衰弱していたようです。イエス様は、昨晩から何も食べておらず、一睡もしていませんでした。また、ローマ兵から鞭打ちを受けていました。そのため、イエス様は、十字架の横木を背負うことができないほど衰弱していたのです。それで、兵士たちは、シモンというキレネ人を徴用して、イエス様の十字架の横木を担がせたのです。「されこうべの場所」と呼ばれる「ゴルゴタ」が処刑場でした。兵士たちは、胆汁を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしましたが、イエス様はなめただけで、飲もうとはされませんでした。「胆汁をまぜたぶどう酒」とは、麻酔のようなものです。十字架刑は、生きたまま手首や足の踵を釘で打ちつけて磔にするので、痛みを和らげるために麻酔のようなものを飲ませようとしたのです。しかし、イエス様は、それをなめただけで、飲みませんでした。このことは、イエス様が、十字架の死を積極的に、主体的に死のうとしておられることを教えています。イエス様は朦朧とした意識の中で死ぬのではなく、はっきりした意識の中で死ぬことを選ばれたのです。兵士たちは、イエス様を十字架につけました。イエス様は、生きたまま十字架の木に磔にされたのです。兵士たちは、くじを引いてその衣を分け合い、そこに座って見張りをしていました。兵士たちが、イエス様の衣を分け合っていたことは、イエス様が裸同然で、十字架につけられたことを教えています。イエス様は、裸同然の傷だらけの体で、十字架に磔にされたのです。イエス様の頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」との罪状書きが掲げられました。なぜ、これが罪状書きになるのかと言えば、当時、紀元1世紀のユダヤの国は、ローマ帝国の属州であり、自分たちの王様を持つことができなかったからです。ユダヤ人の王と名乗る者はローマ皇帝に背く者と見なされたのです。イエス様は、ローマ皇帝に背く、ユダヤ人の王として処刑されるのです。「これはユダヤ人の王イエスである」。この罪状書きは、十字架に磔にされているイエスこそ、ユダヤ人の王であることを示しています。福音書記者マタイは、第1章と第2章で、イエス様が、ユダヤ人の王としてお生まれたことを記しました(マタイ2:2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」参照)。そして、第16章で、ペトロが弟子たちを代表して、イエス様のことを「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したことを記しました。「メシア」とは「油注がれた者」という意味で、「王様」を意味しています。ですから、ペトロは、イエス様に対して、「あなたは王であり、生ける神の子です」と告白したのです。しかし、イエス様は、弟子たちに、「ご自分がメシアであることを誰にも話さないように」と命じられました。そして、「ご自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と弟子たちに打ち明け始められたのです。そのイエス様のお言葉が、今やそのとおりになっているわけですね。そして、その苦しみの只中で、罪状書きというかたちで、イエス様がユダヤ人の王、メシアであることが公に示されたのです。イエス様と一緒に二人の強盗が一人は右にもう一人は左に、十字架につけられました。ゴルゴタには、イエス様を真ん中にして、三本の十字架が立てられたのです。十字架刑は見せしめの刑ですから、1メートルから3メートルほど高い位置で磔にされました。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエス様を罵って、こう言います。「神殿を壊し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」。この人々の言葉は、ユダヤ人の最高法院での裁判を背景にしています。イエス様は、ローマの総督ポンテオ・ピラトによって裁かれる前に、ユダヤの最高法院によって裁かれていたのです。第26章57節から68節までをお読みします。新約の53ページです。

 人々はイエスを捕らえ、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。ペトロは遠くからイエスの後に付いて、大祭司の中庭まで行き、成り行きを見届けようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスに対する偽証を求めた。偽証者が何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか。この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」イエスは黙っておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。だが、私は言っておく。あなたがたは間もなく/人の子が力ある方の神の右に座り/天の雲に乗って来るのを見る。」そこで、大祭司は衣を引き裂いて言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打って、「メシア、お前を殴ったのは誰か、言い当ててみろ」と言った。

 61節に、二人の者が来て、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げたと記されています。この二人の者の証言が真実と見なされて、人々に伝えられていたようです。また、イエス様がご自分のことを「神の子であり、メシア、王である」と言ったと、人々に伝えられていたようです。イエス様は、『ダニエル書』の第7章の御言葉を引用することによって、ご自分が世界と歴史を裁く栄光の人の子であるとお語りになりました。イエス様は、ご自分が『ダニエル書』の第7章が預言する神の子であり、メシア、王であると言われたのです。そこで大祭司は衣を引き裂いて「神を冒涜した」と言いました。また、議員たちは「死刑にすべきだ」と答えました。つまり、大祭司と最高法院の議員たちは、イエス様を偽メシアであると判断して、死刑にするために、ローマの総督ポンテオ・ピラトに引き渡したのです。最高法院の議員たちは、イエス様をローマ皇帝に逆らうユダヤ人の王と自称する者として、ピラトの手に引き渡したのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の56ページです。

 41節以下を見ると、最高法院の議員である祭司長たちと律法学者たちと長老たちがイエス様を侮辱したことが記されています。彼らは、イエス様の死を見届けようと来ていたのです。彼らはイエス様を侮辱してこう言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。彼は神に頼って来た。お望みならば、神が今、救ってくださるように。『私は神の子だ』と言っていたのだから」。このように、祭司長たちが言ったのは、十字架にかけられて死ぬことが、神の呪いの死を死ぬことであったからです。『申命記』の第21章に、「木に掛けられた者は、神に呪われた者だからである」と記されています。「神の子が、神に呪われて死ぬなど、おかしいではないか。神の子なら、十字架から降りて来い」と祭司長たちは言ったのです。これは、イエス様にとって最大の誘惑です。福音書記者マタイは、第4章で、イエス様が荒れ野で悪魔から誘惑を受けたことを記しました。その悪魔が祭司長たちの背後で働いて、イエス様を誘惑しているのです。イエス様は神の子ですから、能力としては、十字架から降りることができます。しかし、イエス様は神の子であるゆえに、十字架から降りないのです。なぜなら、神の望みは、神の子であるイエス様が主の僕として、多くの人の罪を担い、十字架の死を死ぬことであるからです。この神の望みについては、『イザヤ書』の第53章に記されています。旧約の1134ページです。第52章13節から第53章12節までをお読みします。

 見よ、わが僕は栄える。彼は高められ、上げられ、はるかに高くなる。多くの人が彼のことで驚いたように/その姿は損なわれ、人のようではなく/姿形は人の子らとは違っていた。そうして、彼は多くの国民を驚かせる。王たちは彼について口を閉ざす。彼らは、自分たちに告げられていなかったことを見/聞いていなかったことを悟るからだ。私たちが聞いたことを、誰が信じただろうか。主の腕は、誰に示されただろうか。この人は主の前で若枝のように/乾いた地から出た根のように育った。彼には見るべき麗しさも輝きもなく/望ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/痛みの人で、病を知っていた。人々から顔を背けられるほど軽蔑され/私たちも彼を尊ばなかった。彼が担ったのは私たちの病/彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし、私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれて/苦しめられたのだと。彼は私たちの背きのために刺し貫かれ/私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって/私たちに平安が与えられ/彼が受けた打ち傷によって私たちは癒された。私たちは皆、羊の群れのようにさまよい/それぞれ自らの道に向かって行った。その私たちすべての過ちを/主は彼に負わせられた。彼は虐げられ、苦しめられたが/口を開かなかった。屠り場に引かれて行く小羊のように/毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように/口を開かなかった。不法な裁きにより、彼は取り去られた。彼の時代の誰が思ったであろうか。私の民の背きのために彼が打たれ/生ける者の地から絶たれたのだと。彼は暴虐をなさず/口には偽りがなかったのに/その墓は悪人どもと共にされ/富める者と共に葬られた。主は彼を打ち砕くことを望まれ、病にかからせた。彼が自分の命を償いのいけにえとするなら、その子孫を見、長寿を得る。主の望みは彼の手によって成し遂げられる。彼は自分の魂の苦しみの後、光を見/それを知って満足する。私の正しき僕は多くの人を義とし/彼らの過ちを自ら背負う。それゆえ、私は多くの人を彼に分け与え/彼は強い者たちを戦利品として分け与える。彼が自分の命を死に至るまで注ぎ出し、背く者の一人に数えられたからだ。多くの人の罪を担い/背く者のために執り成しをしたのは/この人であった。

 ここに記されている主の望みとは、正しき僕が、多くの人の罪を担って、償いの死を死ぬことであるのです。その主の望みを成し遂げる、主の僕として、イエス様は、十字架の死を死なれるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の57ページです。

 45節に、「さて、昼の十二時から全地は暗くなり、三時に及んだ」と記されています。このことは、十字架につけられたイエス様のうえに、主の日の裁きが臨んでいたことを示しています。『アモス書』の第8章で、主はこう仰せになりました。「その日になると/私は真昼に太陽を沈ませ/白昼に地を闇とする」。真昼に全地が暗くなったことは、十字架につけられたイエス様のうえに、神の裁きが臨んでいたことを示しているのです。この暗闇は三時間は神の沈黙の三時間であったと言えます。沈黙する神に対して、イエス様は、大声でこう叫ばれるのです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。ここでイエス様は「わが神、わが神」と言われました。イエス様は、これまで、「父」と呼びかけて、祈りをささげてきました。しかし、ここでは、「わたしの神よ」と呼びかけ、祈られたのです。このことは、イエス様が主の僕として、多くの人の罪を担って死のうとしておられることを教えています。イエス様は、私たちの罪を担って、私たちに代わって、十字架のうえで、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。それは、イエス・キリストを信じる私たちが、神に見捨てられる絶望の死を死ぬことがないようにするためです。イエス・キリストの十字架の死が、自分の罪のためであったと信じる人は、神から見捨てられる絶望の死を死ぬことはありません。なぜなら、イエス・キリストが私たちに代わって、神から見捨てられる絶望の死を死んでくださったからです。

イエス様の叫びを聞いた何人かは、「この人はエリヤを呼んでいる」と勘違いしました。彼らは、イエス様を元気づけて、エリヤが救いに来るかどうか見ていようとしました。しかし、イエス様は再び大声で叫び、息を引き取られました(直訳は「霊をはなつ」)。その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。この神殿の垂れ幕は、聖所と至聖所を隔てる垂れ幕のことです。至聖所は、聖所の中の聖所であり、神様が臨在される場所であります。その聖所と至聖所を隔てる垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたことは、イエス様の十字架の死によって、神殿祭儀が終わりを迎えたことを意味しています。『ヘブライ人への手紙』によれば、イエス様は、永遠の大祭司として、ご自分の体を永遠の贖いとしてささげられたのです。ですから、私たちは、十字架につけられて死んで、三日目に復活されたイエス・キリストの御名によって、大胆に恵みの座に近づくことができるのです。

 百人隊長や見張りをしていた人たちは、非常に恐れて、「まことに、この人は神の子だった」と言いました。このとき、ローマの百人隊長がどのような意味で、イエス様のことを「神の子」と言ったのかは分かりません。しかし、この言葉は、ローマの百人隊長の思いを越えて、真実であるのです。十字架につけられたイエス様こそ、ユダヤ人の王であり、神の子であるのです。十字架の出来事は、イエス様こそが、イスラエルの王であり、神の子であることを公に示す出来事であったのです。

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