聖霊のとりなし 2024年1月21日(日曜 夕方の礼拝)

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聖霊のとりなし

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 8章26節~30節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
8:27 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。
8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
8:29 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。
8:30 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。ローマの信徒への手紙 8章26節~30節

原稿のアイコンメッセージ

 (この説教は、村田牧師が代理牧師として宇都宮教会で語った説教です)

 私たちは、イエス・キリストを神の御子、罪人の救い主と信じて、歩んでいます。しかし、その私たちも信仰に弱さを覚えることがあると思います。信仰に弱さを覚えて、礼拝に集い、そこで慰められ、励まされて、信仰者としての歩みをなんとか続けている。それが私たちの実情ではないかと思うのです。そのような弱い私たちに、イエス・キリストは、別の弁護者(パラクレートス)である真理の霊、聖霊を遣わしてくださいました(ヨハネ14:16、17「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」参照)。その聖霊の助けについて、今朝は、イエス・キリストの使徒パウロが記した『ローマの信徒への手紙』から教えられたいと願います。

 第8章26節と27節をお読みします。

 同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、霊自らが言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

 「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます」とあります。ここでの「霊」は神の霊、聖霊のことです。希望が苦しみの中にある私たちを支えるように、聖霊も弱い私たちを助けてくださるのです。ここで「助ける」と訳されている言葉(スンアンティラムバノマイ)は、「一緒に」(スン)「代わって」(アンティ)「引き受ける」(ラムバノマイ)という三つの言葉から成っています。聖霊は、私たちと一緒にいてくださり、私たちに代わって、私たちの重荷を引き受けてくださる(マタイ11:30参照)。そのような仕方で、聖霊は弱い私たちを助けてくださるのです。弱い私たちは、苦しみの中で、父なる神様に助けを祈り求めます。そして、その祈りにおいても、私たちは、何を祈ったらよいか分からない者であるのです。と言いますのも、聖書は、神の御心に適うことを祈り求めるようにと教えているからです(一ヨハネ5:14「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」参照)。しかし、その私たちと一緒にいてくださる聖霊が私たちに代わって祈りをささげてくださいます。何を祈るべきか分からずに、口ごもる私たちのために、聖霊が言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるのです。パウロが、「霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」と言うとき、その「うめき」は、23節に記されている「私たちのうめき」と重なるものです。23節にこう記されています。「被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体が贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」。神の子とされること、つまり、体が贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいる私たちのために、聖霊は言葉にならないうめきをもって執り成してくださるのです。

 祈りにおいて聖霊が執り成してくださる。このことは、私たちがささげる祈り全般において言うことができます。キリスト教の祈りには、ある形式があります。最初に、「天の父なる神様」と呼びかけます。次に、感謝と願いを申し上げる。最後に、「イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン」と言って祈りを閉じます。これは言葉としては、誰でも口にすることができると思います。しかし、それが独り言とはならずに、祈りとなるのは、聖霊のお働きによることであるのです。パウロは、第8章15節で、聖霊のことを「神の子とする霊」と言いました。私たちは「アッバ、父よ」と呼ぶ御子イエス・キリストの霊を与えられて、神の子とされたのです。聖霊は、父なる神に祈る、御子イエス・キリストの霊であるのです。その聖霊の導きの中で、私たちは、「天の父なる神様」と全幅の信頼をもって呼びかけます。そして、イエス・キリストによって救われたことを感謝し、神の御心に適うことを願い求めるのです。私たちがイエス・キリストの御名によって祈るのも、イエス・キリストが私たちの罪のために死んでくださり、私たちを正しい者とするために復活されたことを信じているからです(4:25参照)。復活されたイエス・キリストは、天にあげられ、父なる神の右に座って、私たちのために執り成してくださっています。このことは、パウロが34節で記していることです。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」。私たちのために執り成してくださる御方は二人おられます。私たちの内では聖霊が執り成してくださり、私たちの外ではイエス・キリストが執り成してくださっているのです。そして、ここに、私たちの祈りの秘密、祈りの奥義があるのです。私たちキリスト者は、いつも父なる神様との祈りの交わりに生きているのです。そして、そのことは私たちが苦しみの中でうめいていようと、また、何を祈ればよいか分からなくても、変わることはないのです。なぜなら、私たちに与えられている聖霊が、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。「言葉に表せないうめき」ですから、私たちには、聖霊が何を祈ってくださっているのかは分かりません。しかし、人の心を見抜く神様は、聖霊の思いが何であるかを知っておられます。私たちには分からなくても、祈りの聞き手である神様にはちゃんと伝わっているのです。しかも、聖霊は、神の御心に従って、私たちのために執り成しの祈りをささげてくださるのです。「執り成しの祈り」とは、その人に代わって、その人のために祈ることですね。聖霊は、私たちに代わって、私たちのために祈ってくださる御方であるのです。そのようにして、聖霊は弱い私たちを助けてくださるのです。

 28節をお読みします。

 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たち」とは、イエス・キリストを信じている私たちのことです。私たちが神様を愛しているのは、神様が御計画に従って、私たちを召してくださったからであるのです。私たちは、イエス・キリストにあって神様から愛されている者として、神様を愛しているのです。そのような私たちのために、神様はすべてのものを働かせて益としてくださいます(新改訳「神を愛する人々、すなわち、神の御計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」参照)。神様は力ある御言葉によって、すべてのものをお造りになりました。そして、すべてのものを御心のままに保ち、統べ治めておられます。その神様が、私たちのためにすべてのことを働かせて益としてくださるのです。ここでパウロが言っていることは、『創世記』でヨセフが言っていることでもあります。ヨセフは兄たちの妬みを買い、エジプトに奴隷として売られてしまいました。しかし、神様はヨセフを離れず、ヨセフはエジプトを治める者となりました。神様はヨセフを通して、飢饉から多くの人の命を救われたのです。『創世記』の第45章に、ヨセフが兄弟たちに自分の身を明かしたことが記されています。そのところを開いて読んでみたいと思います。旧約の81ページです。第45章4節から8節までをお読みします。

 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしを、ここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。」

 また、第50章に、父のヤコブが死んだ後、兄たちはヨセフが自分たちに仕返しをするのではないかと思い、人を介して、赦しを乞うたことが記されています。その兄たちに対して、ヨセフはこう言います。旧約の93ページです。第50章19節から21節までをお読みします。

 ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」

 ここでヨセフは、兄たちが自分にしたことを、「悪」とはっきり言っています。その兄たちの悪をヨセフが赦すことができたのは、神様が兄たちの悪を用いて多くの人の命を救うという善をなされたからです。神様は悪を善に変えることのできる御方であるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の285ページです。

 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。この「万事」の中には、神様の御心に背く悪も含まれています。神様は、私たち人間の悪をも用いて、善をなしてくださるのです。このことの代表例が、イエス・キリストの十字架の出来事であります(使徒2章のペテロの説教を参照)。私たち人間は、正しい人であり、神の御子であるイエス様を十字架につけて殺してしまいました。しかし、神様は、私たち人間の悪を用いて、救いの業を成し遂げてくださいました(イザヤ53章、ヨハネ19:30参照)。神様は私たち人間の悪しき企てを用いて善をなされたのです。神様は、イエス様を十字架の死から栄光の体で復活させられ、主、またメシアとされました。そして、主イエス・キリストを信じるすべての人に聖霊を与えて、永遠に神様と共に生きる者としてくださったのです。そのような神様の恵みに生かされているゆえに、私たちも、パウロと一緒に「私たちは知っています」と大胆に言うことができるのです。

 パウロが「万事が益となるように共に働く」と言うとき、その益とは、霊的な益、救いの祝福のことを指しています。それゆえ、パウロは、29節と30節で、こう記すのです。

 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。

 神様は、私たちを前もって知っておられました。「知っていた」とは「選んでいた」「愛していた」という意味です。神様は、私たちを前もって愛してくださり、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定めておられました。「御子の姿に似たもの」とは、復活されたイエス・キリストと同じように、朽ちることのない栄光の体で復活することです(フィリピ3:21参照)。また、それだけではなく、内面においても、私たちはイエス・キリストと同じように、神の御心をいつも行う者とされるのです(ヨハネ8:29参照)。私たちは、聖霊のお働きによって、今も、この地上で、少しずつではあっても、イエス様に似たものへと造りかえられているのです(二コリント3:18「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」参照)。聖霊が私たちの内で、神の御心に従うことを祈り続けてくださることによって、私たちはイエス様に似たものへと日々、造りかえられているのです(聖化の御業)。

 神様は、私たちを御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、イエス様が多くの弟たちと妹たちを持つ長子となり、栄光を受けるためであるのです(弟と妹が多いほど、兄の受ける栄光は大きなものとなる!)。私たちは、イエス様に似ている弟たち、妹たちとして、イエス様と一緒に栄光にあずかるのです。パウロは、30節で、それがどのように実現するのかを記しています。神様はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちをイエス・キリストにあって義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになりました。義とされた者たちが栄光を与えられるのは、将来のことです。しかし、ここでは「過去形」で記されています。そのことが確実であるゆえに、「栄光をお与えになった」と過去形で記されているのです。私たちの救いは、神様が前もって定めておられたことです。神様は、すべてのことを共に働かせて、前もって定めておられた救いを、私たちの内に実現してくださるのです(フィリピ1:6「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」参照)。

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