輝かしい勝利 2024年3月17日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

8:31 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
8:32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
8:33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
8:34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
8:36 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

ローマの信徒への手紙 8章31節~39節

原稿のアイコンメッセージ

(この説教は、村田牧師が代理牧師として宇都宮教会でした説教です)

 前回、私が宇都宮教会の礼拝に出席して、説教したのは、1月21日でした。そのとき、『ローマの信徒への手紙』の第8章26節から30節より、「聖霊のとりなし」という題で説教しました。今朝は、その続きの31節から39節より、「輝かしい勝利」という題で説教したいと思います。

 今朝は最初に、前回の振り返りをしたいと思います。前回、私たちは、聖霊が私たちの祈りを導いてくださること、また、聖霊自らが私たちのために執り成しの祈りをささげてくださることを学びました。私たちの内に宿っている聖霊は、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださいます。このことは、私たちに深い平安をもたらします。なぜなら、聖霊は神の御心に従って、私たちのために執り成してくださるからです。そして、私たちは、神様がすべてのことを共に働かせて、私たちの益としてくださることを知っているのです。神様は、私たちを前もって知っておられ、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それはイエス様が多くの兄弟姉妹を持つ長子として栄光を受けるためであります。多くの兄弟姉妹を持つ長子となることはイエス様にとって誉れであるのです。私たちはその誉れにあずかるものとして、イエス・キリストにあって天地創造の前から選ばれていたのです。その選びに従って、神様は、あらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。「栄光をお与えになった」と過去形で記すほどに、私たちの救いは確実であるのです。

 ここまでは、前回の振り返りであります。では、今朝の御言葉、31節と32節をお読みします。

 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

 「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか」。これは、これまで記してきたことの結論を導き出す言葉です。パウロはこれまで記してきたことの結論として、「神がわたしたちの味方である」と言います。パウロは、「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」と疑問文で記していますが、これは一つの修辞法、レトリックです。パウロはこのように問うことによって、「神が私たちの味方である以上、誰も私たちに敵対できない」と力強く語っているのです。「神が私たちの味方である」と言うとき、その「私たち」とは、イエス・キリストを信じて、洗礼を受け、キリストに結ばれた私たちのことです。また、聖霊を与えられ、神の子とされ、神様を「アッバ、父よ」と呼ぶ私たちのことです。イエス・キリストの福音を聞いて、信じた私たちが結論として言えること、それは神が私たちの味方であるということです。神が私たちの味方である以上、誰も私たちに敵対することはできないのです。

 なぜ、パウロは神が私たちの味方であると断言できるのでしょうか。それは神様が、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方」であるからです。神様は、私たちを罪から救うために、御子イエス・キリストを十字架の死へと引き渡されました。「その御子をさえ惜しまず死に渡された方」というパウロの言葉は、私たちに『創世記』の第22章に記されている、アブラハムが独り子イサクをささげたお話を思い起こさせます。神様は、アブラハムを試して、アブラハムの愛する独り子イサクを、焼き尽くす献げ物としてささげるようにお命になりました。そして、アブラハムは神様の御言葉に従って、三日の道のりを歩き、モリヤの山で、イサクを縛り祭壇の薪の上に載せました。アブラハムが手を伸ばして刃物を取り、息子イサクを屠ろうとしたとき、神様はアブラハムに呼びかけて、こう言います。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」。神様がアブラハムを、御自分を畏れる者であると認められたのは、アブラハムが独り子である息子すら、神様にささげることを惜しまなかったからです。アブラハムにとって、独り子イサクは、神様からいただいた祝福そのものでした。その祝福であるイサクをささげることによって、アブラハムは自分が主を畏れる者であることを証明したのです(御利益信仰ではないことの証明)。実際、アブラハムはイサクを屠ってはいませんが、神様はアブラハムがイサクをささげたと見なしてくださいました。その神様が、私たちのためには、独り子であるイエス・キリストを十字架の死へと引き渡されたのです。神様は私たちの身代わりとして、イエス・キリストを十字架の死に引き渡すことによって、私たちに対する愛を示されたのです(5:8「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」参照)。その神様が、「御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありません」とパウロは言うのです。ここでの「すべてのもの」とは、私たちに賜物として与えられているもろもろの霊的な祝福のことであります。パウロは30節で、「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」と記しましたが、これらすべてを与えられている保証は、神様が御子を私たちに賜ったことにあるのです。最も大切な御子を私たちに賜った神様が、その御子によって成し遂げられた救い祝福を私たちに賜らないはずはないのです。

 33節と34節をお読みします。

 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

 ここでパウロは、世の終わりの裁き、いわゆる最後の審判を背景にしています。神様に選ばれた私たちを訴える者は誰もいません。なぜなら、私たちを選んでくださった神様が、イエス・キリストにあって私たちを義としてくださるからです。神様が私たちを義としてくださる以上、だれも私たちを訴えることはできないのです。また、誰も私たちを罪に定めることはできません。なぜなら、私たちの罪のために死んでくださり、私たちを義とするために復活させられたイエス・キリストが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるからです。パウロは、27節で、「私たちの内に宿る聖霊が、神の御心に従って、私たちのために執り成してくださる」と記しました。34節では、「天におられるイエス・キリストが私たちのために執り成してくださる」と記します。私たちのために執り成してくださる方は、私たちの内にも、また私たちの外にもいるのです。私たちの内では聖霊が私たちのために執り成してくださいます。そして、天ではイエス・キリストが私たちのために執り成してくださるのです。そのようにして、私たちは神様との交わりの内に守られているのです(私たちの祈りは聖霊とイエス・キリストの執り成しによって成り立っている)。

 ここでパウロは、私たちを訴える者が誰であるかを記していません。ある人は、悪魔ではないかと考えます(ヨブ1章、ゼカリヤ3章参照)。また、ある人は、神の律法や私たちの良心ではないかと考えます。それが誰であっても、イエス様が私たちのために執り成してくださる以上、私たちを訴えて罪に定めることは誰にもできないのです。イエス様が、「わたしはこの者の罪のために十字架の上で死にました。それゆえ、わたしを信じるこの者を誰も罪に定めることはできません」と父なる神に執り成してくださるのです。

 35節から37節までをお読みします。

 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。

 キリストの愛、それは、私たちを救うために命を捨ててくださったことによって示されました。父なる神の愛が御子を死に引き渡すことによって示されたように、御子イエス・キリストの愛は自らの命を捨てることによって示されたのです(5:6、ヨハネ10:11参照)。イエス・キリストは、私たちを愛して、私たちを罪から救うために、十字架の死を死んでくださいました。また、復活させられ、天へと上げられたイエス・キリストは、私たちに聖霊を与え、御自分との愛の交わりに生きる者としてくださいました。聖霊を与えられ、イエス・キリストを神の御子、罪人の救い主と信じる私たちは、イエス・キリストとの愛の交わりの内に今、生かされているのです。「そのキリストの愛から私たちを引き離す者が誰かいるだろうか」とパウロは問うのです。パウロは、キリストの愛から私たちを引き離すものとして、艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣の七つをあげます。これはどれも、キリストのための苦しみであります。それゆえ、パウロは『詩編』の第44編の御言葉を引用するのです。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」。ここでの「あなた」は他でもない、イエス・キリストのことであります。私たちキリスト者は、キリストのために苦しむことをも恵みとして与えられているのです(フィリピ1:29参照)。

 艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣。この最後の「剣」は、殉教の死を意味しています。パウロは、剣を除く、すべての苦しみをキリストのために体験していました。『コリントの信徒への手紙二』の第11章23節以下に、パウロが体験したキリストのための苦難のリストが記されています。パウロは、キリストのために数多くの艱難や苦しみを味わってきたのです。しかし、パウロは、「キリストを信じることを止めよう」とは考えませんでした。それは、パウロが、その苦しみの中でこそ、キリストの勝利にあずかれることを知っていたからです。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」。パウロは「これらすべてのことにおいて」と記しました。苦しみが過ぎ去ってからではなく、その苦しみのただ中で、私たちは、私たちを愛してくださるイエス・キリストによって輝かしい勝利を収めているのです。キリストのための苦しみの中で、キリストの愛に留まり続ける。それが私たちキリスト者にとっての輝かしい勝利であるのです。

 38節と39節をお読みします。

 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

 ここでパウロがあげているのは、私たち人間に対して力を振るうもの、世に働く諸霊であります。世界と人間の営みの背後には様々な力や諸霊が働いているのです。その諸霊や力をパウロは10の言葉で言い表しました。そして、パウロは、「どのようなものも、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできない」と記すのです。新共同訳聖書は、「私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛」と訳していますが、元の言葉を直訳すると「わたしたちの主キリスト・イエスにある神の愛」となります(新改訳参照)。この場合の「神の愛」は、厳密に言えば「父なる神の愛」のことです。父なる神の愛は私たちの主キリスト・イエスにあるのです。ですから、イエス・キリストの愛に留まり続けることは、父なる神の愛に留まり続けることでもあるのです。キリストの愛、父なる神の愛から私たちを引き離すことは誰もできない、どんな被造物もできない。そのように確信することができるのは、私たちとキリストとを結びつけているのが父なる神の愛であり、私たちと父なる神とを結びつけているのが御子イエスの愛であるからです。イエス様は『ヨハネによる福音書』の17章26節で次のように言われました。新約の203ページです。

わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。

私たちがイエス様を愛しているのは、生まれながらに持つ自分の愛で愛しているのではありません。聖霊によって与えられている父なる神の愛で、私たちはイエス様を愛する者とされているのです。また、私たちは聖霊によって与えられている御子イエスの愛で、父なる神を愛する者とされているのです。イエス・キリストにおいて御自身を示された神様は、父と子と聖霊なる三位一体の神様であります。神様は唯一ではありますが、孤独な御方ではありません。父と子との聖霊における永遠の愛の交わりに生きておられる御方であるのです。その父と子との交わりに、私たちは、聖霊によって御子イエスに結ばれて加えられたのです。私たちの心には聖霊によって神の愛が注がれていますが、それは御子を愛する御父の愛であり、御父を愛する御子の愛であるのです(5:5参照)。私たちは聖霊によってイエス・キリストと結ばれて、父と子との永遠の愛の交わりに生きる者とされています。その私たちを父と子との愛の交わりから引き離すことは、誰もできない。神の愛がすべてのものに勝利を収めるのです。それゆえ、私たちキリスト者の勝利は輝かしい勝利であるのです。

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