主の僕の召命(主の僕の歌①) 2024年3月06日(水曜 聖書と祈りの会)

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主の僕の召命(主の僕の歌①)

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
イザヤ書 42章1節~4節

聖句のアイコン聖書の言葉

42:1 見よ、私が支える僕/私の心が喜びとする、私の選んだ者を。/私は彼に私の霊を授け/彼は諸国民に公正をもたらす。
42:2 彼は叫ばず、声を上げず、巷にその声を響かせない。
42:3 傷ついた葦を折らず/くすぶる灯心の火を消さず/忠実に公正をもたらす。
42:4 彼は衰えず、押し潰されず/ついには、地に公正を確立する。/島々は彼の教えを待ち望む。イザヤ書 42章1節~4節

原稿のアイコンメッセージ

 3月の「聖書と祈りの会」では、『ヨブ記』の学びを一時中断して、『イザヤ書』にある「主の僕の歌」から御言葉の恵みにあずかりたいと思います。今は、教会暦では、受難節(レント)ですので、「主の僕の歌」から、主イエス・キリストの苦しみに心を向けたいと思います。

 「主の僕の歌」は、『イザヤ書』に四つ記されています。それは、第42章1節から4節までと、第49章1節から6節までと、第50章4節から9節までと、第52章13節から第53章12節までです。今朝は、第42章1節から4節に記されている「主の僕の歌」を御一緒に学びたいと思います。

 1節をお読みします。

 見よ、私が支える僕/私の心が喜びとする、私の選んだ者を。私は彼に私の霊を授け/彼は諸国民に公正をもたらす。

 ここでの「私」は、イスラエルの神、主、ヤハウェであります。主は万物を造られ、万物を治めておられる神であられます。第40章28節にこう記されていました。「あなたは知らないのか。聞いたことはないのか。主は永遠の神/地の果てまで創造された方。疲れることなく、弱ることなく/その英知は究めがたい」。そのような主が支える僕、主の心が喜びとする、主の選んだ者を見よ、と言うのです。「主の僕の歌」は、いずれもバビロン捕囚の時代を背景にして記されている第40章から第55章までに記されています。第40章1節と2節にこう記されています。「慰めよ、慰めよ、私の民を」と、あなたがたの神は言われる。『エルサレムに優しく語りかけ/それに呼びかけよ。その苦役の時は満ち/その過ちは償われた。そのすべての罪に倍するものを/主の手から受けた』と」。このように、第40章以下には、バビロン捕囚の苦しみの中にあるイスラエルの民への慰めの言葉が記されているのです。それゆえ、第40章から第55章までは、アモツの子イザヤとは別の預言者、いわゆる第二イザヤによって記されたと考えられています。主は、バビロン捕囚の苦しみの中にあるイスラエルの民に、「見よ、私が支える僕/私の心が喜びとする、私の選んだ者を。私は彼に私の霊を授け/彼は諸国民に公正をもたらす」と言われるのです。では、「主が支える僕、主の心が喜びとする、私の選んだ者」とは、誰のことでしょうか。これには諸説があるのですが、まず考えられるのは、神の民イスラエルのことです。第41章8節と9節に、こう記されていました。「しかし、イスラエルよ、あなたは私の僕/私が選んだヤコブ/私の友アブラハムの子孫。私はあなたを地の果てから連れ出し/その隅々から呼び出して言った。『あなたは私の僕。私はあなたを選び、拒まなかった』と」。このように、主はイスラエルの民を私の僕、私が選び、呼び出した者と言われています。けれども、第42章1節から4節までを読むと、ここでの主の僕は、集団というよりも個人であるようです。そして、その個人は、主から霊を授けられたメシア(キリスト、王)であるのです。福音書記者マルコは、このイスラエルのメシアこそ、ナザレのイエスであると記しています。聖書を開いて確認しましょう。新約の60ページです。第1章9節から11節までをお読みします。

 その頃、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。そしてすぐ、水から上がっているとき、天が裂けて、霊が鳩のように自分の中へ降って来るのを御覧になった。すると、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 天からの声の「私の心に適う者」は、『イザヤ書』の第42章1節の「私の心が喜びとする者」を背景にしています(新改訳2017は「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」と訳している)。天から聖霊を注がれたイエス様は、イスラエルのメシアであり、神の独り子であり、主の僕であるのです(詩2:7、創世22:2、イザヤ42:1参照)。

 では、今朝の御言葉に戻ります。旧約の1112ページです。

 主が支える僕、主の霊を授けられた僕は、諸国民に公正(公平な正しさ)をもたらします。「公正」と訳されているヘブライ語はミシュパートで、新共同訳では「裁き」と訳されていました。「裁き」という翻訳も含蓄があると思います。といいますのも、神の公正は、神の裁きによってもたらされるからです。「公正」とか「裁き」と訳されるミシュパートは、第一の歌の鍵語(キーワード)です。3節にも「忠実に公正をもたらす」とありますし、4節にも「ついには、地に公正を確立する」とあります。主の裁き、公正は、主の僕によってもたらされ、確立されるのです。では、主の僕は、主の裁き、公正を、どのようにもたらすのでしょうか。大声を上げて、武力によってもたらすのでしょうか。そうではありません。2節から4節までをお読みします。

 彼は叫ばず、声を上げず、巷にその声を響かせない。傷ついた葦を折らず/くすぶる灯心を消さず/忠実に公正をもたらす。彼は衰えず、押し潰されず/ついには、地に公正を確立する。島々は彼の教えを待ち望む。

 主の僕は、声を荒げて叫ぶようなことはしません。また、傷ついた葦のような弱い人を守ってくださり、くすぶる灯心のような人の心を支えてくださいます。主の僕は、主の御心に忠実に従うことによって、公正をもたらすのです。主の僕は押し潰されることなく、ついには地に公正を確立してくださいます。この主の僕の姿を、福音書記者マタイは、大勢の群衆を癒して、御自分のことを言いふらさないようにと戒められたイエス様に見ております。このところも聖書を開いて確認しましょう。新約の21ページです。第12章15節から21節までをお読みします。

 イエスはそれを知って、そこを退かれた。すると、大勢の群衆が付いて来たので、彼らを皆癒して、ご自分のことを言い触らさないようにと戒められた。これは、預言者イザヤを通して言われたことが実現するためであった。「見よ、私の選んだ僕/私の心が喜びとする、私の愛する者を。この僕に私の霊を授け/彼は異邦人に公正を告げる。彼は争わず、叫ばず/その声を大通りで聞く者はいない。公正を勝利に導くまで/彼は傷ついた葦を折ることもなく/くすぶる灯心の火を消すこともない。異邦人は彼の名に望みを置く。」

 福音書記者マタイによれば、イエス様こそ、預言者イザヤが預言していた主の僕であるのです。主の僕が傷ついた葦を折ることはないように、イエス様は病に苦しむ人々を癒されました。そして、大通りで叫ぶことがない主の僕として、ご自分のことを言い触らさないようにと戒められたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の1112ページです。

 主の僕は、主の御心に忠実に従うことによって公正をもたらします。このイザヤの預言のとおり、主の僕であるイエス様は、父なる神の御心に従い十字架の死を死なれることによって公正をもたらしてくださいました。「公正」と訳されるミシュパートは、「裁き」とも訳せると申しましたが、イエス様は、ご自分が十字架の上で裁かれることによって、公正をもたらしてくださったのです。私たちは、イエス・キリストの十字架に、神の裁きと公正を見ることができるのです。神は、イエス・キリストにご自分の民の罪を担わせて罰することにより、ご自分の正しさを示されました。そして、この神の正しさは、主の僕であるイエス様を、死者の中から復活させることによって確立されたのです。「彼は衰えず、押し潰されず/ついには、地に公正を確立する」というイザヤの預言は、イエス・キリストの復活によって成就されるのです。そうすると、「島々は彼の教えを待ち望む」というイザヤの預言が、復活の主から遣わされる弟子たちによって成就されることが分かります。復活されたイエス・キリストは、弟子たちにこう言われました。「私は天と地の一切の権能を授けられている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:18~20)。島々は、十字架の死と復活によって公正を確立されたイエス・キリストの教えを待ち望んでいます。それゆえ、イエス・キリストは、私たちに、「すべての民を弟子にしなさい」と命じられるのです。そのようにして、多くの人が、主の公正を知るようになるのです。

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