主の僕の苦難と栄光(主の僕の歌④) 2024年3月24日(日曜 朝の礼拝)

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主の僕の苦難と栄光(主の僕の歌④)

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
イザヤ書 52章13節~53章12節

聖句のアイコン聖書の言葉

52:13 見よ、わが僕は栄える。/彼は高められ、上げられ、はるかに高くなる。
52:14 多くの人が彼のことで驚いたように/その姿は損なわれ、人のようではなく/姿形は人の子らとは違っていた。
52:15 そうして、彼は多くの国民を驚かせる。/王たちは彼について口を閉ざす。/彼らは、自分たちに告げられていなかったことを見/聞いていなかったことを悟るからだ。
53:1 私たちが聞いたことを、誰が信じただろうか。/主の腕は、誰に示されただろうか。
53:2 この人は主の前で若枝のように/乾いた地から出た根のように育った。/彼には見るべき麗しさも輝きもなく/望ましい容姿もない。
53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/痛みの人で、病を知っていた。/人々から顔を背けられるほど軽蔑され/私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 彼が担ったのは私たちの病/彼が負ったのは私たちの痛みであった。/しかし、私たちは思っていた。/彼は病に冒され、神に打たれて/苦しめられたのだと。
53:5 彼は私たちの背きのために刺し貫かれ/私たちの過ちのために打ち砕かれた。/彼が受けた懲らしめによって/私たちに平安が与えられ/彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。
53:6 私たちは皆、羊の群れのようにさまよい/それぞれ自らの道に向かって行った。/その私たちすべての過ちを/主は彼に負わせられた。
53:7 彼は虐げられ、苦しめられたが/口を開かなかった。/屠り場に引かれて行く小羊のように/毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように/口を開かなかった。
53:8 不法な裁きにより、彼は取り去られた。/彼の時代の誰が思ったであろうか。/私の民の背きのために彼が打たれ/生ける者の地から絶たれたのだと。
53:9 彼は暴虐をなさず/口には偽りがなかったのに/その墓は悪人どもと共にされ/富める者と共に葬られた。
53:10 主は彼を打ち砕くことを望まれ、病にかからせた。/彼が自分の命を償いのいけにえとするなら/その子孫を見、長寿を得る。/主の望みは彼の手によって成し遂げられる。
53:11 彼は自分の魂の苦しみの後、光を見/それを知って満足する。/私の正しき僕は多くの人を義とし/彼らの過ちを自ら背負う。
53:12 それゆえ、私は多くの人を彼に分け与え/彼は強い者たちを戦利品として分け与える。/彼が自分の命を死に至るまで注ぎ出し/背く者の一人に数えられたからだ。/多くの人の罪を担い/背く者のために執り成しをしたのは/この人であった。イザヤ書 52章13節~53章12節

原稿のアイコンメッセージ

 今週は、主イエス・キリストの苦しみを覚える受難週であります。イエス様は、今からおよそ2000年前の今日、子ロバに乗ってエルサレムに入られました。そして、今週の金曜日に十字架に磔にされて苦難の死を遂げられます。そして、その三日目の来週の日曜日に、死者の中から復活されるのです。このことは、イエス様が、弟子たちに予告しておられたことでした。イエス様は、弟子たちに、ご自分が苦難の死を遂げること、三日目に復活することを三度予告されました(マタイ16:21、17:22,23、20:18,19)。一か所だけ、開いて読みたいと思います。『マタイによる福音書』の第16章21節です。新約の31ページです。

 この時から、イエスはご自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。

 イエス様は、ペトロの信仰告白、「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白を受けて、ご自分が指導者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっているメシアであると打ち明け始められました。イエス様は、「指導者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活すること。それが私に対する神様の御計画であると言われたのです(「することになっている」と訳される言葉(デイ)は神の必然を表す)。では、イエス様は、そのような神の御計画をどのように知ったのでしょうか。それは、神の言葉である聖書を通してであります。特に、今朝の御言葉、『イザヤ書』の第53章の御言葉によってです。『イザヤ書』の第53章には、主の僕の苦難と栄光が預言されています。その預言を成就する主の僕として、イエス様は、「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と打ち明け始められたのです。そして、その預言のとおり、イエス様は、指導者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活されたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の1134ページです。 

 第52章13節から15節までをお読みします。

 見よ、わが僕は栄える。彼は高められ、上げられ、はるかに高くなる。多くの人が彼のことで驚いたように/その姿は損なわれ、人のようではなく/姿形は人の子らとは違っていた。そうして、彼は多くの国民を驚かせる。王たちは彼について口を閉ざす。彼らは、自分たちに告げられていなかったことを見/聞いていなかったことを悟るからだ。

 「見よ、わが僕は栄える。彼は高められ、上げられ、はるかに高くなる」とあるように、ここには、主の僕が栄光を受けることが預言されています。主の僕であるイエス様は、死者の中から復活させられ、天に上げられ、父なる神の右の座に着かれました。そのことが預言されているのです。主の僕が高められることは、多くの人にとって驚きでありました。それは、主の僕の姿が損なわれ、人のようではなかったからです。人とも言えない主の僕が高められる。そのことは、王たちも口を閉ざす前代未聞(ぜんだいみもん)の出来事であるのです。

 第53章1節から5節までをお読みします。

 私たちが聞いたことを、誰が信じただろうか。主の腕は、誰に示されただろうか。この人は主の前で若枝のように/乾いた地から出た根のように育った。彼には見るべき麗しさも輝きもなく/望ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/痛みの人で、病を知っていた。人々から顔を背けられるほど軽蔑され/私たちも彼を尊ばなかった。彼が担ったのは私たちの病/彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし、私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれて/苦しめられたのだと。彼は私たちの背きのために刺し貫かれ/私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって/私たちに平安が与えられ/彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。

 「私たちが聞いたことを、誰が信じただろうか。主の腕は、誰に示されただろうか」。ここでの「私たち」は「主の御言葉を受けたイザヤの弟子たちである」と言えます。また、「主の僕の預言がイエス・キリストにおいて成就したことを悟った私たちである」と言えます。私たちが聞いたイエス・キリストの福音は、信じがたいことであり、信じることができたとすれば、それは主の力によることであるのです。

 この人は主の前で若枝のように、乾いた地から出た根のように育ちました。「若枝」は来るべきメシアを表す称号であります(11:1,2「エッサイの株から一つの芽が萌え出で/その根から若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる」参照)。しかし、彼には見るべき麗しさも輝きもなく、望ましい容姿もないのです。それは、彼が病に冒され、神に打たれて、苦しめられていたからです。そのような彼を、人々は顔を背けるほど軽蔑していたのです。また、私たちも彼を尊ばなかったのです。彼が担ったのは私たちの病であり、彼が負ったのは、私たちの痛みであったにもかかわらず、私たちは彼を尊ばなかったのです。それは、私たちが、彼は彼自身の罪のために病に冒され、神に打たれ、苦しめられていると思っていたからです。ここに描かれているのは、イエス様のお姿というよりも、むしろ、悪性の腫れ物に全身を打たれて、苦しんでいるヨブの姿です。ヨブも、主から「わたしの僕」と呼ばれていました(ヨブ1:8、2:3参照)。ヨブの姿形は、友人たちがヨブであると分からないほどに変わり果てていたのです。そして、友人たちは、ヨブが病に冒され、神に打たれ、苦しんでいるのは、ヨブが大きな罪を犯したからに違いないと考えていたのです。今、水曜日の祈祷会で『ヨブ記』を学んでいるのですが、ヨブも、主イエス・キリストを指し示す主の僕であるのです。

 5節に、「彼は私たちの背きのために刺し貫かれ/私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって/私たちに平安が与えられ/彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた」とあります。ここに、イエス様の苦難と死の意味が記されています。イエス様は、私たちの背きのために、十字架に磔にされ、苦難の死を死んでくださいました。それゆえ、私たちは、すべての罪を赦されて、平安(シャローム)を与えられたのです(ヨハネ14:27「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない」参照)。

 6節から10節までをお読みします。

 私たちは皆、羊の群れのようにさまよい/それぞれ自らの道に向かって行った。その私たちすべての過ちを/主は彼に負わせられた。彼は虐げられ、苦しめられたが、口を開かなかった。屠り場に引かれて行く小羊のように/毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように/口を開かなかった。不法な裁きにより、彼は取り去られた。彼の時代の誰が思ったであろうか。私の民の背きのために彼が打たれ/生ける者の地から絶たれたのだと。彼は暴虐をなさず/口には偽りがなかったのに/その墓は悪人どもと共にされ/富める者と共に葬られた。主は彼を打ち砕くことを望まれ、病にかからせた。彼が自分の命を償いのいけにえとするなら/その子孫を見、長寿を得る。主の望みは彼の手によって成し遂げられる。

 6節に、「私たちは皆、羊の群れのようにさまよい、それぞれ自らの道に向かって行った」とあります。この御言葉は、イエス様が捕らえられた夜、イエス様を見捨てて逃げてしまった弟子たちの姿を思い起こさせます。その弟子たち、私たちのすべての過ちを、主はイエス様に負わせられたのです。イエス様は、ユダヤの最高法院において、またローマの総督ポンテオ・ピラトの法廷において、口を開きませんでした。イエス様は、ご自分を正しいとしてくださる父なる神にすべてを委ねておられたのです。イエス様は、不法な裁きにより、取り去られました。ローマ帝国の極刑である十字架刑に処せられたのです。しかし、それは何度も言いますように、「私(主)の民の背きのため」であったのです。イエス様ご自身について言えば、何一つ罪はなかったのです。しかし、イエス様は、犯罪人のひとりとして処刑され、金持ちであるアリマタヤのヨセフの墓に葬られました(マタイ27:57参照)。このように読んでくると、イザヤの預言が一言一句違わずに、イエス様のうえに実現したのではないことが分かります。『イザヤ書』の預言する主の僕は、病に冒されていますが、『福音書』の描くイエス様は、病に冒されていたとは記されていません。では、イエス様は病を知らなかったかと言えば、そうではありません。イエス様は、病に苦しむ人々を見て、はらわたの千切れる思いに駆られました。それは、イエス様が「痛みの人で、病を知っていたからです」。福音書記者マタイは、病を癒やされるイエス様のお姿に、病を担う主の僕の姿を見ています(マタイ8:17「こうして、預言者イザヤを通して言われたことが実現した。『彼は私たちの弱さを負い/病を担った。』」参照)。イエス様は、犯罪人が葬られる共同墓地にではなく、アリマタヤのヨセフの新しい墓に葬られました。このように、一言一句、イザヤの預言がイエス様のうえに実現しているわけではないのですが、その多くはイエス様のうえに実現しているのです。このことは、イザヤの預言がイエス様がお生まれになる500年も前に記されたことを思う時、まさに驚くべきことであるのです。

 10節に、「彼が自分の命を償いのいけにえとするなら、その子孫を見、長寿を得る」とあります。ここには、イエス様の復活が預言されています。イエス様は、十字架につけられる前の夜(ユダヤでは夜から一日が始まるので、十字架につけられる日)、ゲツセマネの園において、「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに」と祈られました(マタイ26:39)。イエス様は、自分の心(意志)よりも、父なる神の御心(意志)が行われることを願われました。そして、父なる神の御心をご自分の心として、十字架の死を死なれるのです。そのようにして、イエス様は、自分の命を償いのいけにえとされたのです。父なる神様は、そのようなイエス様を、栄光の体で復活させられ、永遠に生きる者としてくださいました。10節の最後に、「主の望みは彼の手によって成し遂げられる」とあります。『ヨハネによる福音書』によれば、イエス様が十字架の上で叫ばれた言葉は、「成し遂げられた」でした(ヨハネ19:30)。イエス様は自ら十字架の死を死なれることによって、主の望みを成し遂げられたのです。イエス様は十字架の死によって、『イザヤ書』に預言されていた主の民の救いを成し遂げてくださったのです。

 11節と12節をお読みします。

 彼は自分の魂の苦しみの後、光を見/それを知って満足する。私の正しき僕は多くの人を義とし/彼らの過ちを自ら背負う。それゆえ、私は多くの人を彼に分け与え/彼は強い者たちを戦利品として分け与える。彼が自分の命を死に至るまで注ぎ出し/背く者の一人に数えられたからだ。多くの人の罪を担い/背く者のために執り成しをしたのは/この人であった。

 11節の「魂の苦しみ」という言葉は、イエス様が私たちに代わって神から見捨てられるという地獄の苦しみを味わわれたことを思い起こさせます。『マタイによる福音書』によれば、十字架につけられたイエス様は、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました(マタイ27:46)。イエス様は、肉体の苦しみだけではなく、神から見捨てられるという魂の苦しみをお受けになったのです。そのイエス様を神様は復活させてくださいました。それはイエス様の苦難の死が、多くの人を正しい者とするための贖罪の死であったからです。神様は、ご自分の正しい僕であるイエス様を復活させ、戦利品として多くの人を分け与えられます(ヨハネ6:37「父が私にお与えになる人は皆、私のもとに来る。私のもとに来る人を、私は決して追い出さない」参照)。イエス様はご自分の命を注ぎ出すことによって、多くの人を正しい者とされました。その多くの人を、神様はイエス様に戦利品としてお与えになるのです。ここで「戦利品」という言葉が用いられていることに注意したいと思います。イエス様の十字架の死は、神の敵である悪魔に対する勝利でもあるのです(ヘブライ2:14、15「そこで、子たちは皆、血と肉とを持っているので、イエスもまた同じように、これらのものをお持ちになりました。それは、ご自分の死によって、死の力を持つ者、つまり悪魔を無力にし、死の恐怖のために一生涯奴隷となっていた人々を解放されるためでした」参照)。私たちは、イエス様の十字架の死と復活によって正しい者とされ、イエス様の民とされています。それゆえ、私たちは、「イエス・キリストは主である」と大胆に告白して、父なる神様をほめたたえているのです(フィリピ2:11参照)。

 12節の最後に、「背く者のために執り成しをした」と過去形で記されていますが、元の言葉では継続を表す未完了形で記されています。イエス様は、今も、私たちのために執り成してくださっているのです。私たちは、イエス様の十字架の贖いによって、すべての罪を赦され、正しい者とされました。けれども、私たちは、日々、罪を犯してしまいます。私たちは、罪赦された罪人であるのです。その私たちのために、イエス様は十字架の贖いを根拠にして、今も執り成してくださっているのです。第52章13節に、「見よ、わが僕は栄える。彼は高められ、上げられ、はるかに高くなる」とありました。イエス様は、天の父なる神の右の座で、私たちのために執り成してくださっているのです。『ヘブライ人への手紙』が記しているように、イエス・キリストは、永遠の大祭司として、今も私たちのために執り成してくださっているのです(ヘブライ7:24、25「イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それで、ご自分を通して神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。この方は常に生きていて、彼らのために執り成しておられるのです」参照)。

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