知恵ある者と愚かな者 2024年3月10日(日曜 夕方の礼拝)

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知恵ある者と愚かな者

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
コヘレトの言葉 10章2節~20節

聖句のアイコン聖書の言葉

10:2 知恵ある者の心は右に、愚かな者の心は左に。
10:3 愚かな者は道行くときも思慮に欠け/誰にでも自分が愚かな者だと言い触らす。
10:4 支配者があなたに憤っても/自分の場所を離れてはならない。/冷静になれば、大きな罪には問われない。
10:5 太陽の下に不幸があるのを私は見た。/それは権力ある者が引き起こす過ちで
10:6 愚かな者が甚だしく高められ/富める者が低い地位に座している。
10:7 私は、奴隷が馬に乗り/高官が奴隷のように地を歩くのを見た。
10:8 穴を掘る者はそこに落ち/石垣を崩す者は蛇にかまれる。
10:9 石を切り出す者は石で傷つき/木を割る者は木でけがをする。
10:10 斧がなまったとき、その刃を研いでおかなければ/力が要る。/知恵には益があり、成功をもたらす。
10:11 もし呪文を唱える前に蛇がかみつけば/蛇使いに益はない。
10:12 知恵ある者の口から出る言葉には恵みがあり/愚かな者の唇は身を滅ぼす。
10:13 その口から出る言葉は愚かさで始まり/悪しき無知で終わる。
10:14 愚かな者は多くを語るが/やがて何が起こるかは誰も知らない。/その後どうなるかを/誰が彼に告げることができようか。
10:15 愚かな者は労苦したところで疲れるだけだ。/町に行く道さえも知らない。
10:16 王が若者で/高官たちが朝から食事をする国よ/あなたに災いあれ。
10:17 王が高貴な生まれで/高官たちがふさわしい時に/飲むためにではなく/力を得るために食事をする国よ/あなたは幸いだ。
10:18 怠惰になると天井は落ち/手を抜くと家は雨漏りがする。
10:19 食事を整えるのは笑うため。/ぶどう酒は人生を楽しませる。/銀はそのすべてに応えてくれる。
10:20 心の中で王を呪ってはならない。/寝室で富める者を呪ってはならない。/空の鳥がその声を運び/翼を持つものがその言葉を知らせてしまう。コヘレトの言葉 10章2節~20節

原稿のアイコンメッセージ

 月に一度の夕べの礼拝では、『コヘレトの言葉』を読み進めています。今夕は第10章2節から20節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 2節から4節までをお読みします。

 知恵ある者の心は右に、愚かな者の心は左に。愚かな者は道行くときも思慮に欠け/誰にでも自分が愚か者だと言い触らす。支配者があなたに憤っても/自分の場所を離れてはならない。冷静になれば、大きな罪には問われない。

 ここには、『箴言』のような知恵の言葉、格言が記されています。「知恵ある者の心は右に、愚かな者の心は左に」。「心」は、知性と意志の座であります。また、「右」は幸いを、「左」は災いを意味しています。知恵ある者の心(知性と意志)は幸いへ向かい、愚かな者の心(知性と意志)は災いへ向かうのです。「愚かな者は道行くときも思慮に欠け/誰にでも自分が愚かな者だと言い触らす」。これは、「わたし馬鹿だから」と周りの人に直接言うよりも、その言動で愚かな者であることが周りの人に分かってしまうということだと思います。「誰にでも自分が愚かな者だと言い触らす」は、次のようにも訳すことができます。「誰彼の区別なく、彼は愚かだと言い触らす」。「自分以外はみんな馬鹿」と言う人は愚かな者であるのです。「支配者があなたに憤っても/自分の場所を離れてはならない。冷静になれば、大きな罪には問われない」。ここでの「支配者」を会社の「上司」や学校の「先生」と置き換えると身近になります。これは処世術のようなものですね。支配者があなたに憤ったのは、あなたが重大な間違いをしたからでしょう。そのようなとき、逃げ出したくなりますが、コヘレトは、「自分の場所を離れてはならない」と言います。「冷静になって、誠実に対応すれば、大きな罪に問われることはない」と言うのです。

 5節から7節までをお読みします。

 太陽の下に不幸があるのを私は見た。それは権力ある者が引き起こす過ちで/愚かな者が甚だしく高められ/富める者が低い地位に座している。私は、奴隷が馬に乗り/高官が奴隷のように地を歩くのを見た。

 先祖伝来の知恵の言葉によれば、知恵ある者が高い地位にあり、愚かな者が低い地位にあるはずです。しかし、権力ある者によって、その秩序はひっくり返されてしまいます。そして、このことをコヘレトは「不幸である」と言うのです。権力ある者によって、愚かな者が高められ、富める者(知恵ある者)が低い地位に座している。奴隷が馬に乗り、高官が奴隷のように地を歩いている。そのような光景を見て、コヘレトは「不幸である」と言うのです。「知恵ある者の心は右に、愚かな者の心は左に」という原則は、権力ある者が引き起こす過ちによって、破られてしまうのです。

 8節から11節までをお読みします。

 穴を掘る者はそこに落ち/石垣を崩す者は蛇にかまれる。石を切り出す者は石で傷つき/木を割る者は木でけがをする。斧がなまったとき、その刃を研いでおかなければ力が要る。知恵には益があり、成功をもたらす。もし呪文を唱える前に蛇がかみつけば/蛇使いに益はない。

 穴を掘る、石垣を崩す、石を切り出す、木を割る。これらは当時の肉体労働です。ここでコヘレトが言っていることは、そのような肉体労働に伴う危険であります。穴を掘る者には、穴に落ちてしまう危険があります。石を崩す者には、石の間に潜んでいる蛇にかまれる危険があります。石を切り出す者には石で傷つく危険があるし、木を割る者には木でけがをする危険があるのです。それぞれの仕事には、それぞれのリスクが伴うのです。そのようなリスクを減らす一つの知恵は、斧がなまったとき、その刃を研いでおくことです。刃を研いでおかないと力が要るので、木でけがをするリスクが大きくなります。しかし、刃を研いでおけば力が要らず、木でけがをするリスクが小さくなるのです。そのような知恵は益があり、成功をもたらすのです。11節では、「蛇使い」のことが言われています。「もし呪文を唱える前に蛇がかみつけば/蛇使いに益はない」。ここでも、知恵が不確かであることが言われています。蛇を従わせる呪文は知恵とも言えますが、知恵は益をもたらさないことがあるのです。

 12節から15節までをお読みします。

 知恵ある者の口から出る言葉には恵みがあり/愚かな者の唇は身を滅ぼす。その口から出る言葉は愚かさで始まり/悪しき無知で終わる。愚かな者は多くを語るが/やがて何が起こるかは誰も知らない。その後どうなるかを/誰が彼に告げることができようか。愚かな者は労苦したところで疲れるだけだ。町に行く道さえも知らない。

 人は心にあることを話します。ですから、その人が話す言葉を聞けば、その人が知恵ある人であるのか。愚かな人であるのかが分かるわけです。「知恵ある者の口から出る言葉には恵みがあり/愚かな者の唇は身を滅ぼす」。これも格言ですね。このような格言を念頭に置いて、使徒パウロは、「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるために必要な善い言葉を語りなさい」と言っているのです(エフェソ4:29)。また、このような格言を念頭に置いて、主の僕ヤコブは、「舌は火です」と言い、舌を制御するようにと言っているのです(ヤコブ3章参照)。私たちは、イエス・キリストによって上からの知恵、聖霊を与えられているのですから、恵みの言葉を語るべきであるのです。愚かな者の言葉は、愚かさで始まり、悪しき無知で終わります。内容がないのです。しかし、多く語ります。「やがて何が起こるか誰も知らない」にも関わらず、愚かな者はそれを知っているかのように語るのです。コヘレトは愚かな者が労苦しても疲れるだけ、無駄な骨折りであると言います。なぜなら、愚かな者は町に行く道さえも知らないからです。愚かな者は、自分で目標を立てて、それを達成しようと励むことがないのです。

 16節と17節をお読みします。

 王が若者で/高官たちが朝から食事をする国よ/あなたに災いあれ。王が高貴な生まれで/高官たちがふさわしい時に/飲むためにではなく/力を得るために食事をする国よ/あなたは幸いだ。

 王が若く、高官たちを統制できずに、高官たちが朝から宴会をしている国は災いであるとコヘレトは言います。他方、王が高貴な生まれで、高官たちを統制し、高官たちが酔うためではなく、力を得るために食事をする国は幸いであるとコヘレトは言います。どのような王や高官たちに治められているかによって、その国が災いであるか、幸いであるかが決まるのです。現代の私たちで言えば、国民の代表である国会議員がどのような人たちであるかによって、私たちの国が災いであるか、幸いであるかが決まるのです。

 18節と19節をお読みします。

 怠惰になると天井は落ち/手を抜くと家は雨漏りがする。食事を整えるのは笑うため。ぶどう酒は人生を楽しませる。銀はそのすべてに応えてくれる。  

 「怠惰になると天井は落ち/手を抜くと家は雨漏りがする」。これも格言ですね。このような格言によって、コヘレトは、怠惰であること、怠けることを戒めています。使徒パウロも、「働こうとしない者は、食べてはならない」と怠惰な生活を戒めています(二テサロニケ3:10参照)。私たちは、自分の手で働いて、食事を整えるべきであるのです。食事を整えることは人生を楽しむためでもあります。「食事を整えるのは笑うため。ぶどう酒は人生を楽しませる。銀はそのすべてに応えてくれる」。食事とぶどう酒を整えるには、お金が必要です。「銀はそのすべてに応えてくれる」。ここでの「銀」はお金のことです。ここで注意したいことは、コヘレトがお金を神様からの賜物として理解しているということです。これまでも、コヘレトは、食事とぶどう酒について語ってきました。飲み食いは、コヘレトの幸福論において大きな位置を占めています。例えば、第9章7節で、コヘレトはこう言っていました。「さあ、あなたのパンを喜んで食べよ。あなたのぶどう酒を心楽しく飲むがよい。神はあなたの業をすでに受け入れてくださった」。このように、コヘレトがほめたたえる飲み食いは、神様からの賜物であるのです。このことを忘れるとき、人はいくら銀があっても満足できなくなります。コヘレトは、第5章9節で、こう言っていました。「銀を愛する者は銀に満足することがなく/財産を愛する者は利益に満足しない。これもまた空である」。私たちが、お金を神様から切り離して、お金そのものを愛するならば、私たちは富に仕える者となり、満足しない者となってしまうのです。しかし、私たちは、働く力を与えてくださるのが神様であると知っているので、自分の手で働いて得たお金であっても、神様の賜物として受け取るのです(申命8:17、18「あなたは自分の強さと手の力で、この富を生み出したと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。この方が、あなたに力を与えて富を生み出させ、先祖に誓われたその契約を実行し、今日のようにしてくださったのである」参照)。それゆえ、私たちは、それぞれの収入の中から、その一部を献金として、神様に献げているのです。私たちが収入の中から献金をささげているのは、その収入を神様からの賜物として受け取ったことを表しているのです。

 20節をお読みします。

 心の中で王を呪ってはならない。寝室で富める者を呪ってはならない。空の鳥がその声を運び/翼を持つものがその言葉を知らせてしまう。

 コヘレトは、「心の中で王を呪ってはならない」と言いますが、このことは、律法が命じていることでもあります。『出エジプト記』の第22章27節にこう記されています。「神を呪ってはならない。あなたの民の指導者を呪ってはならない」。このような掟を踏まえて、コヘレトは、「心の中で王を呪ってはならない。寝室で富める者を呪ってはならない」と言うのです。それは誰かに聞かれて、密告され、自分に滅びをもたらさないためであるのです。「空の鳥がその声を運び/翼を持つものがその言葉を知らせてしまう」。ここでコヘレトが言いたいことは、「誰が聞いているか分からないので、気をつけろ」ということです(「壁に耳あり、障子に目あり」)。このコヘレトの言葉は、『ルカによる福音書』の第12章に記されているイエス様の御言葉を思い起こさせます。新約の129ページです。第12章1節から3節までをお読みします。

 とかくするうちに、数万人もの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種、すなわち、彼らの偽善に注意しなさい。覆われているもので現されないものはなく、隠れているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の部屋で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」

 私たちが暗闇で言ったことが明るみで聞かれ、奥の部屋で耳にささやいたことが屋根の上で言い広められるのは、いつでしょうか。それは、イエス様が、栄光の主として来られる最後の審判の時です。そのとき、私たちが言ったことが明るみになり、屋根の上で言い広められるのです。その私たちの言葉は、王であるイエス様を呪う言葉では決してありません。なぜなら、神の霊によって語る人は、誰も「イエスは呪われよ」とは言わないからです。聖霊を与えられた私たちが口にする言葉は、「イエスは主である」という言葉であるのです(一コリント12:3「そこであなたがたに言っておきます。神の霊によって語る人は、誰も『イエスは呪われよ』とは言わず、また、聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできません」参照)。かの日には、「イエス・キリストは主である」という言葉が明るみで聞かれ、屋根の上で言い広められることになるのです(フィリピ2:11「すべての舌が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神が崇められるためです」参照)。

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