自由と放縦を履き違えるな 2023年12月10日(日曜 朝の礼拝)

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自由と放縦を履き違えるな

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ペトロの手紙二 2章17節~22節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:17 この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。
2:18 彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。
2:19 その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。
2:20 わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。
2:21 義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。
2:22 ことわざに、/「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」また、/「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」と言われているとおりのことが彼らの身に起こっているのです。

ペトロの手紙二 2章17節~22節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ペトロの手紙二』の第2章17節から22節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。「新共同訳聖書」に基づいてお話しいたします。

イエス・キリストの使徒ペトロは、この手紙を、小アジアにある教会に宛てて記しました。小アジアの教会は、偽教師たちに惑わされていました。第2章1節にこう記されていました。「かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました」。偽教師たちは、主イエス・キリストの再臨と裁きを否定していました(1:16参照)。そのようにして、彼らは、自分たちを贖ってくださった主イエス・キリストを拒否していたのです。しかし、ペトロは、「このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません」と言うのです(3節)。その具体例として、ペトロは旧約聖書に記されている、罪を犯した天使たちのこと。ノアの時代に起こった大洪水のこと。ソドムとゴモラの滅亡のことを記しました。ペトロは、旧約聖書を引用することによって、神の裁きが必ずあることを論証したのです。

偽教師たちは、主イエス・キリストの再臨と裁き、いわゆる最後の審判を否定して、欲望のままに振る舞っていました。また、偽教師たちは天使たちをそしっていました。神の戒めである律法は天使たちの手を通して与えられたと考えられていたからです(使徒7:53、ガラテヤ3:19参照)。偽教師たちは、律法を無効なものとして、理性のない動物と同じように欲望に従って、滅びの道を歩んでいたのです。ペトロは、13節後半と14節で、偽教師たちについて次のように言っています。「彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています。彼らは心の定まらない人々を誘惑し、その心は強欲におぼれ、呪いの子になっています」。ペトロは、このような偽教師たちがバラムが歩んだ道をたどっていると言います。実際、偽教師たちは、バラムよりも悪いです。バラムは不義の儲けを愛して、偽りの預言を語ろうとしました。しかし、バラムはろばが人間の声で話かけると、主が命じられたとおり、イスラエルを祝福しました。他方、偽預言者たちは、ペトロの声に耳を傾けず、間違った教えを言い広めていたのです。

今朝の御言葉はその続きとなります。

 17節から19節までをお読みします。

この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。

 「この者たち」とは、偽教師たちのことです。ペトロは、偽教師たちを「水のない泉」や「嵐に吹き払われる霧」にたとえます。偽教師たちの教えは、みせかけであり、消え去ってしまうものであるのです。偽教師たちを待ち受けているのは、深い闇、永遠の滅びです。彼らは偉そうに大きなことを言いますが、その中身は空っぽです。偽教師たちは、「迷いの生活からやっと抜け出て来た人たち」を、肉欲や放縦によって誘惑します。「迷いの生活をやっと抜け出て来た人たち」とは、「異邦人が好む生活を逃れてイエス・キリストを信じた人たち」のことです。ペトロは、一通目の手紙、『ペトロの手紙一』の第4章3節と4節で、小アジアのキリスト者たちについてこう記していました。「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思いそしるのです」。このように、小アジアのキリスト者たちは、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、偶像礼拝などの乱行から逃れて、聖なる生活を送る者となったのです(一ペトロ1:15参照)。そのような者たちを、偽教師たちは肉欲や放縦によって誘惑するのです。しかも、偽教師たちは、イエス・キリストによって与えられた自由によって、肉欲や放縦を肯定していたのです。今朝の説教題を「自由と放縦を履き違えるな」としました。偽教師たちは、自由と放縦を履き違えていたのです(「履き違える」とは「①誤って他人の履物を履く。また、左右をまちがえてはく。②意味をとりちがえる。思い違いや勘違いをする」の意味)。ペトロは、「偽教師たちは、自由を約束しながら、自らは滅びの奴隷である」と言います。罪に打ち負かされて、罪を犯している偽教師たちは、罪の奴隷であるのです。なぜ、偽教師たちは、自由と放縦を履き違えてしまったのでしょうか?それは、偽教師たちが、使徒パウロの手紙を曲解していたからです。第3章15節と16節で、ペトロはパウロの手紙について記しています。「また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。その手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています」。偽教師たちは、パウロの教え、キリスト者の自由の教えを曲解して、自分の滅びを招いていたのです。自分だけではなく、入信したばかりのキリスト者たちを惑わせて、滅ぼそうとしていたのです。パウロは、キリスト者の自由について、『ガラテヤの信徒への手紙』で教えています。ガラテヤも小アジアにありましたから、ペトロの手紙の読者たちも、『ガラテヤの信徒への手紙』を読んでいたと思います(一ペトロ1:1「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」参照)。前回も申しましたが、イエス・キリストを信じる私たちは律法から自由な者とされています。それは、律法を守らなくてもよいということではありません。律法からの自由とは、律法を守れば祝福を受け、律法を破れば呪われるといった掟の世界からの自由であります。私たちの主イエス・キリストは、私たちに代わって神の掟を完全に守ってくださり、私たちに代わって罪の刑罰としての十字架の死を死んでくださいました。それゆえ、私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって神の御前に正しい者とされ、神の祝福に生きる者とされているのです。イエス・キリストによって、動物犠牲に代表される儀式律法は廃止されました(ヘブライ10:9、18参照)。しかし、十戒に代表される道徳律法は有効であるのです。私たちは、道徳律法の要約とも言える「隣人を自分のように愛しなさい」という掟をキリストの律法として与えられているのです(ガラテヤ5:14、6:2参照)。私たちは救われるために律法を守るのではなくて、救われた者として、感謝と喜びをもって、キリストの律法を守ることが求められているのです。聖書は、イエス・キリストの御言葉と聖霊に従って生きるところに自由があると教えています。イエス・キリストは、『ヨハネによる福音書』の第8章で、御自分を信じたユダヤ人たちにこう言われました。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:31、32)。また、使徒パウロは、『コリントの信徒への手紙二』の第3章17節でこう言っています。「ここでいう主とは、霊のことですが、主の霊のおられるところに自由があります」。聖書が教える自由とは、神の子としての自由であります。ですから、神の独り子であるイエス・キリストに従って生きるところに、本当の自由があるのです。イエス・キリストの御言葉と聖霊に従っていくところに、キリスト者の自由があるのです(ガラテヤ5章参照)。わたしは自由だと言って、欲望のままに生活して罪を犯しているならば、その人は、罪に打ち負かされている罪の奴隷であるのです。そして、罪の奴隷は、その報酬として死を受けることになるのです(ローマ6:23「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」参照)。

 20節から22節までをお読みします。

わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。ことわざに、/「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」また、/「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」と言われているとおりのことが彼らの身に起こっているのです。

 ここで、ペトロは、偽教師たちと偽教師たちの放縦を見倣う者たちを念頭に置いて語っています。救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、再び世の汚れに巻き込まれるなら、その人の状態は前よりも悪くなると言うのです。このことは、イエス様が教えられたことでもあります。『マタイによる福音書』の第12章43節から45節までをお読みします。新約の23ページです。

 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人のあとの状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」

 ここでイエス様は、私たちの体を家にたとえています。イエス様を信じて洗礼を受けることは、悪霊を追い出していただき、聖霊に住んでいただくことです。しかし、私たちが肉欲と放縦に身を委ねるならば、聖霊は私たちの内から去ってしまいます。私たちの家はかたづけられた空き家となるのです。すると、出て行った悪霊が七つの悪霊を引き連れて戻って来て、中に入り込んで住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなると言うのです。そうならないように、私たちは聖霊に喜ばれる聖なる生活を送る必要があるのです(エフェソ4:30「神の聖霊を悲しませてはいけません」参照)。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の438ページです。

 21節に、「義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに」とあります。このようにペトロが言うのは、イエス・キリストを知らずに犯した罪よりも、イエス・キリストを知ったうえで犯した罪のほうが厳しい罰を受けるからです(ルカ12:47、48「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む」参照)。偽教師たちも、また、偽教師たちに惑わされた者たちも、救い主イエス・キリストを深く知って、世の汚れから逃れた者たちでありました。しかし、彼らは再び汚れた生活に巻き込まれ、打ち負かされていたのです。そのような彼らを、ペトロは汚れた動物と考えられていた犬や豚にたとえます。「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」。「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」。偽教師たちや偽教師たちに惑わされた者たちは、犬や豚のように、汚れた生活に戻っていたのです。そのようなことが、私たちの身に起こることがないように、私たちは自由な神の子として、聖なる生活を追い求めていきたいと願います。

 今朝は最後に、『ヘブライ人への手紙』の第12章14節と15節をお読みします。新約の417ページです。

 すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。

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