神の裁きの二面性 2023年11月26日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

神の裁きの二面性

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ペトロの手紙二 2章1節~10節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:1 しかし、民の間には偽預言者も現れました。同じように、あなたがたの間にも偽教師が現れることでしょう。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を否定して、自らの身に速やかな滅びを招いています。
2:2 しかも、多くの人が彼らの放縦を見倣い、そのために真理の道がそしりを受けるのです。
2:3 彼らは欲に駆られ、嘘偽りであなたがたを食い物にします。この者たちに対する裁きは、昔から滞りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。
2:4 神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きに向けて閉じ込められました。
2:5 また神は、古い世界を容赦せず、不敬虔な者たちの世界に洪水を引き起こし、ただ、義を説いていたノアたち八人だけを守られました。
2:6 また、ソドムとゴモラの町を罰し、灰にして滅ぼし尽くし、不敬虔な行いをしようとする者たちへの見せしめとされました。
2:7 しかし神は、不道徳な者たちの放縦な振る舞いに悩まされていた正しい人ロトを救い出されました。
2:8 なぜなら、この正しい人は、彼らの間に住んでいたとき、その不法な行いを見聞きして、日々正しい心を痛めていたからです。
2:9 主は、敬虔な人々を試練から救い出す一方、正しくない者たちを、裁きの日まで懲らしめのもとに置くことを心得ておられるのです。
2:10 特に、汚れた欲のままに肉に従って歩み、主の権威を侮る者たちに対しては、そうなさいます。ペトロの手紙二 2章1節~10節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ペトロの手紙二』の第2章1節から10節前半より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。お配りしてある「聖書協会共同訳」に基づいてお話しいたします。

 前回学んだ、第1章19節から21節で、ペトロは、「預言の言葉」について記しました。預言とは「決して人間の意志によってもたらされたものではなく、人々が聖霊に導かれて、神からの言葉を語ったもの」であります。しかし、旧約聖書を読むと、自分の言葉を神の言葉として語る偽預言者もいました(エレミヤ28:15参照)。それと同じように、小アジアの教会にも、偽教師が現れるとペトロは言うのです。

 第2章1節から3節までをお読みします。

 しかし、民の間には偽預言者も現れました。同じように、あなたがたの間にも偽教師が現れることでしょう。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を否定して、自らの身に速やかな滅びを招いています。しかも、多くの人が彼らの放縦を見倣い、そのために真理の道がそしりを受けるのです。彼らは欲に駆られ、嘘偽りであなたがたを食い物にします。この者たちに対する裁きは、昔から滞りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。

 ここでペトロは、「あなたがたの間に、偽教師が現れることでしょう」と未来形で記していますが、実際に、小アジアの教会は、偽教師たちに惑わされていました。主イエス・キリストは、終わりの日々の徴として、偽預言者が現れて選ばれた人たちを惑わそうとすると預言しました(マルコ13:22参照)。その預言のとおり、小アジアの教会は偽教師によって惑わされていたのです。この偽教師たちは、教会を渡り歩いて教える巡回教師であったようです。巡回教師であった彼らは、小アジアの教会に滅びをもたらす異端(間違った教え)をひそかに持ち込みました。この「滅びをもたらす異端(間違った教え)」とは、主イエス・キリストの力に満ちた再臨を否定する教えであったようです。ペトロは、第1章16節で、こう記していました。「私たちは、私たちの主イエス・キリストの力と来臨をあなたがたに知らせるのに、巧みな作り話に従ったのではありません」。この「来臨」(パルーシア)は「再臨」のことです。偽教師たちは、主イエス・キリストが生きている者と死んだ者とを裁くために天から再び来られることを否定していたのです。そのようにして、偽教師たちは、自分たちを贖ってくださった主イエス・キリストを否定して、自らの身に速やかな滅びを招いていたのです。主イエス・キリストの再臨と裁きを否定することは、私たちを贖ってくださった主イエス・キリストを否定することであるのです。主イエス・キリストの再臨と裁きを否定することは、自分と他の人々に滅びをもたらす間違った教えであるのです。

 偽教師たちは、主イエス・キリストの再臨と裁きを否定して、放縦な生活をしていました。13節の後半から14節に、こう記されています。「彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみとしています。彼らは、染みや傷のようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、だまし事にふけって騒ぎます。その目は姦淫の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています」。そして、このような放縦な生活を、多くの人が見倣っていたのです。小アジアのキリスト者たちは、かつて異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていました(一ペトロ4:3参照)。しかし、彼らは生きている者と死んだ者とを裁かれる主イエス・キリストを信じて、ひどい乱行に加わらなくなったのでした(一ペトロ4:4、5参照)。しかし、偽教師たちの間違った教え、主イエス・キリストの再臨と裁きを否定する教えに惑わされて、小アジアのキリスト者たちは再びひどい乱行に加わる者となってしまったのです。それによって、真理の道であるイエス・キリストはそしりを受けていたのです。偽教師たちを見倣って放縦な生活をしているキリスト者たちのゆえに、彼らの主であるイエス・キリストが悪く言われ、非難されていたのです。

 偽教師たちは、欲に駆られ、嘘偽りで、小アジアのキリスト者たちを食い物にしていました。偽教師たちの関心は、小アジアのキリスト者たちの救いにあるのではなく、小アジアのキリスト者たちの持ち物にあったのです。偽教師たちは、主イエス・キリストの再臨と裁きを否定することによって、好き放題していたわけです。しかし、ペトロはこう言います。「この者たちに対する裁きは、昔から滞りなく行われており、彼らが滅ぼさないままでいることはありません」。偽教師たちは、主イエス・キリストの再臨と裁きを否定していました。しかし、旧約聖書を読むならば、このような者たちを神が裁かれることは明らかであるとペトロは言うのです。

 4節から10節の前半までをお読みします。

 神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きに向けて閉じ込められました。また神は、古い世界を容赦せず、不敬虔な者たちの世界に洪水を引き起こし、ただ、義を説いていたノアたち八人だけを守られました。また、ソドムとゴモラの町を罰し、灰にして滅ぼし尽くし、不敬虔な行いをしようとする者たちへの見せしめとされました。しかし、神は、不道徳な者たちの放縦な振る舞いに悩まされていた正しい人ロトを救い出されました。なぜなら、この正しい人は、彼らの間に住んでいたとき、その不法な行いを見聞きして、日々正しい心を痛めていたからです。主は、敬虔な人々を試練から救い出す一方、正しくない者たちを、裁きの日まで懲らしめのもとに置くことを心得ておられるのです。特に、汚れた欲のままに肉に従って歩み、主の権威を侮る者たちに対しては、そうなさいます。

 ペトロは、昔から滞りなく行われてきた裁きの実例として、旧約聖書の『創世記』から「罪を犯した天使たち投獄」と「ノアの時代の大洪水」と「ソドムとゴモラの滅亡」の三つをあげています。一つずつ見ていきます。「神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きに向けて閉じ込められました」。この御言葉は、『創世記』の第6章1節と2節を背景にしています。そこにはこう記されています。旧約の8ページです(新共同訳)。

 さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。

 ユダヤ人たちは、「神の子ら」を「天使たち」と解釈して、天使たちが神に背いて、美しい人間の娘を妻にしたと信じていました。また、神が罪を犯した天使たちを、暗闇という縄で縛り、地獄に引き渡し、裁きに向けて閉じ込めていると信じていたのです。そのようなユダヤ人の伝承を用いて、ペトロは、神の裁きは確実であると論証するのです。ペトロによれば、地獄に閉じ込められている罪を犯した天使たちは、主イエス・キリストが天から再び来られる日に、裁きを受けることになるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の437ページです(新共同訳)。

 次にペトロは、ノアの時代に起こった大洪水について記します。「また神は、古い世界を容赦せず、不敬虔な者たちの世界に洪水を引き起こし、ただ義を説いていたノアたち八人だけを守られました」。「古い世界」とは、「御言葉によって洪水に見舞われて滅んでしまった」世界のことです(3:6参照)。大洪水が起こる前の世界のことです。ペトロは、世界を三つの段階に分けて考えています。それは古い世界(洪水によって滅んでしまった世界)と今の世界と、イエス・キリストの再臨によって到来する新しい世界です。『大洪水』については、『創世記』の第6章から第8章に記されていますが、ここでは、第6章5節から13節までをお読みします。旧約の8ページです(新共同訳)。

 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」しかし、ノアは主の好意を得た。

 これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。ノアには三人の息子、セム、ハム、ヤフェトが生まれた。

 この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。神はノアに言われた。「すべての肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」。

 このように、神は洪水によって不敬虔な者たちを滅ぼされたのです。しかし、神は義を説いていたノアたち八人を救われました。ノアたち八人は、神の言葉に従って箱舟を造ることによって、神の正しさを説いたのです。ちなみにノアたち八人とは、ノアとその妻、ノアの三人の子供たちとそれぞれの妻のことです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の437ページです(新共同訳)。

 ペトロは、三つ目の実例として、ソドムとゴモラの町の滅亡について語ります。6節。「また、ソドムとゴモラの町を罰し、灰にして滅ぼし尽くし、不敬虔な行いをしようとする者たちへの見せしめとされました。しかし神は、不道徳な者たちの放縦な振る舞いに悩まされていた正しい人ロトを救い出されました。なぜなら、この正しい人は、彼らの間に住んでいたとき、その不法な行いを見聞きして、日々正しい心を痛めていたからです」。ソドムとゴモラの滅亡については、『創世記』の第19章に記されています。1節から13節までをお読みします。旧約の25ページです(新共同訳)。

 二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき、ロトはソドムの門の所に座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏して、言った。「皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。そして、明日の朝早く起きて出立なさってください。」彼らは言った。「いや、結構です。わたしたちはこの広場で夜を過ごします。」しかし、ロトがぜひにと勧めたので、彼らはロトの所に立ち寄ることにし、彼の家を訪ねた。ロトは、酵母を入れないパンを焼いて食事を供し、彼らをもてなした。

 彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた。「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」ロトは、戸口の前にたむろしている男たちのところへ出て行き、後ろの戸を閉めて、言った。「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」男たちは口々に言った。「そこをどけ。」「こいつは、よそ者のくせに、指図などして。」「さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる。」そして、ロトに詰め寄って体を押しつけ、戸を破ろうとした。二人の客はそのとき、手を伸ばして、ロトを家の中に引き入れて戸を閉め、戸口の前にいる男たちに老若を問わず、目つぶしを食わせ、戸口を分からなくした。二人の客はロトに言った。「ほかに、あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主はこの町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです。」

 飛んで、23節から25節までをお読みします。

 太陽が地上に昇ったとき、ロトはツォアルに着いた。主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。

 このように神はソドムとゴモラの町を罰し、灰にして滅ぼし尽くし、不敬虔な行いをしようとする者たちの見せしめとされたのです。しかし、神は不道徳な者たちの放縦な振る舞いに悩まされていた正しい人ロトを救い出しました。神は、ソドムの人々の不法な行いを見聞きして、日々正しい心を痛めていたロトを、ソドムの滅亡から救い出されたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の437ページです(新共同訳)。

 神は大洪水から義を説いていたノアたち八人を守られました。また、ソドムの滅亡から正しい人ロトを救い出されました。このように主は、敬虔な人々を試練から救い出す一方で、正しくない者たちを、裁きの日まで懲らしめのもとに置くことを心得ておられるのです。このように主の裁きには二つの面があるのです。主の裁きは、敬虔な人々にとっては試練からの救いをもたらし、正しくない者にとっては滅びをもたらすのです。ペトロが「主は、・・・正しくない者たちを、裁きの日まで懲らしめのもとに置くことを心得ておられるのです」と記すとき、この「裁きの日」は主イエス・キリストが天から再び来られる日の裁き、いわゆる最後の審判のことです。地獄に閉じ込められている罪を犯した天使たちも、また、洪水によって流された不敬虔な者たちも、天からの硫黄の火によって滅ぼされたソドムとゴモラの人々も、主イエス・キリストが天から再び来られる日に、恥辱へとよみがえらせられて、最終的で、決定的な裁きを受けることになるのです(『ウェストミンスター信仰告白』第32章「人間の死後の状態について、また死人の復活について」の3「正しくない者のからだは、キリストの力によって恥辱によみがえらせられる。正しい者のからだは、キリストのみたまによって栄誉によみがえらせられ、キリストご自身のからだに似るものとされる。」参照)。

 ペトロは、10節で、「特に、汚れた欲のままに肉に従って歩み、主の権威を侮る者たちに対しては、そうなさいます」と記しています。これは、偽教師たちへの警告の言葉です。主イエス・キリストの再臨と裁きを否定して、汚れた欲のままに肉に従って歩み、主イエス・キリストの権威を侮る者たちは必ず裁きを受け、滅びることになるのです。

 私たちは、主イエス・キリストの十字架の死と復活は強調しても、再臨と裁きについてはあまり語らないのではないかと思います。しかし、今朝の御言葉で教えられることは、主イエス・キリストの再臨と裁きこそが、私たちキリスト者の倫理を成り立たせているということです。主イエス・キリストは、正しくない者を滅ぼされるだけではなく、御自分に従う敬虔な者たちを救い出してくださる御方であります。イエス・キリストを信じる私たちは、今すでに救われていますが、主イエス・キリストが再び天から来られる日に、その裁きを通して、最終的に、救われるのです。ペトロは、第3章13節で、「義の宿る新しい天と新しい地」について記しています。主イエス・キリストが天から再び来られる日、今の世界は火で焼かれてしまいます(3:7参照)。そして、義の宿る新しい天と新しい地が到来するのです。その神の約束に希望を置いているからこそ、私たちは、主イエス・キリストの権威を認めて、主イエス・キリストの御言葉と聖霊に従って歩んでいるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す