思い直し、惜しまれる神 2023年10月29日(日曜 朝の礼拝)

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思い直し、惜しまれる神

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨナ書 3章1節~4章11節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:1 主の言葉が再びヨナに臨んだ。
3:2 「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」
3:3 ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。
3:4 ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」
3:5 すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。
3:6 このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、
3:7 王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。
3:8 人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。
3:9 そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」
3:10 神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。
4:1 ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。
4:2 彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。
4:3 主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」
4:4 主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」
4:5 そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。
4:6 すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。
4:7 ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。
4:8 日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」
4:9 神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」
4:10 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。
4:11 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

ヨナ書 3章1節~4章11節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは海に投げ込まれたヨナが大きな魚に呑み込まれて、命を救われたお話しを学びました。第2章には、ヨナが魚の腹の中から自分の神、主に祈った祈りの言葉が記されています。4節に、「あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた」とあるように、ヨナは、自分が深い海に投げ込まれたことを主の裁きとして受けとめています。ヨナは、主の御言葉に背いて、ニネベとは逆方向のタルシシュに行こうとしました。ヨナは、主の御前から逃れようとしたのです。そのヨナの罪に対する罰として、主は船乗りたちの手によって、ヨナを深い海に投げ込まれたのです。荒れ狂う海の中に放り込まれれば、人は溺れて死んでしまいます。しかし、主は大きな魚に命じて、ヨナを呑み込ませ、その命を救われました。8節に、「息絶えようとするとき/わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き/聖なる神殿に達した」とあるように、ヨナは荒れ狂う海の中で、溺れながら、主に祈ったのです(3節も参照)。そのヨナの祈りを、主は聞いてくださって、大きな魚を用いて、ヨナの命を滅びの穴から引き上げてくださいました。ヨナは深い海に投げ込まれるという主の裁きと、大きな魚に呑み込まれるという主の救いを経験して、主に忠節を誓います。ヨナは、荒れ狂う海の底から救われた者として、「救いは、主にこそある」と確信をもって告白するのです。

 11節に、「主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した」とあります。この陸地は、地中海沿岸のどこかでしょう(ニネベではない)。こうして、ヨナはカナンの地に戻って来たのです。

 主の言葉が再びヨナに臨みました。「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ」。「主の言葉が再びヨナに臨んだ」とあるように、主は逃れようとしたヨナを再び、大いなる都ニネベに遣わされます。ニネベは、まことの神を知らない異邦人の都、しかもイスラエルを苦しめていたアッシリア帝国の首都でした。そのニネベに行って、主の言葉を語るようにヨナは再び命じられるのです。かつてヨナはニネベとは逆方向のタルシシュに逃れようとしました。しかし、今度は主の命令どおり、直ちにニネベに行きます。ヨナは主に命を救われた者として、主の命令に直ちに従うのです。ニネベは一回りするのに三日かかる、非常に大きな都でした。ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら、こう叫びます。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」。これが、主がヨナに語った言葉であったのです。このような滅びの宣言を聞けば、反発しそうなものですが、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまといました。ニネベの人々は、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」というヨナの言葉を、そのとおりに実現する神の言葉として受け入れて、悔い改めのしるしである断食を行い、粗布をまとったのです(粗布とは「山羊の毛で織った地の粗い黒色の布」のこと)。そして、このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がって王の衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベの町全体に断食を命じたのです。その布告の内容が第3章7節から9節に記されています。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない」。ここでニネベの王は、イスラエルの預言者のような言葉を語ります。ここで面白いのは、人間だけではなく、牛や羊も断食するように命じられていることです。家畜は服を着ないものですが、家畜まで粗布をまとうように命じられています。このことは、ニネベの町の悔い改めが徹底的であったことを表しています。ニネベの人々の悔い改めは、断食をすることや粗布をまとうことに留まることなく、悪の道を離れ、その手から不法を捨てるという生活全体に及ぶものであったのです。ヨナが告げた言葉は滅びの宣言であり、その滅びからの救いについては何も語っていませんでした。しかし、ニネベの王は、「そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない」と言うのです。ここで、ニネベの王は、神が自由な御方であることを語っています。ニネベの人々が断食して粗布をまとい、ひたすら神に祈り、悪の道を離れ、その手から不法を捨てたからと言って、神は必ずしも思い直されるわけではありません。ニネベの人々が悔い改めることによって、思い直すことを神に強制されることはないのです。ニネベの人々が悔い改めて、悪の道から離れることは、神が思い直される必要条件ではありますが、だからと言って、ニネベの人々の悔い改めによって、神が必ず思い直さねばならないのではないのです。にもかかわらず、神はニネベの人々が悪の道から離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられたのです。

 ヨナは、一日分の距離を歩きながら、「あと四十日すれば、ニネベは滅びる」と叫びましたが、どのような気持ちで叫んでいたのでしょうか。「ニネベの人たち、あなたたちは滅んではいけない」という思いで、叫んでいたのでしょうか。どうもそうではないようです。むしろ、「あと四十日すれば、ニネベは滅びる。いや、滅びてしまえ」という思いで叫んでいたようです。と言いますのも、神が思い直されて、宣告した災いをくだすのをやめられたことに、ヨナは大いに不満であり、怒っているからです。ヨナは、主に訴えてこう言います。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです」。

 ここで、ヨナは、自分がタルシシュに向かって逃げた理由を語っています。なぜ、ヨナはニネベに行かずに、タルシシュに行こうとしたのか。それは、自分がニネベに行って、主の言葉を語れば、ニネベの人々が悔い改めて、主が災いをくだすことを思い直されるかもしれないと思ったからです。ヨナにとって、イスラエルの敵であるアッシリア帝国の都ニネベは滅んだほうがよいのです。『創世記』の第18章に、ソドムとゴモラの罪は非常に重いと訴える叫びが主に届いたことが記されています。そして、第19章には、主がソドムとゴモラの上に天から硫黄の火を降らせて、町の全住民を地の草もろとも滅ぼしたことが記されています。ヨナは、かつて主がソドムとゴモラを徹底的に滅ぼされたように、アッシリア帝国の都ニネベを徹底的に滅ぼしてほしかったのです。しかし、主はニネベの人々を悔い改めさせるために、ヨナを遣わされたのです。ヨナは、主の裁きから救われた者として、主の命令に直ちに従いました。しかし、ヨナの心は神の御心からは遠く離れているのです。神は、「滅びてはならない」という思いから「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」という言葉を、ヨナに告げました。しかし、ヨナは、「滅んでしまえ」という思いから、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」という言葉をニネベの人々に告げたのです。しかし、そのヨナの思いとは裏腹に、ニネベの人々は悔い改めて、悪の道を離れました。そして、そのようなニネベの人々を、神は憐れみ、災いをくだすことを思い直されたのです。もし、これが異邦人の都ニネベの人々ではなく、契約の民であるイスラエルの人々であったならば、ヨナは満足して、喜んだと思います。ヨナは、神がイスラエルの民に対して、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直されることを喜んだと思います。しかし、異邦人の、イスラエルの敵であるニネベの人々に対して、主が忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとして思い直されることは死んでも許せないのです。ヨナにとって、主はイスラエルの神であり、イスラエルは神によって選ばれた特別な民であるのです。ヨナの信仰の根底には、そのような選民意識があるのです。主は、「お前は怒るが、それは正しいことか」と問われます。これに対してヨナは何も答えません。ヨナは、都を出て東の方に座り込みました。そして、そこに小屋を建て、日差しを避けてその中に座り、都に何が起こるか見届けようとしたのです。ヨナは、「あと四十日されば、ニネベの都は滅びる」という主の御言葉が、そのとおりになるかどうかを見届けようとしたのです。そして、実は、この主の御言葉は、そのとおりにニネベの人々の上に実現したのです。と言いますのも、ここで「滅びる」と訳されている言葉(ハーファク)は、「転覆する」「ひっくり返る」とも訳せるからです(岩波訳「あと四十日するとニネベはひっくり返される」参照)。ニネベの人々は、主の御言葉のとおり、ひっくり返った、悔い改めたのです。

 すると、主なる神はヨナの苦痛を救うために、とうごまの木に命じて芽を出させました。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、ヨナはとうごまの木を大いに喜びました。ところが翌日の明け方、神は虫に命じて、とうごまの木を食い荒らさせたので、とうごまの木は枯れてしまいました。日が昇ると神は、焼きつくような東風に吹きつけるように命じました。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願ってこう言います。「生きているよりも、死ぬ方がましです」。神はヨナにこう言われます。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか」。ヨナはこう答えます。「もちろんです。怒りのあまり死にたいぐらいです」。すると、主はこう言われます。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」。このように、主はヨナに、人間と家畜を造り、育んでいる自分が、大いなる都ニネベを惜しむのは当然であると言われるのです。主はヨナに、御自分がどのような神であるかを忍耐深く教えられるのです。ヨナは、第4章2節で、「あなたは恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」と言っていますが、そのことは、イスラエルの民とヨナに対してだけではなく、ニネベの人々に対しても言えるのです。そして、主は、そのことをヨナに忍耐深く教えられるのです(ちょうど主イエス・キリストがその弟子たちを忍耐深く教えられたように)。

大いなる都ニネベには、十二万人以上の右も左もわきまえない人間がいました。これは子供だけのことを言っているのではなくて、律法を持っていない異邦人であるニネベの人々のことを指しています。創造主である神は、ニネベに住む十二万人以上の人間と無数の家畜を惜しまれる御方として、ニネベを滅ぼすことを思い直されたのです。今朝は、「招きの言葉」として、『エゼキエル書』の第18章の御言葉をお読みしました。その32節に次のように記されていました。「『わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる」。この御言葉は、イスラエルの民に語られた御言葉ですが、異邦人を含めたすべての人に語られている御言葉でもあります。神は、すべての人が悔い改めて、悪の道を離れ、御自分の裁きから救われることを望んでいるのです(一テサロニケ1:10参照)。それゆえ、神は、ヨナにまさるもの、御子イエス・キリストを世に遣わしてくださったのです。イエス様は、『マタイによる福音書』の第12章41節でこう言われます。新約の23ページです。

ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。

父なる神は、すべての人が悔い改めて、永遠の命を得るために、ヨナにまさるもの、神の独り子イエス・キリストを遣わしてくださいました(ヨハネ3:16参照)。そして、今も、父なる神は、イエス・キリストの教会を用いて、すべての人に救いの言葉を宣べ伝えているのです。私たちは父なる神の愛を知っている者として、救いの言葉であるイエス・キリストの福音を、これからも宣べ伝えていきたいと願います(二テモテ4:2参照)。  

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