主から逃れようとしたヨナ 2023年10月15日(日曜 朝の礼拝)

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主から逃れようとしたヨナ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨナ書 1章1節~16節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。
1:2 「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」
1:3 しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。
1:4 主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。
1:5 船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした。しかし、ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた。
1:6 船長はヨナのところに来て言った。「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない。」
1:7 さて、人々は互いに言った。「さあ、くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難がふりかかったのか、はっきりさせよう。」そこで、くじを引くとヨナに当たった。
1:8 人々は彼に詰め寄って、「さあ、話してくれ。この災難が我々にふりかかったのは、誰のせいか。あなたは何の仕事で行くのか。どこから来たのか。国はどこで、どの民族の出身なのか」と言った。
1:9 ヨナは彼らに言った。「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。」
1:10 人々は非常に恐れ、ヨナに言った。「なんという事をしたのだ。」人々はヨナが、主の前から逃げて来たことを知った。彼が白状したからである。
1:11 彼らはヨナに言った。「あなたをどうしたら、海が静まるのだろうか。」海は荒れる一方だった。
1:12 ヨナは彼らに言った。「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている。」
1:13 乗組員は船を漕いで陸に戻そうとしたが、できなかった。海がますます荒れて、襲いかかってきたからである。
1:14 ついに、彼らは主に向かって叫んだ。「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。」
1:15 彼らがヨナの手足を捕らえて海へほうり込むと、荒れ狂っていた海は静まった。
1:16 人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てた。ヨナ書 1章1節~16節

原稿のアイコンメッセージ

 先週で、『テサロニケの信徒への手紙二』を学び終えました。今朝から『ヨナ書』を学びたいと思います。今朝は、第1章から、御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

 1節に、「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ」とあります。「ヨナ」とは「鳩」という意味です。「アミタイの子ヨナ」については、『列王記下』の第14章25節に記されています。実際に開いて確認しましょう。旧約の602ページです。第14章23節から25節までをお読みします。

 ユダの王、ヨアシュの子アマツヤの治世第十五年に、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムがサマリアで王となり、四十一年間王位にあった。彼は主の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪を全く離れなかった。しかし、イスラエルの神、主が、ガト・へフェル出身のその僕、預言者、アミタイの子ヨナを通して告げられた言葉のとおり、彼はレボ・ハマトからアラバの海までイスラエルの領域を回復した。

 ここから私たちは、アミタイの子ヨナが北王国イスラエルの王、ヤロブアム二世の時代の人であったことを知ることができます。ヤロブアム二世の治世は、紀元前783年から743年までですから、ヨナは、紀元前8世紀に活躍した預言者でした。また、ヨナは「ガト・ヘフェル出身」であったと記されています。ガト・ヘフェルは、ガリラヤ地方の町で、主イエスが育ったナザレから北東4キロメートルにあったと考えられています。主は、その僕ヨナを通して、ヤロブアム二世がイスラエルの領地を回復すると預言していました。そして、その預言のとおり、ヤロブアム二世はレボ・ハマトからアラバの海までイスラエルの領地を回復したのです。ヨナは、紀元前8世紀に北王国イスラエルで活躍した、ガリラヤ地方出身の主の僕、預言者であったのです。

 では、今朝の御言葉に戻りましょう。旧約の1445ページです。

 主の言葉がアミタイの子ヨナに臨みました。「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている」。ニネベは、チグリス川中流の東岸に位置する非常に大きな町でした(聖書地図1を参照)。ニネベは、まことの神を知らない異邦人の都であり、イスラエルを苦しめていたアッシリア帝国の首都であったのです(紀元前722年に北王国イスラエルはアッシリア帝国によって滅ぼされる)。その大いなる都ニネベに、主は御自分の僕、預言者ヨナを遣わされるのです。しかし、ヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かいました。タルシシュは、南スペインにあった町と考えられています。ヨナはニネベとは反対の方向へ、できるだけ遠くの町に逃れようとしました。ヨナは地中海沿岸にある港町ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込みました(聖書地図6を参照)。この船には色々な国の人々が乗り込んでいました。その色々な国の人々に紛れて、ヨナは主から逃れようとタルシシュに向かったのです。

 しかし、主はヨナを逃しませんでした。主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなったのです。船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげました。自分の神に、嵐を沈めて、船が難破しないようにと祈ったのです。そして、積み荷を海に投げ捨てて、船を少しでも軽くしようとしたのです。人々はそれぞれの神に祈っただけではなく、自分たちができる最善のことをしたのです。しかし、ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすり寝込んでいました。私たちは、ここで、嵐の中で眠っていたイエス様のことを思い起こすかも知れません。激しい突風によって波をかぶり、水浸しになるほどであった舟の中で、イエス様は眠っておられました(マルコ4:37、38参照)。イエス様は父なる神が共にいてくださるという安心感からぐっすり眠っていたのです。ヨナもぐっすり眠っていました。しかし、その理由は全く違います。ヨナは主なる神からうまく逃れることができたという安心感からぐっすり眠っていたのです。

船長は船底で眠っているヨナにこう言います。「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない」。このように、船長はヨナに、自分の神に祈るように言うのですが、ヨナが祈ったとは記されていません。おそらくヨナは祈らなかったと思います。ヨナは、この嵐の原因が主から逃れようとしている自分にあることをよく知っていたからです。

 人々は互いにこう言いました。「さあ、くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難がふりかかったのか、はっきりさせよう」。当時の人々は、くじを引くことによって、神の意志を知ることができると考えていました(サムエル上14章参照)。それで、くじを引いて、誰のせいで、このような災いに遭っているのかを知ろうとしたのです。くじを引くとヨナに当たりました。ヨナのせいで、この災難がふりかかっていることが、人々にも明らかになったのです。人々はヨナに詰め寄って、こう言います。「さあ、話してくれ。この災難が我々にふりかかったのは、誰のせいか。あなたは何の仕事で行くのか。どこから来たのか。国はどこで、どの民族の出身なのか」。ヨナは彼らにこう言います。「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ」。「ヘブライ人」とは、イスラエルの民が外国人に対して自分のことを語るときに用いる言葉です。ヨナは詰め寄る人々に、自分が主の前から逃げてきたことを白状しました。すると人々は非常に恐れて、「なんという事をしたのだ」と言ってヨナを非難したのです。ここで面白いのは、ヨナがまったく主を畏れていないということです。「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ」と言うのですが、ヨナが信じているのは、イスラエルの神としての主であるのです。ヨナは、イスラエルの神としての主を畏れる者であるゆえに、異邦人の都、イスラエルの敵とも言えるニネベに行って、主の言葉を語る務めから逃れようとしたのです。また、ヨナは、イスラエルの神としての主を畏れるゆえに、外国に行けば逃れられると考えたのです(詩139:7とは対照的)。「主を畏れる」ことには、「主に従う」ことが含まれています。ですから、主の前から逃げて来たヨナは、主を畏れていないのです。

 ヨナが主の前から逃げて来たことを知った人々は、ヨナにこう言います。「あなたをどうしたら、海が静まるだろうか」。海は依然として荒れ狂ったままであったのです。ヨナは彼らにこう言います。「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている」。新共同訳聖書は、「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい」と訳していますが、もとの言葉には、「手足」という言葉はありません。聖書協会共同訳は次のように翻訳しています。「私を担いで、海に投げ込んでください。そうすれば海は静まるでしょう」。「手足を捕らえて」と聞くと、手足をロープで縛ったように思えますが、そうではありません。ヨナは自分の意志によって海に投げ込まれるのですから、手足を縛る必要はないのです。ヨナは人々が自分のせいで滅びることがないように、自分を抱えて海にほうり込むようにと言うのです。

 しかし、乗組員たちは船を漕いで陸に戻そうとしました。彼らは、ヨナを海にほうり込むことをできれば避けたいと考えたのです。しかし、海はますます荒れて、襲いかかってきたので、船を陸に戻すことはできませんでした。ついに彼らは、主に向かってこう叫びます。「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから」。ここでは、まことの神を知らない異邦人である乗組員たちが、主に向かって叫んでいます。それぞれ信じていた神々の名を呼んでいた彼らが、「海と陸とを創造された天の神、主」の御名を呼ぶのです。彼らは、荒れ狂う海の中で、ヨナを抱えて海にほうり込むことが、主の御心であると判断し、「この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください」と言うのです。そして、彼らがヨナを抱えて海へほうり込むと、荒れ狂っていた海は静かになりました。ヨナが言っていたように、ヨナを海にほうり込むと海は穏やかになったのです。人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てました。この「誓い」がどのような誓いであったのかは分かりませんが、おそらく、「これから自分たちは、海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者となります」という誓いであったと思います。こうして、まことの神を知らない異邦人たちが、海と陸を創造された天の神、主を畏れる者となったのです。

 今朝は最後に、ヨナが主の言葉に従わないで、主から逃れようとした理由について、もう少しお話ししたいと思います。ヨナが主から逃れようとした理由については、第4章2節と3節に記されています。ニネベの人々は、ヨナの言葉を聞いて、悔い改めました。それを御覧になって、神は思い直されて、宣告した災いをくだすのをやめられました。ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒って、主にこう訴えます。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです」。なぜ、ヨナは、ニネベに行かずに、逆方向のタルシシュへ行こうとしたのか。それは、ニネベに行って、主の言葉を語り、悔い改めるようなことがあれば、主がニネベを滅ぼすことを思い直されると知っていたからです(出エジプト32~34章、特に34:6、7参照)。イスラエルの神としての主を畏れるヨナにとって、敵とも言えるニネベの人々を滅ぼすことが主の正義に適うことでありました。ヨナは、主がイスラエルの敵であるニネベの人々を滅ぼしてくださるのであれば、死んでもよいと思っていたのです。ですから、ヨナは、荒れ狂う嵐の中でも、主に祈ることなく、人々に「わたしを担いで、海に投げ込んでください」と言ったのです。ヨナは、自分で海に飛び込むようなことはしませんでした。それは、自殺行為であり、ヨナにとってできないことであったのです。それで、ヨナは人々に「わたしを担いで、海に投げ込んでください」と言ったのです。そして、ヨナの言葉に従って、人々はヨナを海に投げ込んだのです。そのようにして、人々は滅ぼされないですんだのです。ここに、私たちは人々を救った、ヨナの自己犠牲を見ることができるかも知れません。イエス・キリストが私たちを救うために、十字架のうえで死んでくださったように、ヨナの自己犠牲を見ることができるかも知れません。しかし、ヨナとイエス・キリストとの決定的な違いは、ヨナは自分の罪のゆえに、人々を滅びの危険にさらしており、その責任を取ったに過ぎないということです。他方、イエス・キリストは罪のない御方でありながら、私たちの罪の責任を取ってくださいました。14節に、「無実な者を殺したといって責めないでください」と記されています。ヨナは「無実な者」と言われていますが、これは皮肉、アイロニーです。主に背いて、主から逃れようとすることは、主の僕であり、預言者であるヨナにとって、死に値する罪であるのです。そのことを知っていたからこそ、ヨナは、「わたしを担いで、海に投げ込んでください。そうすれば海は静まるでしょう」と言ったのです。ここでもう一度指摘しておきたいことは、ヨナの信仰が主なる神をイスラエルだけの神とする民族主義的な信仰であったということです。ヨナは知識としては、主が海と陸を創造された天の神であることを知っています。しかし、ヨナが信じているのは、イスラエルの神としての主であるのです。ニネベのことなど放っておいて、滅ぼしてしまわれる神であるのです。そのような神でなければ、ヨナは従わないのです。そのような神でなければ、ヨナは死んでもよいとさえ思っているのです。これはまことに頑なな信仰です。ヨナという名前は「鳩」という意味であると申しました。イエス様は、弟子を遣わすに当たって、「鳩のように素直になりなさい」と言われました(マタイ10:16)。しかし、ヨナは鳩という名前に反して、まことに頑なであるのです。そのような頑なな信仰、天地を造られた神をイスラエルだけの神とする民族主義的な信仰を正すために、主は大嵐を起こし、人々の手を通してヨナを荒れ狂う海に投げ込まれたのです。  

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