神の賜物 心に湧き出るいのちの水(奨励題) 2023年9月17日(日曜 朝の礼拝)

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神の賜物 心に湧き出るいのちの水(奨励題)

日付
説教
大澤長老(奨励者)
聖書
ヨハネによる福音書 4章7節~26節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
4:15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
4:16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
4:17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
4:18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
4:19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
4:20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4:21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
4:22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
4:25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
4:26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」ヨハネによる福音書 4章7節~26節

原稿のアイコンメッセージ

1 水を飲ませてください 4:7-12

サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」

7から12節は、サマリアの女の人が主イエスに出会った始めのところです。井戸の水をめぐって、主イエスとサマリアの女の人との対話が始まります。イエスが言われた「生きた水」は、旧約のエレミヤ書に、ユダの民について指摘しているところがあって、そこで、主なる神が、あなたがたにとって神御自身が「生ける水の源である」、あるいは「いのちの水の源である」*1と言っていますので、私たちにはこれが理解の助けになります。この「生きた水」については後ほど触れることにします。

主イエスとこの女の人が出会ったサマリアのシカルという町には、泉は見られず、そして、この井戸は地下20メートルくらい深く掘った井戸だったようです。それでも涸れることなく水が得られる井戸は大切にされてきました。井戸は、人の生活にとっては言うまでもありませんが、羊など家畜に水を飲ませる*2ためにも必要なもので、旧約聖書には井戸をめぐる争いが記されている*3ことからもその大切さを察することができます。数mの深さの井戸から水をくみ上げるのでも一苦労ですから、ここで暮らす人々は大変な労力をかけて水をくみ上げていたわけです。ここサマリアのシカルという町では、父祖ヤコブがこの井戸を与えてくれたと人々は考えていました。サマリアの女の人からすれば、井戸のそばにたまたま座っていた人から、神の賜物として生きた水を与えると言われても、何のことか受けとめる用意もなく、長い間この井戸水を利用してきた側の人からすれば、ヤコブほどの偉い人がありえようかと疑念を抱くのがせいぜいのところだったのでしょう。そもそも、ユダヤ人の男の人がサマリア人に、しかも女の人に話しかけることからして、いぶかしく思えたわけです。なお、彼女はこの人を「主よ」と呼んでいますが、これは「主イエス」と言うときの「主」とは違って、通俗的な言葉で言えば「旦那さん」とか「お前様」とかいう名前がわからない人への呼びかけの言葉です。

*1 エレミヤ書2:13,17:12 新共同訳と聖書協会共同訳から *2 創世記29-14

*3 創世記21:22-30、創世記26:15-22

2 その水をください 4:13-15

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

どのくらいの距離を運ぶのかはわかりませんが、水を満たした桶をもって家にまで運ぶのもまた大変な労力を使います。まして暑い昼間は避けたいのです。くり返してイエスが言われた「わたしが与える水」を、サマリアの女の人は、暑い昼間にこの井戸まで汲みに来なくてすむ湧き出る水と、ここで聞き取ったようです。それで、まだこの人がだれであるか知らないままに、「その水をください」と求めたのでした。このときも、主イエスの与えようとされる水と彼女が求める水とは同じでものではありませんでした。このすれ違いにもかかわらず、主イエスは、彼女が「永遠の命に至る水」を求めるように、なお対話を続けられます。そしてこの対話は、次の新たな段階へと彼女を導くことになりました。

3 行って、あなたの夫をここに呼んできなさい 4:16-18

イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」

当時のユダヤの教えでは、三人以上の夫を持った女性は世に認められず、夫は宗教的な枠組みから外されるというのが一般の考えでした*4。 モーセ五書を聖書としていたサマリア人の社会も同じような考え方であったでしょう。6節にこの出来事が「正午ごろのことである。」と記されています。このように時が記されていることから、人々は正午ごろの厳しい日差しを避けて外には出ない時であったということがわかります。このサマリアの女の人が「正午ごろ」に水を汲みに来た、ということは、人との関わりを避けていたということをうかがわせます。彼女が道徳的な負い目を背負い込んで生活していて、他の人との接触を避け、また律法にもかなわない遍歴があったために神を礼拝することからも遠ざかって生活していた、それが、正午ごろに水を汲みに来た背景と言えます。しかし、負い目があるからといって、塞ぎ込んで生活することはできません。この婦人は、人々からは受け入れられない自分の遍歴に関する思いを心深くしまい込み、その部分に蓋をして、それで日常においては支障なく生活していたのではないでしょうか。

「あなたの夫をここに呼んできなさい。」と言われたときに、「わたしには夫はいません。」と答えて、宗教的な規範から外れている自分の非が表に出ないようにする、この一言が精いっぱいの返答だったのでしょう。「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。」という言葉によって、井戸の水を求めて自分に声をかけた人から、思ってもみなかった自分の内情を、それも端的に指摘されたのです。 しかも心に蓋をしておいた事柄について、「あなたは、ありのままを言ったわけだ」と言われたのです。この女の人が心に深く沈めた思いを「ありのままに」彼女の意識上に引き出されたのです。

ところで、女の人が「その水をください」と求めたときに、主イエスは、「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい。」と言われています。この主イエスの言葉はこの女の人にとってそうだったと思いますが、この聖書を読む私たちにとっても、唐突な言葉のように聞こえます。「その水をください」ということが、「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい。」ということと、どうつながるのでしょうか。主イエスは、この女の人に与えようとされている水を初めから「生きた水」と言っていました。この「生きた水」が何を意味しているのかを理解できれば、イエスが、なぜ「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」と言われたのかも理解できるはずです。

このヨハネによる福音書では、3章に、ニコデモという人が夜にイエスを尋ねてきた話があります。それに続いて、洗礼者ヨハネが証言した言葉が挿入され、そして4章のこのサマリアの女の記事になります。この三つの記事は、共通したテーマを扱っています。ニコデモについては、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と、イエスは言われました。そして、洗礼者ヨハネの、「御子を信じる人は永遠の命を得ている」(3:36)という言葉を記し、このサマリアの女の記事で「生きた水」がテーマになっています。一連のこの記事を読んでいけば「生きた水」について理解できると思います。そして、その背景にあるのが旧約聖書にあって、その一つとして、エゼキエル書が「生きた水」について私たちの理解を助けてくれます。

わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。 エゼキエル書36:25-27(旧約p.1356)

エゼキエル書のこの言葉に照らし合わせると、この婦人が「その水をください」と意志表示をしたときに、主イエスが「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われた理由が理解できます。主イエスは「生きた水」を与えるに際し、この女の人をエゼキエル書が言う「すべての汚れとすべての偶像から清める」ことへと導こうとされたのでしょう。そして、その端緒が、「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」という促しの言葉だったのです。さらに、主イエスは、エゼキエル書が言う「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く」と言われているところへ、この婦人を導こうとされている。このように受けとめることができます。もちろん、この婦人は夫をここに呼んでくることはできません。それで、「わたしには夫はいません。」と答えざるを得なかったわけですが、主イエスにとってはこの言葉で十分だったのでしょう。

*4 Donald Guthrie New Bible Commentary 21st-century edition IVP 1994

4 あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています 4:19-20

 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」

主イエスが、のどの渇きからこの深い井戸の水を求めて、水をくみに来た女の人に声をかけましたが、彼女は主イエスをユダヤ人の男の人としていぶかしく思い、すぐに水をくみ上げて飲ませることはしませんでした。代わって自分の疑念を素直に言い表しました。しかし今は、イエスを預言者と見ています。それは、心の内で深く閉じ込めておいたことを、主イエスが彼女の意識上に引き出したからです。この女の人が、初めから権威を持った偉い先生と見ていたなら、警戒してさらに心の蓋を強く締めようとしたかもしれません。しかし、思わぬ時に、思わぬ人からの言葉で、彼女の心が「石の心」ではなく柔らかい「肉の心」へと変化したのです。それでこの人の言うことに聞き従おうという思いが湧きおこりました。そう考えたときにあらためて思い至ったのは、自分はサマリア人で、聞き従うべき預言者と見た人がユダヤ人であるということでした。

「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、…」(19-20) というこの箇所については、罪を指摘された女がその話題をそらすために別の議論を持ち出した、と解説している*5ものがあります。 議論をそらすという見方は古い時代からあったようで、カルヴァンはこう指摘しています。「なんらかの教師に出会う時には、その機会を利用して、神に対して恩知らずでないようにしなければならない。神は、わたしたちに預言者をつかわす時には、必ず、同時に、いわば手をさしのべて、自分の方にわたしたちを招き寄せようとしているのである。」カルヴァンはこう述べたあとに、「この女は狡猾に話題を転じようとしているのである、と考える人はまちがっている。むしろ、・・・神への純粋な奉仕について教えを受けようとしているのだ。」*6と言っています。 ユダヤ人の預言者が自分の心深くしまい込んである罪を見通していることを知り、言葉には表してはいませんけれども、罪の自覚とともに謙遜の心を取り戻した、あるいは取り戻ししつつある結果である、と読むのが適切なのではないかと思います。彼女が、この預言者から教えを聞き、それに従おうとするとき、神を礼拝することについて、また、礼拝する場所について引っかかる思いが起こったのです。サマリア人の礼拝場所は、この井戸がある町シカルの近くにあるケリジム山で、そこを聖なる山としていました。かつてアブラハムやヤコブがこの山に祭壇を築き、礼拝した*7という族長の時代の礼拝を受け継いで、神殿はこのときにはなかったのですが過越しの祭りなどの祭儀が行われていました。けれども、ユダヤ人は礼拝するところはエルサレムであると言っており、サマリア人である自分が同じ主なる神を礼拝することができるのだろうか、その懸念を言い表した言葉だったと思います。つまり、ケリジム山でも主なる神を礼拝することになるのか、という懸念をこのユダヤ人の預言者に言い表しているのです。

*5 M.C.テニイ:『ヨハネによる福音書』舟喜順一訳聖書図書刊行会1958、 A.J.マックレオド「ヨハネによる福音書注解」有賀寿訳、『聖書註解』第7版キリスト者学生会1966、原書はIVF1953

*6 『カルヴァン 新約聖書註解Ⅲ ヨハネ福音書上』 p.126 新教出版 山本功訳 7版 1976

*7 創世記12:6-7、33:18-20

5 まことの礼拝する者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時だ。 4:21-24

 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」

この女の人の問いかけに、イエスは、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」と答えられました。サマリア人も、ユダヤ人も彼らの律法という掟によって礼拝していました。ですから、どこで神を礼拝するかというのは大事なことで、この違いはユダヤ人がサマリア人と交際しない理由でもありました。しかし、主イエスは、これまでの掟による礼拝、律法による神礼拝ではなく、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」と伝えています。そして、「今がその時である。」と、この婦人に示しています。

この婦人が問いかけたゲリジム山とエルサレムの違いについては、次のように主イエスは説明を加えています。「あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。」(22) この時代、ユダヤ人の聖書は「律法と預言者と詩(諸書)」と言い表して、今の旧約聖書にあたるものでした。一方、サマリア人たちの聖書は、律法にあたるいわゆるモーセ五書でした。ですから、モーセ五書以降の、ダビデや預言者たちを通して主なる神が語られた、神の民の救いや希望については知らないまま、礼拝していたのです。主イエスは「しかし・・・」と言って「まことの礼拝をする者たちが…父を礼拝する時が来る」と説明されています。救いはユダヤ人から来る。けれども、もはやユダヤ人、サマリア人という違いではなく、ケリジム山やエルサレムの神殿という律法に定められたところでの礼拝でもなく、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」と言っているのです。彼女が主イエスに持ち出した問題は、父が求める「まことの礼拝」を主イエスが明らかにし、この婦人をそこへ導くことへとつなげられたのです。そして彼女に「今がその時である」と告げられます。彼女が「預言者」とみた人が誰であるかを、主イエスご自身が彼女に告げる機会を開くことになりました。

6 あなたと話をしているこのわたしである 4:25-26

女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

申命記に、「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」(申命記18:15)と記されており、サマリアの人々の間にも、「わたしのような」つまり、モーセのような預言者が来るはずであるという希望は忘れ去られてはいなかったのです。この婦人が「あなたは預言者だとお見受けします」と言ったのは、この婦人が聖書にもとづいた最大限の期待を言い表していることになります。ただ、サマリア人にはメシアという言葉も考えもありませんでした。のちの時代にユダヤの民が、王が立てられるようになってから、油注がれた者、民の指導者であり、民を治める王をメシアと呼び、もう少し時代が進むと、正しい知性をもって国を治める理想の王、また神の救いを民にもたらす救い主という考えが芽生え、語られてきました。彼女の前にいる預言者がユダヤ人でありましたので、この婦人は、「キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。」と、何かの機会に聞き及んでいたメシアへの期待を言い表しています。

 この婦人は、これまでの彼女の歩み、夫遍歴のゆえに、人々から避けられ、神を礼拝することからは排除されていました。彼女の方でも自分の心を固く閉ざして、自分を守ろうとしたのでしょう。人との接触をなるべく避けることで、自分の心に波風が立たずに済むわけです。暑い昼間に、一人で水を汲みに来ることが、そのことを表していました。飢え渇いていたのは、水を求めたあのユダヤ人ではなく、自分の心でありました。魂の奥底深く、生ける水を汲みだすものを持っていなかったのも自分でした。預言者と見た人との対話が、これまでの自分の経歴に染込んだ罪責の思いを深く沈めて閉ざした彼女の心を、思いもかけず開かせたのです。そして、この預言者に聞き従おうとしました。それで、わたしどもの先祖はこの山で、ゲリジム山で礼拝していたけれど・・・、と礼拝すべき場所のちがいを懸念して言い表しました。それは、主なる神を礼拝したいという彼女の心からの渇きの思いが湧き上がってきたことを表しています。主イエスが初めに言われた「生ける水」は、このことでした。主イエスは、彼女の心の深いところに沈めた罪責の思いを汲みだし、そのうえで、父なる神を礼拝する思い、霊と真理をもって礼拝する心、すなわち生ける水を泉のように汲みださせてくださったのです。彼女にとって本当に守るべきもの(参照:箴言4:20-23)は、それまでの彼女の汚れと罪の遍歴を深く沈めた心ではなく、また人に触れられないように頑なに閉ざした心ではなく、主なる神に向って心を開き、霊と真理をもって父なる神を礼拝する心だったのです。それは、この人が預言者と見た主イエスを拒絶して自分の閉ざした心を守ろうとするか、自分を神に向けて開け放してこのイエスに従おうとするか、信仰の決断でもあったのだと思います。

主イエスが初めにこの女の人に言っていたことが、その通りになりました。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 このことが彼女にとってすべてでありました。キリストと呼ばれるメシアが、彼女にとって一切のことを知らせてくださったのです。彼女の心に生きた水、命の泉が流れ出すことを呼び起こしてくれるものだったのです。それは、どこかの場所に沸くのを見つけたではなく、だれかの立派な教えのうちに見出したのでもありません。自分の心に「いのちの泉」の源があり、流れ出させたのです。それは、彼女が心から、霊と真理をもって父なる神を礼拝できることでした。これこそが神の賜物です。このサマリアの婦人は、人から一方的に教えられて「いのちの水」を得たのではありません。対話を通してです。一人のユダヤ人の男、預言者と見た人、そして最後にはメシアと呼ばれるキリスト、この方との率直な対話を通して、「いのちの水」を得たのです。

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