救われるべき者の初穂 2023年9月24日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

2:13 しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。
2:14 神は、このことのために、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、わたしたちの福音を通して、あなたがたを招かれたのです。
2:15 ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。
2:16 わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、
2:17 どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。
テサロニケの信徒への手紙二 2章13節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 前回(先々週)、私たちは、不法の者がサタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡によって、滅びていく人々を欺くことを学びました。「滅びていく人々」とは、自分の罪のゆえに滅びていく人々のことです。はじめの人アダムの違反によって、すべての人は創造された状態から堕落し、自らも神に背いて、滅びる者となってしまいました。それゆえ、神は、救い主イエス・キリストを遣わしてくださったのです。イエス・キリストは神の永遠の御子でありながら、今からおよそ2000年前、聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、罪を別にして、私たちと同じ人となってくださいました。イエス・キリストは、私たちに代わって神の掟を完全に守ってくださり、私たちに代わって罪の刑罰としての十字架の死を死んでくださいました。それゆえ、イエス・キリストを信じる人は、すべての罪を赦され、神の御前に正しい者、神の子とされるのです。これが、私たちが信じて、宣べ伝えているイエス・キリストの福音であります。このイエス・キリストの福音を信じなければ、人は自分の罪のうちに滅びることになるのです(ヨハネ8:24参照)。『ヘブライ人への手紙』の第9章27節に、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」とあるように、すべての人が死んだ後に、神の裁きを受けることになります。そのとき、イエス・キリストを信じていない人は、自分の罪のゆえに有罪と宣告され、永遠の刑罰を受けることになるのです。

 パウロは「滅びていく人々」について、第2章10節の後半から12節で、次のように記しました。「彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです」。なぜ、滅びていく人々は、不法の者にだまされてしまうのでしょうか。それは、彼らが「自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかった」からです。「自分たちの救いとなる真理」とは、「福音の真理」のことであり、もっと言えば、イエス・キリストのことです(ヨハネ14:16参照)。イエス・キリストを愛そうとしない彼らに、神は惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。神は人の心にあるものを確認され、その人が望んでいるものを与えられるのです。こうして、真理であるイエス・キリストを信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれて、滅びることになるのです。

 ここまでは、前回(先々週)の振り返りであります。今朝は、第2章13節から17節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 13節をお読みします。

 しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とする霊の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。

 パウロは、テサロニケの信徒たちを、「主に愛されている兄弟たち」と呼びます。ここでの「主」は「主イエス・キリスト」のことです。また、ここでの「兄弟たち」とは、女性の信徒も含める「兄弟姉妹たち」のことです。ここで注意したいことは、「主を愛している兄弟たち」と記されていないことです。パウロは、「主イエス・キリストを愛している兄弟姉妹たち」とは言わずに、「主イエス・キリストから愛されている兄弟姉妹たち」と言います。このことは、私たちが主イエス・キリストを愛するよりも先に、主イエス・キリストが私たちを愛してくださったことを教えています。このことは、主イエスが弟子たちに言われたことでもあります。『ヨハネによる福音書』の第15章16節で、主イエスは弟子たちにこう言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。ここでの「選んだ」は「愛した」とも言い換えることができます。聖書において、「愛すること」と「選ぶこと」は一体的な関係にあるからです。なぜ、私たちは、救いとなる真理であるイエス・キリストを愛することができたのか。それは、主イエス・キリストが私たちを愛して、御自分の民として選んでくださったからであるのです。

 パウロは、テサロニケの信徒たちを、「主に愛されている兄弟たち」と呼び、再び、神に感謝をささげます(1:3参照)。テサロニケの信徒たちに福音を宣べ伝えたパウロたちにとって、テサロニケの信徒たちについて、いつも神に感謝をささげることは喜ばしい義務であるのです。パウロは、テサロニケの信徒たちについて、いつも神に感謝せずにはいられない理由を次のように記します。「なぜなら、あなたがたを聖なる者とする霊の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです」。この所を、聖書協会共同訳は次のように翻訳しています。「神は、霊による清めと、真理の信仰によって、あなたがたを救いの初穂としてお選びになったからです」。私たちが真理であるイエス・キリストを愛して、救われたのは、私たち自身の力によるのではありません。私たちがイエス・キリストを愛したゆえに、神は私たちに聖霊を遣わし、信仰を与えられたのではありません。先程の、「滅びていく人々」とは、違う書き方がされていることに注意していただきたいと思います。「滅びていく人々」は、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしませんでした。それで、神は彼らに惑わす力を送られたのです。「滅びていく人々」の場合は、彼らが自分たちの救いとなる真理を愛そうとせずに不義を喜ぶという彼らの責任が強調されています。しかし、救われている人々については、書き方が違います。救われている人々は、神が聖なる者とする霊と、真理に対する信仰を与えられたゆえに、イエス・キリストを信じて救われたと記すのです。つまり、救いについては、人間の決断に先立つ神の恵みが強調されているのです。なぜ、私たちは、救いとなる真理であるイエス・キリストを愛することができたのか。それは、神が私たちを救われるべき者の初穂として選び(愛し)、清める霊と真理の信仰を与えてくださったからであるのです。それゆえ、私たちも自分について、また、互いについて、いつも神に感謝せずにはおれない喜ばしい義務を負っているのです。

 神は私たちを救われるべき者の初穂としてお選びになりました。「初穂」とは最初の収穫であり、それに続く収穫の品質を保証するものです。パウロは、『コリントの信徒への手紙一』の第15章20節で、「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と記しています。イエス・キリストは初穂として、朽ちることのない栄光の体で復活されました。それゆえ、イエス・キリストを信じて眠りについた人たちも、イエス・キリストと同じ朽ちることのない栄光の体で復活することになるのです。パウロが、テサロニケの信徒たちに、「神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになった」と記すとき、彼らに続いてイエス・キリストを信じて救われる者たちがいることを前提にしています。テサロニケの信徒たちは、これからイエス・キリストを信じて救われる人々の最初の収穫、その保証として選ばれた者たちであるのです。そして、同じことが私たちにおいても言えるのです。私たちは、これからイエス・キリストを信じて救われる人たちの初穂として選ばれた者たちであるのです。私たちは、これから救われる人たちの最初の収穫、保証として、礼拝をささげ、イエス・キリストの福音を宣べ伝えているのです。

 14節と15節をお読みします。

 神は、このことのために、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、わたしたちの福音を通して、あなたがたを招かれたのです。ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを堅く守り続けなさい。

 神は、テサロニケの信徒たちを、パウロの福音宣教を通して、御もとに招いてくださいました。それは、テサロニケの信徒たちが、パウロたちの主、イエス・キリストの栄光にあずかるためであったのです。そして、神は、テサロニケの信徒たちの福音宣教を用いて、まだ見ぬ選びの民を御もとへと招かれるのです。同じことが私たちにおいても言えます。私たちも、私たちより先にイエス・キリストを信じた人たちの福音宣教を通して、救いにあずかることができました。そして、神はその私たちを用いて、まだ見ぬ選びの民を御もとへと招かれるのです。ここで確認したいことは、神はイエス・キリストにあって選ばれた御自分の民を、イエス・キリストの福音によって招かれるということです。このことを、パウロは、『コリントの信徒への手紙一』の第1章で、「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになった」と言い表しました(一コリント1:21)。その愚かさは、福音のメッセージである十字架の言葉にあります。「十字架に磔にされた男が神から遣わされた救い主である」。この十字架の言葉は、この世の知恵で判断すれば、愚かであるのです。しかし、パウロはこう言います。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(一コリント1:18)。神の力である十字架の言葉が語られるとき、聞く者の心に聖霊が働いてくださり、真理に対する信仰を与えてくださるのです。そのようにして神は、呼び出された者の集いである教会に、新しい人を加えてくださるのです。

 「わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずかる」。このことは、主イエス・キリストを礼拝している私たちのうえに、今既に実現しています。私たちは、主イエス・キリストにあって、父なる神から愛されている、父なる神の御心に適う神の子として誉れを受けているのです(1:12参照)。そのような私たちに求められていることは、イエス・キリストの福音に留まることです。神は私たちを、福音を通して、御自分の救いへと招いてくださいました。それだけではなく、神は私たちが神の救いにしっかりと立つことができるように、主の日の礼拝を主催して、御言葉の教師を立て、福音の説教を語ってくださるのです。私たちが、キリストの教会として集まり、福音を宣べ伝えているのは、私たち自身が聖書の教えにしっかりと立ち続けるためでもあるのです(一テモテ4:16参照)。

 16節と17節をお読みします。

 わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。

 ここで、パウロは、主イエス・キリストと父なる神に対して、テサロニケの信徒たちのために、執り成しの祈りをささげています。13節に記されていたように、テサロニケの信徒たちに、聖なる者とする霊と真理に対する信仰を与えてくださったのは神でありました。彼らは、まさしく、神の恵みによって救われたのです。それゆえパウロは、イエス・キリストと父なる神に対して、テサロニケの信徒たちのために執り成しの祈りをささげるのです。パウロは、単に「わたしたちの父である神」とは記さずに、「わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神」と記しました。父なる神は、その独り子をお与えになったほど、私たち一人一人を愛してくださいましたし、今も愛してくださっています。また、父なる神は、私たちが生きるにも死ぬにも主イエス・キリストのものであるという永遠の慰めを恵みによって与えてくださいました(ハイデルベルク信仰問答第1問参照)。また、イエス・キリストを復活させられ、復活したイエス・キリストの聖霊を与えることによって、復活という確かな希望を恵みとして与えてくださいました。そのような父なる神とイエス・キリストに、パウロは「どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように」と祈るのです。私たちがイエス・キリストを信じたことも、また、信じ続けることも、神の子としての善き生活も、すべては神の恵みであるのです。そのことを信じて、私たちは互いのために執り成しの祈りをささげて歩んでいきたいと願います。

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