呼び出された者の集い 2023年8月13日(日曜 朝の礼拝)

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1:1 パウロ、シルワノ、テモテから、わたしたちの父である神と主イエス・キリストに結ばれているテサロニケの教会へ。
1:2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように
1:3 兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。テサロニケの信徒への手紙二 1章1節~3節

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 先週で『ガラテヤの信徒への手紙』を読み終わりましたので、今朝から『テサロニケの信徒への手紙二』を読み進めたいと思います。だいぶ前になりますが、15年前の2008年の7月から12月に渡って、『テサロニケの信徒への手紙一』を学びました。『テサロニケの信徒への手紙二』は、イエス・キリストの使徒パウロがテサロニケ教会に宛てて記した二通目の手紙です。

 パウロは、『テサロニケの信徒への手紙一』を、紀元50年頃、コリントにおいて記したと考えられています(第二回宣教旅行のとき)。その数ヶ月後に、『テサロニケの信徒への手紙二』を記したと考えられています。なぜ、パウロは数ヶ月後に、二通目の手紙を記したのでしょうか。それには大きく二つの理由があります。一つは、テサロニケの信徒たちが、主イエス・キリストが来られる主の日について、混乱していたからです。第2章1節と2節にこう記されています。

 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。

 このように、テサロニケの信徒たちは、主の日について混乱していたのです。そのような混乱を鎮めるために、パウロは、この手紙を書き送ったのです。

 また、パウロがこの手紙を書き送った二つ目の理由は、テサロニケの信徒たちの中に少しも働かずに怠惰な生活をしている者たちがいたからです。第3章11節にこう記されています。

 ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。

 テサロニケの信徒たちの中には、主の日が来て、世界が終わるならば、働かなくてもいいのではないかと考えて、怠惰な生活をしている者がいました。そのような者たちに、落ち着いて仕事をするように、パウロはこの手紙を書き送ったのです。

 前置きはこのくらいにして、今朝は第1章1節から3節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節をお読みします。

 パウロ、シルワノ、テモテから、わたしたちの父である神と主イエス・キリストに結ばれているテサロニケの教会へ。

 ここには、この手紙の差出人と受取人が記されています。差出人は「パウロ、シルワノ、テモテ」です。受取人は、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストに結ばれているテサロニケの教会」です。差出人の「パウロ、シルワノ、テモテ」の三人は、テサロニケにおいて、イエス・キリストの福音を宣べ伝えた者たちです。パウロとシルワノとテモテが、テサロニケにおいて、福音を宣べ伝えたことは、『使徒言行録』の第17章に記されています。『使徒言行録』の第17章1節から9節までをお読みします。新約の247ページです。

 パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟を町の当局者たちのところへ引き立てて行って、大声で言った。「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています。」これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した。当局者たちは、ヤソンやほかの者たちから保証金を取ったうえで彼らを釈放した。

 1節に「パウロとシラス」とありますが、この「シラス」は「シルワノ」のことです(シルワノはラテン語名)。また、ここには「テモテ」の名前が出てきませんが、第16章1節から5節に、パウロがテモテを一緒に連れて行ったことが記されています。パウロとシルワノとテモテの福音宣教によって、テサロニケの地に、イエスをメシア、王と信じるキリストの教会が生まれたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の380ページです。

 この手紙の差出人は、「パウロ、シルワノ、テモテ」の三人ですが、おもにこの手紙を書き記したのは、パウロであるようです。第3章17節にこう記されているからです。「わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します」。ですから、この手紙はパウロが記した手紙であり、シルワノとテモテは、その手紙の内容に同意する者として、名前を連ねているのです。

 パウロは、この手紙の受取人を「わたしたちの父である神と主イエス・キリストに結ばれているテサロニケの教会へ」と記しました。「教会」と訳されているギリシア語は、「エクレーシア」という言葉です。「呼び出された者の集い」を意味します。教会と聞くと、十字架を高くかかげた建物のことを思い浮かべると思います。しかし、教会とは、「呼び出された者の集い」「人間の集まり」のことを言うのです。当時のギリシア・ローマ世界において、会議や集会のことを「エクレーシア」と呼びました(使徒19:39、40参照)。それでパウロは、他の集会と区別するために、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストに結ばれている集会へ」と記したのです。これは言い換えれば、教会とは、私たちの父である神と主イエス・キリストによって呼び出された者たちの集いであるということです。先程、『使徒言行録』の第17章を読みました。パウロとシルワノがユダヤ人の会堂で、イエス・キリストの福音を宣べ伝えると、ユダヤ人のうちの何人かは信じました。また、神をあがめる多くのギリシア人たちが信じました。なぜ、彼らはパウロとシルワノの言葉を信じることができたのでしょうか。それは、父なる神と主イエス・キリストが彼らを、世から呼び出してくださったからです。父なる神と主イエス・キリストが彼らを呼び出してくださったゆえに、彼らはイエスをメシア、王と告白する教会の一員となることができたのです。同じことが、私たちにも言えます。私たちも、父である神と主イエス・キリストによって、世から呼び出された者たちの集いであるのです。私たちは、日本国の羽生市にある、父である神と主イエス・キリストに結ばれた集い、教会であるのです。ですから、私たちは、イエス・キリストの使徒パウロが、テサロニケの教会に宛てて記した手紙を、私たちに宛てて記された手紙として読むことができるし、読むべきであるのです。

 2節をお読みします。

 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

 パウロは、差出人と受取人に続けて、挨拶の言葉を記します。パウロは、私たちの父である神と主イエス・キリストに結ばれている教会に、私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和を祈るのです。ここでの「恵みと平和」は、私たちの父である神と主イエス・キリストを源としている「恵みと平和」です。ですから、「恵み」とは「罪の赦し」であり、「平和」とは「神との和解」であると言えます。主イエス・キリストが、私たちに代わって神の掟を完全に守ってくださり、私たちに代わって罪の刑罰としての十字架の死を死んでくださった。それゆえ、私たちは、すべての罪を赦されて、「わたしたちの父である神」と呼ぶことのできる平和を与えられているのです。よって、この挨拶の言葉は、テサロニケにある教会だけではなく、私たちに対しても語られているのです。ドイツの神学者にヴェスターマンという人がいます。ヴェスターマンは、「平安がありますように(シャローム ラーハ)」という挨拶について次のように述べています。「この言葉の意味を理解するためには、旧約において、挨拶は単なる形式ないし礼儀ではなかったことを知らなければならない。むしろそれぞれの挨拶で、挨拶を受ける者と挨拶する者との間に何かが起こるのである」(『現代神学の基礎知識 旧約聖書』95頁)。これは、「平和がありますように」という挨拶が祈りの言葉でもあるからですね。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」という挨拶の言葉を聞くとき、私たちは実際に、父なる神と主イエス・キリストの恵みと平和に包まれるのです。そのような神の出来事が起こるのです。そうであれば、私たちも互いに、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和があるように」と挨拶を交わしたいと思います。このような挨拶を実際に口にすることは難しくても、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたにあるように」という祈りを持って、「おはようございます」「さようなら」という挨拶を交わしたいと思います。

 3節をお読みします。

 兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。

 「兄弟たち」とありますが、ここには、男性の弟子だけではなく、女性の弟子たちも含まれています。新しい翻訳聖書、聖書協会共同訳は、そのことを表すために、平仮名で「きょうだいたち」と翻訳しています。3節から手紙の本論が始まるわけですが、パウロは、この手紙を感謝の言葉をもって書き始めます。それも、神への感謝の言葉をもって書き始めるのです。なぜ、パウロは神に感謝せずにいられないのか。また、そうすることが当然であるのか。それには二つの理由があります。一つは「あなたがたの信仰が大いに成長している」からです。二つ目は、「お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっている」からです。信仰が成長すること。愛が豊かになること。この二つのことは、パウロが、神様に祈り求めていたことでした。『テサロニケの信徒への手紙一』の第3章10節で、パウロはこう記していました。新約の376ページです。

 顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。

 また、第3章12節で、パウロはこう記していました。新約の377ページです。

 どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。

 このようにパウロは、テサロニケの信徒たちの信仰が成長するように、彼らの愛が豊かになるように神様に祈っていたのです。それゆえ、パウロは、テサロニケの信徒たちの信仰が成長していること、彼らの愛が豊かになっていることを聞いて、神様に感謝をささげずにはおれなかったのです。神様が、パウロの祈りを聴いてくださり、テサロニケの信徒たちの信仰を成長させ、彼らの愛を豊かにしてくださっている。それゆえ、パウロは、神様に感謝をささげるのです。今朝の御言葉に戻ります。新約の380ページです。

 兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。

 このようなパウロの言葉を読むとき、私たちはどうであろうかと思います。私たちが『テサロニケの信徒への手紙一』を学んでからおよそ15年が経っているわけですが、私たちの信仰は成長しているだろうか。私たちの愛は豊かになっているだろうかと不安に思うのです。しかし、私たちの心を自分自身にではなく、神様に向ける時、私たちの信仰は成長しているし、私たちの愛は豊かになっていると言えると思います。神様が私たちの信仰を成長させ、私たちの愛を豊かにしてくださっているからこそ、15年もの間、教会の営みを続けることができたのです。ですから、私たちも、今朝、神様に対して、感謝の祈りをささげたいと願います。そして、神様がいよいよ私たちの信仰を成長させてくださり、私たちの愛を豊かにしてくださるように祈りたいと願います。

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