たゆまず善を行う 2023年7月30日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

6:1 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。
6:2 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
6:3 実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。
6:4 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。
6:5 めいめいが、自分の重荷を担うべきです。
6:6 御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。
6:7 思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。
6:8 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。
6:9 たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。
6:10 ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。ガラテヤの信徒への手紙 6章1節~10節

原稿のアイコンメッセージ

 パウロは、前回学んだ第5章25節で、「霊の導きに従って前進しましょう」と記しました。「前進する」と訳されている言葉は、「隊列を組んで進む」という意味です。その昔、エジプトを脱出したイスラエルの民が隊列を組んで、昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれて歩んだように、私たちも聖霊と御言葉に導かれて、隊列を組んで歩んでいるのです(出エジプト13章参照)。その隊列を外れて、間違った方向に歩む者が出て来たとき、私たちはどうすればよいのか。そのことをパウロは、今朝の御言葉で教えています。

 第6章1節をお読みします。

 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。

パウロは、「聖霊に導かれて歩んでいるあなたがたは、罪に陥った人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」と言います。ここでのポイントは、「柔和な心」です。「柔和」とは「やさしくておだやかなこと」です(福武国語辞典)。この「柔和な心」「やさしくておだやかな心」は、聖霊が私たちの内に結んでくださる実であるのです(5:23参照)。御子イエス・キリストの霊である聖霊が、私たちの内に柔和という実を結んでくださるのです。それは、御子イエス・キリストが柔和な御方であるからです。イエス様は、『マタイによる福音書』の第11章で、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われました。罪に陥った兄弟姉妹をどのように扱えばよいのか。そのことにおいても、私たちは柔和で謙遜なイエス様に学ぶ必要があるのです。イエス様は、『マタイによる福音書』の第18章で、罪を犯した兄弟姉妹をどのように扱えばよいのかを教えてくださっています。いわゆる、教会訓練(戒規)について教えておられます。教会訓練を行うとき、私たちは柔和な心で行うべきであるのです。それは、私たち自身が、柔和なイエス様によって正しい道へと立ち帰らせていただいたからです。私たちは、柔和なイエス様によって正しい道へと立ち帰らせていただいたゆえに、罪に陥った兄弟姉妹を、柔和な心で正しい道へと立ち帰らせるように努めるべきであるのです。しかし、そのとき、注意すべきことがあります。それは、「自分自身も誘惑されないように、自分に気をつける」ということです。「自分も同じ罪を犯してしまうかもしれない。そのことを認めて、自分に気をつけながら、罪に陥った人を柔和な心で正しい道へと立ち帰らせなさい」とパウロは言うのです。

 2節をお読みします。

 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。

 ここでの「重荷」は、罪の重荷、罪と弱さから生じる苦しみや悲しみのことです。私たちは、イエス・キリストを信じて、すべての罪を赦されました。しかし、罪から完全に解放されているわけではありません。私たちには罪と弱さがあり、その罪と弱さから生じる苦しみや悲しみがあるのです。聖霊に導かれている人にも、罪の重荷はあるのです。その罪の重荷を互いに担い合うこと、教会全体として担うことが求められているのです。それは具体的に言えば、互いの重荷を覚えて祈り合うということです。重荷を担って苦しんでいる兄弟姉妹のために執り成しの祈りをささげるということです。もちろん、祈りにとどまらず、行動によって重荷を担うこともあると思います。そのような私たちの交わりにおいて、キリストの律法は全うされることになるとパウロは言うのです。「キリストの律法」とは、第5章14節に記されていた「隣人を自分のように愛しなさい」という律法のことです。私たちは、兄弟姉妹の重荷を自分の重荷として互いに担うことによって、「隣人を自分のように愛しなさい」というキリストの律法を全うすることになるのです。

 3節と4節をお読みします。

 実際に何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。

 ガラテヤの信徒たちの中には、自分のことをひときわ優れていると考える人がいたようです。パウロは、第5章26節で「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう」と言いました。そのような争いは、自分のことをひときわ優れていると考える人によって引き起こされていたようです。「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています」。このようにパウロが言うのは、私たちが持っているものは、すべて神様からいただいたものであるからです(一コリント4:7参照)。前回の説教でも指摘したように、パウロは、「肉の業」に対して、「霊の結ぶ実」(霊の実)と記しました。聖霊は、私たちの内に、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という実を結んでくださいます(神の賜物!)。それにもかかわらず、自分自身を優れていると考えるならば、その人は自分自身を欺いているのです。

 また、パウロは、「各自で、自分の行いを吟味してみなさい」と言います。ここでの自分の行いは、聖霊が結んでくださる実による行いのことです。自分は親切な行いをすることができた。そのことは、自分が聖霊の導きに従って歩んでいることの拠り所となるかも知れません。しかし、その親切な行いを他人に対して誇ることはできない。なぜなら、その親切な行いにも、様々な罪の思いや欠けがあるからです。自分に対して、「私はよくやった」と誇ることはできたとしても、他人に対して誇ることはできないのです。私たちが自分の行いを神様の御前でよく確かめるならば、他人に対して自分の行いを誇り、高ぶることはなくなるのです。

 5節と6節をお読みします。

 めいめいが、自分の重荷を担うべきです。御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。

 パウロは2節で、「互いに重荷を担いなさい」と記しましたが、5節では、「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」と記します。このように記すことによって、パウロはそれぞれが担うべき重荷があることを示しています。ですから、ここでの「重荷」は「罪と弱さから生じる苦しみや悲しみ」のことではなく、「神様に対して負っている責任」のことです(2節の「重荷」と5節の「重荷」は原語では別の言葉。聖書協会共同訳は2節を「重荷」、5節を「荷」と訳している)。私たちには、それぞれに、神様に対して負っている責任があるのです。そのことは、信仰告白と成人洗礼の六つの誓約を思い起こすならば、よくお分かりいだけると思います。私たちは、第五の誓約で、「わたしは最善をつくして、教会の礼拝を守り・その活動に奉仕し・教会を維持することを、約束しま」した。また、第六の誓約で、「わたしは、日本キリスト改革派教会の政治と戒規とに服し、その純潔と平和とのために努めることを、約束し」ました。このように、私たちはそれぞれ、神様に対して責任を負っているのです。

 パウロは、私たちそれぞれが担っている重荷として、「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい」と言います。御言葉を学ぶ人が、御言葉を教えてくれる人の生活を支えることは、神様に対して負っている責任であるのです。御言葉を教えてもらう人は御言葉の教師の生活を支えることは、主イエス・キリストが命じておられることでもあります。主イエス・キリストは、弟子たちを福音宣教に遣わすにあたって、次のように言われました。「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである」(ルカ10:7)。このように主イエス・キリストは、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の糧を得るように命じられたのです(一コリント9:14参照)。

 ところで、なぜ、パウロは、神様に対して負っている責任として、御言葉の教師の生活を支えることを挙げたのでしょうか。それは、教会にとって、御言葉の教師の働きが必要であるからです。聖霊の導きに従うことと、御言葉に従うことは一体的な関係にあります。キリストの教会がキリストの教会としてふさわしく歩んで行くためには、キリストの福音を正しく宣べ伝える人が必要であるのです。それゆえ、パウロは、御言葉の教師の生活を支える責任をめいめいが担うようにと命じるのです。

 7節から10節までをお読みします。

 思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。

 ここでパウロは、世の終わりに受けることになる神の裁きを背景にして記しています。パウロは、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると宣べ伝えました。そうであれば、イエス・キリストを信じた者の生活は、どうでもよいのか。自由と放縦を履き違えて、罪を犯してもよいのかと言えば、そうではありません。そのような思い違いをしている者たちを念頭に置いて、パウロは「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません」と言うのです。「イエス・キリストを信じて義とされているなら、何をしてもいいじゃないか」という人は、思い違いをしており、神様を侮っているのです。「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになる」という原則は、私たちが受けることになる神の裁きにおいても当てはまります。「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります」。自由と放縦を履き違えて、自分の欲望に従って歩む者は、滅びを受けることになります。しかし、聖霊の導きに従って歩む者は、永遠の命を受けることになるのです。パウロは第5章6節で、「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と記しました。イエス・キリストに結ばれている私たちの信仰は愛によって働く信仰であるのです。イエス・キリストを信じる私たちの生活は、聖霊の導きに従う生活であり、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という聖霊の実を結ぶ生活であるのです。それゆえ、パウロは、「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります」と言うのです。「時が来て」の「時」とは、主イエス・キリストが天から再び来られる終わりの日のことです。父なる神様は、私たちの不完全な業を、イエス・キリストにあって善き業として受け入れてくださり、報いを与えてくださいます(『ウェストミンスター信仰告白』第16章「よきわざについて」5節、6節参照)。父なる神様は、永遠の命を賜物として与えてくださるだけではなく、私たちの不完全な業をイエス・キリストにあって善き業として受け入れてくださり、報いを与えてくださるのです(ローマ6:23参照)。『ヘブライ人への手紙』の第11章6節にあるように、「神は御自分を求める者たちに報いてくださる方である」のです。パウロが「たゆまず善を行いましょう」「飽きずに励んでいれば」と記すとき、そこには私たちが善を行うことにおいて、怠けてしまう、飽きてしまうことがほのめかされています。善を行ってもだれかに褒められるわけでもないし、報いをいただけるわけでもないからです。しかし、隠れたところで見ている父なる神がおられます(マタイ6:4、6、18参照)。そして、終わりの日に、主イエス・キリストは、「忠実な僕だ。良くやった。主人の喜びに入れ」と言って、天の国へと迎え入れてくださるのです(マタイ25:21、23参照)。ですから私たちは、機会のある度に、すべての人に対して、特に信仰によって家族となった人々に対して、善を行いたいと願います。

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