自由な女から生まれた子 2023年6月25日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

自由な女から生まれた子

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ガラテヤの信徒への手紙 4章21節~5章1節

聖句のアイコン聖書の言葉

【新共同訳】
ガラ
4:21 わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。
4:22 アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。
4:23 ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。
4:24 これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。
4:25 このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。
4:26 他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。
4:27 なぜなら、次のように書いてあるからです。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、/喜びの声をあげて叫べ、/産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、/多くの子を産むから。」
4:28 ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。
4:29 けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。
4:30 しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。
4:31 要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。
5:1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。ガラテヤの信徒への手紙 4章21節~5章1節

原稿のアイコンメッセージ

 イエス・キリストを信じている私たちは、もはや律法の下にはいません。「律法を守れば祝福され、律法に背けば呪われる」。そのような律法の支配、掟の世界にはいないのです。それは、私たちの主であるイエス・キリストが、私たちに代わって律法の義を完全に満たしてくださり、私たちに代わって律法の呪いの死を死んでくださったからです。パウロは、第3章13節と14節でこう言いました。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された霊を信仰によって受けるためでした」。イエス・キリストを信じている私たちは、律法の呪いから贖い出されて、アブラハムに約束された祝福にあずかる者とされています。けれども、ガラテヤの信徒たちの中には、イエス・キリストを信じた後も、律法のもとにいたいと思う人たちがいたのです。彼らは、エルサレムから来た偽教師たちによって惑わされていたのです(1:7参照)。偽教師たちは、イエス・キリストを信じるだけではなく、律法を守らなければ救われないと教えていました。イエス・キリストを信じるだけではなく、割礼を受けて、律法を守ることによって、アブラハムに約束された祝福にあずかることができると教えていたのです。それで、ガラテヤの信徒たちの中には、掟の世界に逆戻りしようとする人たちがいたのです。そのような人たちに、パウロは、21節でこう言います。「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか」。ここで「律法」という言葉が2回でてきます。最初の「律法」は、モーセ五書に記されている「掟や法」のことです。2回目の「律法」は、モーセ五書に記されている歴史物語のことです。ちなみに、モーセ五書とは、伝統的にモーセが記したと考えられる最初の五つの書物のことです(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)。パウロは、律法(掟)の下にいたいと思っている人たちに、律法、とりわけ『創世記』に記されているアブラハムの物語を語ります。

 「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から産まれたと聖書に書いてあります」。アブラハムの二人の息子とは、イシュマエルとイサクのことです。イシュマエルは、アブラハムの妻サラの女奴隷であるハガルから生まれました(創世16:15参照)。アブラハムの妻サラは、主が子供を授けてくださらないので、女奴隷ハガルをアブラハムの側女としました。そして、ハガルはアブラハムとの間に、男の子を産んだのです。それがイシュマエルです。アブラハムは、神様の約束が、イシュマエルによって実現すると考えていました。しかし、神様は、アブラハムとの契約を、イシュマエルではなく、妻サラとの間に産まれる男の子によって受け継がせると言われたのです。聖書を開いて確認したいと思います。『創世記』の第17章15節から21節までをお読みします。旧約の22ページです。

 神はアブラハムに言われた。「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」アブラハムは神に言った。「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように。」神は言われた。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。イシュマエルについての願いも聞き入れよう。必ず、わたしは彼を祝福し、大いに子供を増やし繁栄させる。彼は十二人の首長の父となろう。わたしは彼を大いなる国民とする。しかし、わたしの契約は、来年の今ごろ、サラがあなたとの間に産むイサクと立てる。」

 このように、神様は女奴隷ハガルとの間に産まれたイシュマエルではなく、妻サラとの間に産まれる男の子、イサクとの間に契約を立てられるのです。アブラハムに約束された祝福は、イサクへと受け継がれるのです。

 今朝の御言葉でパウロが、「ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした」と記すとき、「肉によって生まれた」とは、「人間の意志によって生まれた」ということです。イシュマエルは、サラの意志、夫アブラハムに自分の女奴隷ハガルを側女として与えて子を授かるという意志によって生まれました。しかし、イサクはそうではありません。神様の約束によって、神様の御意志によって生まれるのです。『創世記』の第18章9節から15節までをお読みします。旧約の23ページです。

 彼ら(三人の旅人)はアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」

 アブラハムは、第17章19節で、「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む」という約束を受けていました。しかし、妻サラとの間に夫婦の営みを持っていなかったようです。二人は多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていたからです。それで、主はアブラハムの天幕を尋ねてくださり、サラにも約束を与えられるのです。「来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」。この主の約束を信じて、アブラハムとサラは夫婦の営みを持ちました。そして、主は約束のとおり、アブラハムとサラとの間に、男の子、イサクが生まれることになるのです(創世21:2参照)。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の348ページです。

 アブラハムには二人の息子がいた。それは人間の意志に基づいて、女奴隷ハガルから生まれたイシュマエルと、神の約束に基づいて自由な女サラから生まれたイサクである。このことは、律法に記されていることであり、誰も否定しないと思います。しかし、パウロは、「これには別の意味が隠されている」と言うのです。そして、その別の意味を解き明かすのです。

 アブラハムの二人の息子を産んだ二人の女には、別の意味が隠されている。イシュマエルを産んだ女奴隷ハガルは、子を奴隷の身分に産む女であり、シナイ山に由来する契約(律法)を意味している。今、それに当たるのはエルサレムです。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。イエス・キリストを信じていないユダヤ人たち、また、イエス・キリストを信じても、律法を守って救われようとするユダヤ人キリスト者たちは、律法の奴隷であり、女奴隷ハガルから産まれた者であるのです。他方、イサクを産んだサラは、子を自由な身分に産む女であり、アブラハムに対する約束(恵みの契約)を意味しています。今、それに当たるのは天のエルサレムです。天のエルサレムは、いわば自由な身の女であり、これが「わたしたちの母である」のです。ただイエス・キリストへの信仰によって救われた私たちの母は、天のエルサレムであるのです。

 このようなパウロの教えの背景には、偽教師たちの教えがあったと思います。偽教師たちは、エルサレムから来た者たちでした。自分たちの母はエルサレムであり、自分たちは、アブラハムの祝福を受け継ぐイサクの子孫であると誇っていたのです。しかし、パウロは、「今のエルサレムは律法の奴隷となっており、ハガルから産まれたイシュマエルに連なる者である」と言うのです。さらには、「天のエルサレムこそ、自由な身の女であって、私たちの母である」と言うのです。そして、その証拠聖句として、『イザヤ書』の第54章1節を引用します。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、喜びの声をあげて叫べ、産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、多くの子を産むから」。ここでの「子を産まない不妊の女」、「産みの苦しみを知らない女」、「一人取り残された女」とは、アブラハムの妻サラのことであり、私たちの母である天のエルサレムのことです。パウロがこの手紙を記した時代、イエス・キリストを信じる人たちは少数派でした。しかし、のちに天のエルサレムは多くの子を産んで、喜ぶことになるのです。そして、このイザヤの預言のとおり、今では、世界中の多くの人々がイエス・キリストを信じて、天の喜びにあずかっているのです。

 パウロは、28節でこう言います。「ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です」。ガラテヤの信徒たちが、イサクの場合のように約束の子であるのは、アブラハムの一人の子孫であるイエス・キリストを信じているからです。パウロは、第3章16節でこう記しました。「ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して、『あなたの子孫たちとに』とは言われず、一人の人を指して『あなたの子孫とに』と言われています。この『子孫』とは、キリストのことです」。アブラハムの約束は、一人の人、イエス・キリストにおいて実現しました。それゆえ、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、キリストを着ているガラテヤの信徒たちは、約束の子であるのです。ガラテヤの信徒たちだけではありません。私たちも、イサクの場合のように、約束の子であるのです。私たちは、神様の御意志によって、神の霊である聖霊によって新しく生まれた者たちであるのです(ヨハネ3:3、5参照)。

 パウロは、29節でこう言います。「けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、霊によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています」。『創世記』の第21章に、16歳のイシュマエルが3歳のイサクをからかったことが記されています。当時のユダヤ人たちは、このところを、イシュマエルがイサクを迫害した、弓矢で殺そうとしたと解釈していました。その解釈に立って、パウロは、「あのとき、イシュマエルがイサクを迫害したように、肉によって生まれた者が、聖霊によって生まれた者を迫害している」と言うのです。ここでの「肉によって生まれた者」とは、ガラテヤの諸教会を惑わしている偽教師たちのことです。また、霊によって生まれた者とは、パウロから福音を聞いてイエス・キリストを信じたガラテヤの信徒たちのことです。昔、イシュマエルがイサクを迫害したように、偽教師たちがあなたがたを迫害している。そのような状況に、どのように対処すればよいのか。パウロは、30節でこう言います。「しかし、聖書に何と書いてありますか。『女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである』と書いてあります」。このパウロの言葉は、『創世記』の第21章9節と10節を背景にしています。「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」。この言葉は、サラの言葉ですが、神様はアブラハムに、「すべてサラが言うことに聞き従いなさい」と言われているので、神様の御意志であるとも言えるのです(創世21:12)。パウロは、律法の下にいたいと思っている人たちに、律法に従って、偽教師たちを教会から追い出すようにと言うのです。

 今朝の御言葉のまとめとして、パウロは31節と第5章1節でこう言います。「要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」。イエス・キリストを信じる私たちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子であります。それは、ただイエス・キリストのゆえであるのです。イエス・キリストが私たちを律法の奴隷状態から贖い出して、自由な身にしてくださいました。私たちは、イエス・キリストに結ばれて、自由な神の子とされているのです。その私たちが自分で律法を守って救われようとするならば、自分で奴隷の軛を再び負うことになるのです。そのようなことがあってはならない。「イエス・キリストによって自由な身とされたあなたたちは、イエス・キリストの義にしっかりと立ち続けなさい」とパウロは言うのです。  

関連する説教を探す関連する説教を探す