イエス・キリストの昇天 2023年5月21日(日曜 朝の礼拝)

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イエス・キリストの昇天

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 1章1節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 -2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
1:3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
1:10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
1:11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」使徒言行録 1章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 来週の5月28日は、聖霊降臨をお祝いするペンテコステの礼拝であります。その備えとして、今朝は、『使徒言行録』の第1章1節から11節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 『使徒言行録』は、『ルカによる福音書』の続編として記された書物であります。1節と2節に、こう記されています。「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」。この「第一巻」が『ルカによる福音書』であるのです。『ルカによる福音書』はどのような書物であるのか。それは「イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記した書物である」のです。ここで注目したいことは、イエス様が「使徒たちに聖霊を通して指図を与え」ておられたということです。このことは、イエス様に聖霊がとどまっていたことを教えています(ルカ3:22、4:1,14,18〜21、ヨハネ1:33参照)。『使徒言行録』は、天に上げられたイエス様が、使徒たちに聖霊を与えて、その使徒たちを用いて福音を宣べ伝えられたことが記されています。そのことを念頭において、ルカは、「イエス様は、地上におられたときから、使徒たちに聖霊を通して指図を与えていた」と言うのです。イエス様が使徒たちに聖霊を通して指図を与えられたことは、イエス様が地上におられたときも、天に昇られた後も、変わらないのです。地上において、使徒たちに聖霊を通して指図を与えられたイエス様が、天に昇った後も、使徒たちに聖霊を通して指図を与えられるのです。私たちに当てはめて言えば、天におられるイエス・キリストは、聖霊と御言葉によって、私たちに指図を与えているのです。

 3節から、『使徒言行録』の本論と言えますが、この記述は、『ルカによる福音書』の結びとは少し異なっています。『ルカによる福音書』では、復活されたイエス様が弟子たちに現れてくださった後、すぐに天に昇られたかのように記されています。しかし、ここでは、「イエス様が40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」と記されています。使徒たちは、40日にわたって、復活されたイエス様にお会いし、食事を共にして、神の国について教えられたのです。そのようなイエス様との交わりを通して、使徒たちはイエス様が確かに復活されたことを知ったのです。また、使徒たちは、イエス様から聖書の読み方を集中的に教えられたのです。復活されたイエス様は、弟子たちに、こう言われました。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(ルカ24:44)。また、イエス様は弟子たちの心を開いて、こう言われました。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と」。聖書はどのような書物であるのか。聖書は、イエス様について預言している書物であるのです。また、聖書は「メシアが苦しみを受け、三日目に死者の中から復活し、その名による罪の赦しを得させる悔い改めがあらゆる人々に宣べ伝えられる」ことが記されている書物であるのです。この解釈原理に従って、イエス様は使徒たちに聖書を解き明かされ、神の国について教えられたのです。それゆえ、ペトロは、この後、大胆に、イエス・キリストにおいて到来した神の国について語ることができたのです。第2章で、ペトロは、ペンテコステの日に、預言者ヨエルの言葉を引用して説教しました(多国語奇跡はヨエルの預言の実現である)。第3章でも、神殿において、ペトロはモーセの言葉を引用して説教しています(モーセのような預言者こそイエスである)。さらにペトロは、アブラハムに対する神の約束を引用して説教しています(すべての民族を祝福するアブラハムの子孫こそイエスである)。第4章では、最高法院の議員たちを前にして、詩編の言葉を引用して説教しました(つまずきの石こそイエスである)。なぜ、ペトロは、このような説教を語ることができたのでしょうか。それは、40日に渡って、復活されたイエス様から聖書の集中講義を受けたからです(ルカ24:27「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」参照)。復活されたイエス様は、40日にわたって、使徒たちに聖書を教えられた後で、こう言われるのです。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」。「父の約束されたもの」とは、神の霊である「聖霊」のことです。『ルカによる福音書』の第11章13節で、イエス様は、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と言われました。そして、そのことは、洗礼者ヨハネが語っていたことでもあったのです。洗礼者ヨハネは、皆に向かってこう言いました。「わたしはあなたがたに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(ルカ3:16)。この「優れた方」こそ、イエス様であるのです。イエス様こそ、使徒たちに、聖霊の洗礼を授けてくださる御方であるのです。

 使徒たちは集まって、イエス様に、こう尋ねます。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」。ここでのポイントは、「時」であります。「あなたが、イスラエルのために国を建て直してくださる時は、自分たちに聖霊を与えてくださる時ですか」と使徒たちは問うたのです(アモス9:11~15参照)。それに対して、イエス様は、こう言われます。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」。時や時期については父なる神様だけが知っておらえることであり、あなたたちは知らなくてよろしいと言うのです(マルコ13:32参照)。しかし、明らかなことがある。それが、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」ということです。聖霊の力を受けた使徒たちの福音宣教によって、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」ということです。「わたしの証人」とは、「イエス・キリストの復活の証人」ということです(2:32参照)。イエス・キリストを信じる私たちにも、神の霊、聖霊が与えられています(一コリント12:3「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」参照)。私たちは聖霊によって神の力を受けているのです。その神の力によって、私たちは、現代の日本で、イエス・キリストの復活を証ししているのです(主の日の礼拝!)。

 使徒たちは、復活されたイエス・キリストと40日にわたって、交わりを持ちました。彼らは自分たちが聞いたもの、目で見たもの、手で触れたものを証しするわけですから、証人としての資格があります(一ヨハネ1:1参照)。けれども、私たちは、どうでしょうか。私たちは、使徒たちのように、イエス様の口から直接教えを聞いたのでも、そのお姿を肉の目で見たのでも、その御体に手で触れたのでもありません。しかし、私たちは、使徒たちの証しを受け入れて、復活されたイエス・キリストの聖霊を与えられているゆえに、イエス・キリストの証人としての資格を持っているのです。御言葉と礼典と祈りにおいて、復活されたイエス・キリストと人格的な交わりを持っている者として、イエス・キリストの復活を力強く証しすることができるのです(ウ小教理88問参照)。

 復活されたイエス・キリストは、今、どこにおられるのでしょうか。9節にこう記されています。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」。ここには、復活されたイエス・キリストが天に昇られたことが記されています。旧約聖書において、雲は神様の御臨在を表します(出エジプト40:34参照)。ですから、イエス様が天に上げられ、雲に覆われて見えなくなったことは、イエス様が神様のおられる天に迎え入れられたことを示しています。ちなみに、ここでの「天」とは時間と空間を超越した神様の領域のことです(物理的な空間のことではない)。また、ここで「雲に覆われて」と訳されている言葉(ヒュポラムバノー)は「雲に担い上げられて」とも訳すことができます(岩波訳「雲が彼を取り上げ」参照)。『ダニエル書』の第7章13節と14節に、こう記されています。「『人の子』のような者が天の雲に乗り/『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み/権威、威光、王権を受けた」。この預言の成就として、イエス様は天の雲に乗って、使徒たちの目から見えなくなったのです(詩104:3「雲を御自分のための車とし」も参照)。

 イエス様が離れ去って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていました。彼らは天に昇られるイエス様の姿を見つめていたわけです。すると、白い服を着た二人の天使がそばに立って、こう言いました。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」。ここで天使たちは、天に昇られたイエス様が同じ有様で、再び来てくださると言います。イエス様は目に見えるお姿で、雲に乗って、天に昇られました。それと同じ有様で、イエス様は、目に見えるお姿で、雲に乗って天から来られるのです。父なる神様がお定めになった時に、天におられるイエス・キリストが、大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来られるのです(ルカ21:27参照)。しかし、それまでの間に、使徒たちには為すべきことがあります。それがエルサレムに留まって、聖霊を祈り求めることであるのです。さらには、聖霊の力を受けて、イエス・キリストの復活を証しすることであるのです。私たちも、復活されたイエス・キリストから聖霊の洗礼を受けて、力を与えられ、イエス・キリストの証人とされています。「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」というイエス様の御言葉は、ここに集う、私たちにおいて実現しているのです。私たちは、復活されたイエス・キリストを証ししながら、やがて来られるイエス・キリストを待っているのです。

 イエス・キリストが天に昇られた有様で再び来てくださること。それは天使たちだけが告げていることではありません。イエス・キリスト御自身がはっきりと告げていることでもあるのです。今朝は、そのことを確認して終わりたいと思います。『ヨハネの黙示録』第22章16節から21節までをお読みします。新約の480ページです。

 わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」霊と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。

 この書物の預言の言葉をすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。

 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。

 主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。

 このように聖書は、イエス・キリストの再臨を願う祈りと、「わたしはすぐに来る」というイエス様の約束によって閉じられています。しかも、第22章において、イエス様は、三度も、「わたしはすぐに来る」と言われているのです(22:7,12,20参照)。イエス様は確かに来られるのです。再び来られるイエス・キリストを待ち望みながら、イエス・キリストを証しすること。それが私たち教会に与えられている使命であるのです。私たち教会の存在理由(レーゾンデートル)は、再び来られるイエス・キリストを待ち望みつつ、イエス・キリストを証しすることにあるのです。

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