神の恵みの契約 2023年5月07日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:15 兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。
3:16 ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。
3:17 わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。
3:18 相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。
3:19 では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。
3:20 仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。ガラテヤの信徒への手紙 3章15節~20節

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 前回私たちは、信仰によって義とされることと律法を守って義とされることは相容れない、共に成り立つことはないことを御一緒に学びました。信仰によって義とされていながら、律法の実行によって義とされようとするならば、アブラハムに約束されていた祝福を失ってしまうことになるのです。そのようにならないように、パウロは、ガラテヤの信徒たちを「兄弟たち」と親しく呼びかけ、分かりやすく、人間社会のことを記すのです。

「兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません」。ここで「遺言」と訳されている言葉(ディアセーケー)は、17節では「契約」と訳されています。人間の遺言(契約)でさえ、有効になったら、だれも無効にしたり、追加したりすることはできない。そうであれば、神の契約はなおさら、だれも無効にしたり、追加することはできないとパウロは言うのです。では、神様のアブラハムとその子孫に対する約束(契約)は、いつ有効となったのでしょうか。それは、神様がアブラハムとその子孫に対して約束を告げられたときです。神様の約束(契約)はアブラハムとその子孫に対して告げられたとき有効となったのです。細かいことを言いますが、16節の「約束」は複数形で記されています。神様はアブラハムに対して、三つのことを約束されました。一つはアブラハムによってすべて民を祝福すること。二つ目はアブラハムの子孫を増やすこと。三つ目はアブラハムにカナンの土地を与えることです。神様は、この三つの約束をアブラハムとその子孫に対して告げられました。すべての民を祝福するという約束については、第12章3節にこう記されています。「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」。また、第22章18節にこう記されています。「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る」。子孫を増やすという約束については、第15章5節にこう記されています。「天を仰いで、星を数えることができるなら数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」。カナンの土地を与える約束については、第15章7節にこう記されています。「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる」。また、第15章18節にはこう記されています。「あなたの子孫にこの土地を与える」。このように、神様は、アブラハムとその子孫に対してもろもろの約束を告げられたのです。そして、パウロは、ここで「あなたの子孫たち」と言われていないことに注目して、この「あなたの子孫」は一人の人、イエス・キリストのことであると言うのです。これはいささか強引な解釈のように思えます。と言いますのも、文脈から判断すれば、ここでの「あなたの子孫」は、「あなたの子孫たち」を意味する集合名詞であるからです。ちなみに、「集合名詞」とは、「『家族』など、複数の構成員から成る集団・機関・組織などを一つの単位として表す名詞」のことです(広辞苑)。しかし、パウロは、あえて、「この子孫とはキリストのことです」と言い切るのです。それは、パウロが、アブラハムに約束された祝福が、その子孫であるイエス・キリストにおいて、実現したと信じているからです。そのような信仰をもって、『創世記』の物語を読んで、パウロは、神様はアブラハムとその子孫であるイエス・キリストに約束を告げておられたと理解したのです。私たち人間には、歴史を通して、「あなたの子孫」が、イサクの子孫であり、ヤコブの子孫であり、ユダの子孫であり、ダビデの子孫でありと、段々と分かって来るわけですが、歴史を最初から最後まで見通しておられる神様は、初めから「あなたの子孫」がイエス・キリストであることを知っておられました。パウロは、全知全能の神様を信じる者として、神様はアブラハムとその子孫であるイエス・キリストに約束を告げられたと記すのです。

 神様の約束(契約)は、アブラハムとその子孫であるイエス・キリストに告げられたとき、有効となりました。そうであれば、430年後にできた律法が無効にすることはできないのです。ガラテヤの諸教会を惑わしていたある人々は、イエス・キリストを信じるだけではなく、律法を守らなければ救われないと教えていました。それは、律法を守ることによって、神の相続を受け継ごうとすることであり、神の約束を無効にし、反故にしてしまう不可能なことであるのです。しかし神様は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになりました。神様は、一方的にアブラハムを選び、アブラハムとその子孫に、カナンの土地を受け継がせると約束してくださったのです。『ヨハネの黙示録』は、イエス・キリストが再び来られるとき、新しい天と新しい地を到来すること。その新しい天と新しい地を、イエス・キリストを信じる私たちが受け継ぐことを記しています。それは、アブラハムとその子孫であるイエス・キリストに告げられた約束の実現であるのです(ローマ8:17〜25参照)。

 神様はアブラハムとその子孫であるキリストに、世界を受け継がせると約束されました。相続は律法の行いに由来するものではなく、約束に由来するものであるのです。では、律法とはいったい何なのか。パウロは、こう記します。「律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために加えられたもので、天使たちを通して、仲介者の手を経て制定されたものです」。神様は、なぜ、イスラエルの民に、律法を与えられたのか。それは、「約束を与えられたアブラハムの子孫であるイエス・キリストが来られるときまで、違犯を明らかにするためであった」とパウロは言うのです。ここには、イエス・キリストの啓示によって、人は誰も律法を完全に守ることはできないことを悟ったパウロの律法観がよく表れています。はじめの人アダムにあって創造された状態から堕落し、罪をもって生まれてくる人間にとって、律法は違犯を明らかにするものでしかないのです。律法は、人間がいかに神の掟に従うことのできない、惨めな存在であるかを明らかにして、約束を与えられたあの子孫を待ち望むように導く養育係として付け加えられたのです(3:24、ローマ7章参照)。

 律法は天使たちを通して、仲介者であるモーセの手を経て制定されました。そのことは、律法が神と人間の双方が責任を負う双務契約であることを示しています。『出エジプト記』の第24章に、モーセを仲介者として、神様とイスラエルの民が契約を結んだ場面が記されています。そこでイスラエルの民は、掟を守ることを誓います。その後、モーセは、雄牛の血を祭壇(神の象徴)とイスラエルの民にふりかけて契約を結ぶのです。このように律法は、モーセを仲介者として結ばれた双務契約であるのです。しかし、約束の場合はそうではありません。約束の場合は仲介者なしで、神はひとりで事を運ばれたのです。つまりアブラハムとその子孫に対する神の約束は、神だけが責任を負われる片務契約であるのです。そのことは、『創世記』の第15章に記されている神様とアブラハムとの契約の儀式を読むと分かります。実際に開いて読みたいと思います。旧約の19ページです。第15章7節から21節までをお読みします。

 主は言われた。「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることができましょうか。」主は言われた。「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持ってきなさい。」アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。はげ鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。ここに戻ってくるのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地を与える。」

 主はアブラハムに、「あなたにこの土地を与える」と約束されただけではなく、契約の儀式を行われました。それは二つに引き裂かれた動物の間を、契約を交わした者が通るというものでした。その意味するところは、もし契約を守らなければ、この動物のように二つに引き裂かれてもかまわないという誓いであったのです(エレミヤ34:18参照)。しかし、その二つに引き裂かれた動物の間を通ったのは、神様だけであったのです。神様はアブラハムとの契約において、すべての責任を御自分で引き受けてくださったのです。そして、神様はアブラハムとの約束を一人で実現してくださったのです。それゆえ、神様とアブラハムとその子孫との間に結ばれた契約を「恵みの契約」と呼ぶのです(ウェストミンスター信仰告白第7章「人間との神の契約について」参照)。恵みの契約という片務契約が本筋であって、そこに律法が期間限定で付け加えられたのです。ですから、神様とイスラエルとの関係は、バビロン捕囚の後も続いたのです。なぜ、神はイスラエルの民をバビロン捕囚から解放し、再びカナンの土地を受け継がせてくださったのか。それは、神様の約束が本筋であったからです(『イザヤ書』が第39章で終わらなかった理由)。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の346ページです。

 「仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです」。ここで私たちが思い起こしたいことは、「ひとりの神」が、父と子と聖霊なる三つにしてただひとりの三位一体の神であるということです。三位一体の神様は、アブラハムとの契約をどのように実現してくださったのでしょうか。そのことについては、第4章4節から6節に、次のように記されています。

 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。

 このような三位一体の神様のお働きによって、アブラハムとその子孫であるイエス・キリストとに告げられた約束は実現したのです。そして、その祝福に、イエス・キリストを信じる私たちもあずかる者とされているのです。私たちは、イエス・キリストを通して聖霊を与えられ、「アッバ、父よ」と叫ぶ神の子とされています。「恵みの契約」の祝福は、イエス・キリストを信じて、父なる神様を礼拝している私たちのうえに実現しているのです。

 これから私たちは、主の晩餐の礼典にあずかります。主の晩餐は「恵みの契約」の礼典であります。恵みの契約は、旧約と新約を貫く契約でありますが、旧約と新約ではその執行方法が異なります(ウ告白7章5、6節参照)。ともかく、主の晩餐は「恵みの契約」の礼典であるのです。その主の晩餐において、私たちはキリストの体であるパンが裂かれるのを見ます。そのとき、私たちは、三位一体の神様がアブラハムと契約を結ばれたとき、二つに裂かれた動物の間を歩まれたことを思い起こすことができるのです。神の御子が人となって、私たちの罪を担って、十字架の上で身を裂いてくださること。そのことを、神様は、アブラハムと契約を結ばれたときに決意しておられたのです。「約束の場合、神はひとりで事を運ばれました」。この神様の恵みを、パンとぶどう汁を通して、よく味わいたいと願います。

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