イエス・キリストの啓示 2023年3月19日(日曜 朝の礼拝)

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イエス・キリストの啓示

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ガラテヤの信徒への手紙 1章11節~24節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:11 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。
1:12 わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。
1:13 あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。
1:14 また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。
1:15 しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、
1:16 御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、
1:17 また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。
1:18 それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、
1:19 ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。
1:20 わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。
1:21 その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。
1:22 キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。
1:23 ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、
1:24 わたしのことで神をほめたたえておりました。
ガラテヤの信徒への手紙 1章11節~24節

原稿のアイコンメッセージ

 前回学んだ8節で、パウロは、こう記していました。「たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」。なぜ、パウロは、呪いの言葉を口にするのでしょうか。それは、パウロが、かつてガラテヤの信徒たちに告げ知らせた福音が、イエス・キリストの啓示によって知らされた福音であったからです。

 11節と12節をお読みします。

 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。

 このところは、1節の言い回しに似ています。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストとキリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」は、人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって福音を知らされたのです。1節と12節の言い回しが似ていることは、パウロが使徒とされたこととイエス・キリストの啓示を受けたことが密接に結びついていることを表しています。パウロは、イエス・キリストの啓示によって福音を知らされて、イエス・キリストの使徒とされたのです。

 「イエス・キリストの啓示」については、使徒言行録の第9章に記されています。新約の229ページです。第9章1節から9節までをお読みします。

 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。

 サウロ(後のパウロ)は、復活された栄光の主イエス・キリストに出会って、自分が迫害しているイエスが主であることを知りました。このようなイエス・キリストの啓示によって、パウロは、福音を知らされたのです。イエス・キリストは、異邦人に福音を宣べ伝えるために、パウロに現れてくださり、パウロを使徒とされたのです(使徒9:15、16参照)。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の342ページです。

 ガラテヤの諸教会を惑わせていたある人々は、「パウロは、エルサレム教会から福音を教えられて使徒となった人物である。それにもかかわらず、エルサレム教会の教えに反する福音を告げ知らせている」と主張していました。そのような彼らの主張を念頭に置きつつ、パウロは、自分の過去について記します。

 13節から17節までをお読みします。

 あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知せるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。

 かつてパウロは、律法を守るのに人一倍熱心であったゆえに、キリスト教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。かつてのパウロは、人は律法を守ることによって神様の御前に正しい者とされると信じていました。ですから、パウロは熱心に律法を守ったのです(フィリピ3:6「律法の義については非のうちどころのない者でした」参照)。しかし、キリストの教会は、「十字架につけられて死んだナザレのイエスを、神は復活させられてメシアとなされた。イエス・キリストを信じる者は神様の御前に正しい者とされる」と教えていたのです。十字架の死は、木にかけられた者の死であり、神によって呪われた者の死でありました(申命21:23「木にかけられた者は、神に呪われたものだからである」参照)。神に呪われて死んだナザレのイエスが、約束のメシア、王である。このような主張を、かつてのパウロは到底受け入れることはできませんでした。そのような主張は、かつてのパウロにとって神を冒涜することであったのです。また、イエス・キリストを信じる信仰によって正しい者とされるという教えは、律法を熱心に守っていたパウロには耐えられない教えでありました。しかし、そのようなパウロに、神様は、御心のままに、御子イエス・キリストを示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたのです。あのダマスコ途上において、栄光の主イエス・キリストは、パウロに現れてくださったのです。そのことによって、パウロは、「十字架にかけられて死んだナザレのイエスを神は復活させて、メシアとなされた」という教会の教えが真実であることを知ったのです。また、「人は律法の行いによって救われるのではなく、イエス・キリストへの信仰によって救われる」という教えが真実であることを知ったのです。約束のメシアが、律法の呪いを死んでくださったことは、何を意味するのか。それは、人は誰一人律法を守ることによって救われないということです。人が律法を守ることによって救われるならば、神の御子が人となって十字架につけられる必要などありませんでした。神の御子が人となって、律法の呪いの死を死んでくださったのは、人は誰も神の掟を守ることによって、神の御前に正しい者とされることはないことを教えているのです。このようにして、パウロは、イエス・キリストの啓示によって、福音を知らされたのです。

 パウロは、15節で、「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神」と記します。ここには、パウロの預言者意識がよく表れています。神様は、預言者エレミヤに、「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた」と言われました(エレミヤ1:5参照)。そのエレミヤと同じように、「自分は諸国民に福音を告げ知らせるために、母の胎内にあるときから聖別されていた」とパウロは記すのです。パウロは、イエス・キリストの啓示を受けたときに、自分は神様によって選び分けられたと記すのではなくて、母の胎内にあったときから選び分けられていたと言うのです。パウロがこのように記すのは、イエス・キリストの啓示を受ける前の人生も決して無駄ではなく、異邦人に福音を告げ知らせるための準備であったと考えたからです。かつて律法に人一倍熱心であり、教会を迫害し、滅ぼそうとしていたパウロであるからこそ、語ることができる福音の豊かさがあるのです。私たちは、パウロのように、栄光の主イエス・キリストを肉の目で見たことはありません。しかし、私たちがイエス・キリストの福音を信じることができたのは、究極的に言うと、御言葉と共に働く聖霊において、栄光の主イエス・キリストが出会ってくださったからであるのです。そして、私たちも、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるために、母の胎内にある時から選び分けられていたと言えるのです。高齢になってからイエス・キリストを信じた人であっても、母の胎内にあるときから神様によって選び分けられていたのです。そのことを信じるとき、私たちもイエス・キリストを信じる前の人生を、意味あるものとして、神様の御手から受け取り直すことができるのです。

 パウロは、イエス・キリストの啓示を受けて、福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、どうしたでしょうか。他の人に相談したのでしょうか。あるいは、エルサレムに上って、自分より先に使徒とされた人たちのもとに行ったのでしょうか。そうではありません。パウロは血肉(人間)に相談することなく、エルサレムに上って自分よりも先に使徒とされた人たちに会いに行くこともしませんでした。パウロはアラビアに退いたのです(ここでのアラビアは、ダマスコ南東のナバテヤ王国の北部の地域を指す)。パウロがアラビアで何をしたのかは分かりません。ある人は、パウロは祈りと瞑想のためにアラビアに行ったと推測しています。また、ある人は、パウロはアラビアで、イエス・キリストの福音を宣べ伝えたと推測しています。『使徒言行録』を読んでも、パウロがアラビアに行ったことは記されていません。しかし、パウロが、ダマスコでイエス・キリストの福音を宣べ伝えたことは記されています(使徒9:20~22参照)。ここで、パウロが強調していることは、エルサレム教会から福音を教えられて、エルサレム教会によって使徒とされて、自分は福音を告げ知らせたのではないということです。パウロは、イエス・キリストの啓示によって福音を知らされ、イエス・キリストによって使徒とされた者として、福音を告げ知らせたのです。

 18節から24節までをお読みします。

 それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。その後、わたしはシリアおよびキリキア地方へ行きました。キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。ただ彼らは、「かつて我々が迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、わたしのことで神をほめたたえておりました。

 パウロがエルサレムに上ったのは、イエス・キリストの啓示を受けてから、三年後のことでありました。パウロは、三年間、エルサレム教会から独立して、ダマスコで福音を宣べ伝えたのです。パウロがエルサレムに上ったのは、ケファ(ペトロ)と知り合いになるためでした。パウロは、自分はイエス・キリストの啓示によって使徒とされたのだから、他の使徒たちに知り合いになる必要はないとは考えませんでした。パウロは、ペトロのもとに15日間滞在して、イエス・キリストについて、いろいろと教えられたと思います。パウロが『コリントの信徒への手紙一』の第15章で、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」と記している福音は、おそらく、エルサレム滞在のときに、ペトロから受けたものであると考えられています。実際に開いて確認してみましょう。新約の320ページです。第15章1節から5節までをお読みします。

 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。

 このような福音を、パウロはケファから、エルサレム教会から受けたのです。それでは、ある人々が主張しているように、パウロは、エルサレム教会から福音を受けたのでしょうか。そうではありません。パウロがエルサレム教会の伝承を、イエス・キリストの福音として受けることができたのは、イエス・キリストの啓示によるのです。もし、神様が御心のままに、御子イエス・キリストを示してくださらなければ、パウロは、エルサレム教会からの伝承を福音として受け入れることはできなかったのです。もし、パウロがイエス・キリストの啓示によって福音を知らされていなければ、エルサレム教会からの伝承も、滅ぼすべき信仰であったのです(ガラテヤ1:23「ただ彼らは、『かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている』と聞いて」参照)。そのような意味で、パウロは、福音を人から受けたのでもなく、人から教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。私たちも同じです。私たちもいろいろな人を通して、福音を聞いて来ました。羽生栄光教会の歴史を振り返っても、嘉成先生、今井先生、矢内先生、私(村田)と、いろいろな人が福音を語ってきました。しかし、その語ってきたことを福音として信じさせてくださるのは、御言葉と共に働く聖霊であるのです。もっと言えば、御言葉と聖霊において出会ってくださるイエス・キリストであるのです。私たちは、御言葉と聖霊において、イエス・キリストにお会いしたからこそ、イエス・キリストの福音を信じることができたのです。また、私たちは御言葉と聖霊において、イエス・キリストにお会いしているからこそ、福音を告げ知らせて、神様をほめたたえているのです。

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