人ではなく、神によって 2023年3月05日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

人ではなく、神によって

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ガラテヤの信徒への手紙 1章1節~5節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、
1:2 ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。
1:3 わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
1:4 キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。
1:5 わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。ガラテヤの信徒への手紙 1章1節~5節

原稿のアイコンメッセージ

 先週で、『ヨハネの手紙一』を読み終わりましたので、今朝から『ガラテヤの信徒への手紙』を読み進めていきたいと思います。今朝は、第1章1節から5節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節と2節をお読みします。

 人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。

 ここには、この手紙の差出人と受取人が記されています。この手紙の差出人は、「パウロと兄弟一同」です。また、この手紙の受取人は、「ガラテヤ地方の諸教会」です。最初に、差出人についてお話ししたいと思います。ここでパウロは、自分のことを、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」と記しています。なぜ、パウロは、このような回りくどい言い方をしたのでしょうか。それは、ガラテヤ地方の諸教会を惑わせていたある人々が、パウロが使徒であることを疑っていたからです。パウロは、復活される前のイエス・キリストを知りませんでした。他の使徒たち、ペトロやヨハネたちは、復活される前のイエス様によって使徒とされ、イエス様から訓練を受けて来ました。しかし、パウロは、復活される前のイエス様にお会いしたことがありませんでした。パウロがお会いしたのは、『使徒言行録』の第9章に記されているように、復活された栄光のイエス・キリストであったのです。『使徒言行録』で、パウロは、栄光のイエス・キリストに出会ったことを、三度証ししています。パウロは、ユダヤ人たちの前で、総督フェリクスの前で、アグリッパ王の前で、自分が栄光のイエス・キリストと出会って、使徒とされたことを証ししました(使徒22章、24章、26章参照)。しかし、それはパウロの証しであって、疑おうと思えば、幾らでも疑えるわけです。それで、ある人々は、パウロが使徒であることを否定していたのです。また、ある人々は、「パウロは、ペトロやヨハネといった使徒たちによって、権威を与えられた広い意味での使徒(いわば二流の使徒)である」と言っていたようです。新約聖書において、使徒という言葉は、イエス様が選ばれた12人以外の人にも用いられています。例えば、『使徒言行録』の第14章14節では、「バルナバ」のことを「使徒」と呼んでいます(「使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと」参照)。パウロは、そのような広い意味での使徒(いわば二流の使徒)であると、ある人々は言っていたのです。そのようなある人々の主張を念頭に置いて、パウロは、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」と自分のことを記したのです。パウロは、「自分は人間によって使徒とされたのではなく、イエス・キリストと父なる神によって使徒とされたのだ」と記します。ペトロとヨハネたちを使徒とされたイエス・キリストによって、パウロも使徒とされたのです。ここで、パウロは、自分がイエス・キリストと父なる神によって使徒とされたことに、大変こだわっています。パウロは、自分がイエス・キリストの使徒であることに固執してゆずりません。それは、パウロが宣べ伝えた福音の確かさにかかわっているからです。「使徒」とは、「権威を与えられて遣わされた者」を意味します。使徒とは、代理人であり、古風な日本語で言えば、名代(みょうだい)のことです。使徒の言葉は、その使徒を遣わした人の言葉であると考えられていました。ですから、イエス様は72人の弟子たちを遣わすにあたってこう言われました。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである」(ルカ10:16)。イエス様が遣わされた使徒たちに耳を傾ける人は、イエス様に耳を傾ける人である。それは、イエス様が遣わされた使徒たちの言葉が、イエス様の言葉であるからです。ですから、パウロは、自分がイエス・キリストによって使徒とされた事実を断固主張するのです。もし、パウロがイエス・キリストの使徒でないならば、パウロが宣べ伝えた福音は、イエス・キリストの福音ではないことになります。しかし、パウロがイエス・キリストの使徒であるならば、パウロが宣べ伝えた福音はイエス・キリストの福音であるのです。パウロが宣べ伝えた福音は、「人はイエス・キリストを信じることによって救われる」という福音でした。そして、ガラテヤの信徒たちは、パウロが宣べ伝えた福音を受け入れて、イエス・キリストを信じたわけです。そのようにして、ガラテヤ地方に、いくつかの教会(家の教会)が生まれたのです。そのガラテヤの諸教会に、ある人々がやって来て、パウロが宣べ伝えたのとは別の福音を宣べ伝えたのです。ある人々は、イエス・キリストを信じるだけではなく、律法を守らなければ救われないと教え始めたのです。ある人々は、エルサレムからやって来た者たちであったようです。エルサレム教会には、主の兄弟ヤコブがおり、使徒ペトロや使徒ヨハネがいます。エルサレム教会は、すべての教会の源であり、すべての教会の母教会ともいえる教会です。そのエルサレム教会から来たある人々に、ガラテヤの信徒たちは、すっかり惑わされてしまったわけです。ガラテヤの信徒たちの中に、パウロがイエス・キリストの使徒であることを疑う者たちが出て来る。また、ある人々の教えを受け入れて、割礼を受ける者たちが出て来る(割礼を受けることは、律法の軛を負うことの象徴である)。そのような知らせを聞いて、パウロは、怒りに燃えたと思います。また、ガラテヤの信徒たちのことが心配でならなかったと思います。パウロは、第4章8節から20節でこう記しています。少し長いですが、お読みします。新約の347ページです。

 ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている。いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために労苦したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。

 わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくださいました。あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。

 このようなガラテヤの信徒たちに対する愛から、パウロは、この手紙を書き記したのです。『ガラテヤの信徒への手紙』は、パウロの怒りのこもった論争的な手紙です。しかし、その怒りの源にあるのは、ガラテヤの信徒たちに対する愛であるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の342ページです。

 パウロは、この手紙の共同の差出人として、「ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から」と記します。そのようにして、パウロは、この手紙に記されていることが、兄弟一同によって真理として受け入れられていることを示すのです。この手紙に記されていることは、パウロ一人が言っていることではなくて、兄弟たちによって広く受け入れられている真理であるのです。

 次に、この手紙の受取人、宛先についてお話ししたいと思います。この手紙の宛先は、「ガラテヤ地方の諸教会」です。ガラテヤ地方とは、現在のトルコ共和国がある小アジアの中央部を指します(聖書地図の第8図「パウロの宣教旅行2、3」参照)。パウロがガラテヤ地方において、福音を宣べ伝えることになった経緯は、先程お読みした第4章に記されていました。パウロは、体が弱くなったことがきっかけで、ガラテヤ地方の人々に福音を宣べ伝えたのです。『使徒言行録』の第16章6節に、こう記されています。新約の245ページです。

さて、彼ら(パウロとシラスとテモテ)はアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。

このとき、パウロは何らかの病を患っており、それを聖霊による導きであると信じて、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。そのとき、ガラテヤ地方でイエス・キリストの福音を宣べ伝えた。このように考えることができます。そうしますと、パウロがガラテヤ地方で福音を宣べ伝えたのは、第二回宣教旅行のときであったことになります。ガラテヤ地方の諸教会は、パウロの福音宣教によって生まれた教会であったのです。今で言えば、パウロが開拓伝道した教会であったのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の342ページです。

 3節から5節までをお読みします。

 わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。キリストは、わたしたちの神であり、父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。

 当時の手紙の形式において、差出人と受取人を記した後に、祈りの言葉を記しました。相手の健康を祈る言葉が記されたのです(使徒15:29参照)。パウロは、その祈りの言葉として、「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と記します。この恵みと平和は、父なる神の御意志に従って、イエス・キリストが御自身を献げてくださったことによって、私たちに与えられた恵みと平和であります。ここでの「恵み」とは「罪の赦し」であり、ここでの「平和」は罪の赦しに基づく「神様との平和」のことです。イエス・キリストを信じる私たちはすべての罪を赦されて、神様との平和な関係に生きる神の子とされています。それは、イエス・キリストが、父なる神の御心に従い、この悪の世から私たちを救い出そうとして、御自身を私たちの罪のために献げてくださったからです。これが、パウロが宣べ伝えたイエス・キリストの福音であります。また、ガラテヤの信徒たちが受け入れたイエス・キリストの福音であります。さらには、私たちが受け入れたイエス・キリストの福音であるのです。このイエス・キリストの福音を受け入れて、パウロとガラテヤの信徒たちは、一緒になって神様を礼拝する者となりました。ユダヤ人であるパウロと異邦人であるガラテヤの信徒たちが、一緒になって神様を礼拝したのです(当時としては驚くべきこと!)。その礼拝において語られたであろう頌栄の言葉、神様をほめたたえる言葉が5節に記されています。「わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン」。このように、パウロとガラテヤの信徒たちは、心を合わせて、声を合わせて、父なる神様をほめたたえました。そのことをパウロは、ガラテヤの信徒たちに思い起こさせようとするのです。また、この手紙の「挨拶」を、父なる神様をほめたたえる言葉で結ぶことは、ふさわしいことであります。なぜなら、イエス・キリストの福音は、ただ神にのみ栄光を帰する良き知らせであるからです。イエス・キリストを信じる信仰によって救われるという福音は、イエス・キリストを遣わされた父なる神様にのみ栄光を帰する良き知らせであるのです。もし、イエス・キリストを信じるだけではなく、律法を守られなければ救われないのであれば、その栄光は、その人自身に帰されることになります。「わたしは自分の力で律法を守ったから救われた」のであれば、それは自分自身に栄光を帰することになるのです。「わたしは良くやった。わたしは素晴らしい人間だ」ということになるのです。しかし、イエス・キリストの福音は、そのような良き知らせではありません。イエス・キリストの福音は、父である神と御子イエス・キリストと聖霊なる神、三つにしてただひとりにいます三位一体の神にのみ栄光を帰するのです。イエス・キリストの福音によって救われた私たちは、ただ神様にのみ栄光を帰するのです。今朝は「招きの言葉」として、『詩編』の第115編をお読みしました。その1節にこう記されていました。「わたしたちではなく、主よ/わたしたちではなく/あなたの御名こそ、栄え輝きますように/あなたの慈しみとまことによって」。この願いこそ、イエス・キリストの福音によって救われた私たちの願いであるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す