信仰の確信 2023年2月26日(日曜 朝の礼拝)

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信仰の確信

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネの手紙一 5章18節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:18 わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。
5:19 わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。
5:20 わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。
5:21 子たちよ、偶像を避けなさい。ヨハネの手紙一 5章18節~21節

原稿のアイコンメッセージ

序.信仰の確信

 昨年の2022年9月から、『ヨハネの手紙一』を学んで来ました。私たちは、6か月に渡って、『ヨハネの手紙一』を少しずつ読み進めてきたのです。今朝は、その最後の学びとなります。今朝の説教題を、「信仰の確信」としました。それは、今朝の御言葉に、「わたしたちは知っています」という言葉が三度も記されているからです。イエス・キリストの使徒ヨハネは、この手紙を閉じるにあたって、三つの信仰の確信を記すのです。今朝は、その信仰の確信を、私たちの確信として、御一緒に学びたいと願います。

1.私たちは罪を犯し続けない

 18節をお読みします。

 わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。

 「すべて神から生まれた者は罪を犯しません」とヨハネが記すとき、それは「すべて神から生まれた者は罪を犯し続けない」という意味です。神から生まれた者が罪を犯してしまうことは、前回学んだ16節を読んでも分かります。そこで、ヨハネは、「死に至らない罪を犯している兄弟姉妹」のことを記しています。イエスはメシアであり、神の子であると信じる私たちは、神から生まれた者たちです。その私たちが自分の生活を振り返って、まったく罪を犯していないかと言えば、罪を犯しているわけです。けれども、神から生まれた私たちは、罪を犯し続けることはないのです。罪を悲しみ、罪を憎み、その罪を犯さないようにしようとするわけですね。私たちは、その決意を、主の日の礼拝ごとに、「罪の告白」の中で言い表しているのです。

 神から生まれた者は罪を犯し続けることができない。その根拠を、ヨハネは、「神からお生まれになった方が、その人を守ってくださる」からだと記します。「神からお生まれになった方」とは、神の独り子イエス・キリストのことです。神の独り子であるイエス・キリストが守ってくださるので、私たちは悪い者に支配されてしまうことはないのです。『ヨハネによる福音書』の第17章に、「大祭司の祈り」と呼ばれるイエス様の祈りが記されています。その祈りの中で、イエス様は、こう言われました。「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした」(ヨハネ17:11b、12)。このように祈られたイエス様が、聖霊と御言葉によって、私たちを守ってくださっているのです。それゆえ、神の敵である悪魔は、私たちを支配して、罪を犯し続けるようにさせることはできないのです。なぜなら、イエス・キリストこそ、十字架の死と復活によって、悪魔に決定的な勝利を収められた御方であるからです。

2.私たちは神に属する者である 

 19節をお読みします。

 わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。

 ヨハネが、「わたしたちは神に属する者である」と記すとき、その「わたしたち」とは、イエスはメシアであり、神の子であると信じる私たちのことです。イエスはメシアであり、神の子であると信じる私たちは、神に属する者であるのです。イエス様は、大祭司の祈りの中で、こう言われました。「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです」(ヨハネ17:14~16)。イエス様が「わたしは世に属していない」と言われるとき、その「世」とは悪魔の支配下にある世のことです。イエス様は、神の御子であるゆえに、また、第二のアダムであるゆえに、悪魔の支配下にある世に属していないのです。そして、御言葉を受け入れて、イエス・キリストを信じた私たちも、世に属する者ではなく、神に属する者とされているのです。イエス・キリストを信じる前のかつての私たちは、世に属する者でありました。神に背く悪魔の支配下にあったのです。それで、私たちは神に背いて、悪魔に従って罪を犯していたのです。しかし、私たちは、御子イエス・キリストによって、悪魔の支配から解放されて、神に属する者とされているのです。イエス・キリストを通して、聖霊を与えられて、まことの神様を知る者とされたのです。しかし、御言葉を受け入れず、イエス・キリストを信じない人々は、いまだに、悪魔が支配する世に属しているのです。それゆえ、イエス様は、弟子たちに、「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう」と言われたのです(ヨハネ15:20)。現代の日本に住む私たちは、『日本国憲法』によって信教の自由が保障されています。ですから、あからさまに迫害されることはありませんし、あってはなりません。しかし、日本におけるキリスト教の歴史を振り返るならば、それは迫害の歴史でありました。なぜ、日本においてキリスト教は迫害されたのか。さまざまなことが言えるでしょう(例えば支配者階級にとって都合が悪かったとか)。ヨハネは、その理由をこう記すのです。「この世全体が悪い者の支配下にあるからだ」と。なぜ、多くの人が御言葉を受け入れないのでしょうか。なぜ、多くの人がイエス・キリストを信じないのでしょうか。その理由は、私たち自身にあるのかも知れません(例えば福音をうまく伝えていないとか)。しかし、根本的なことを言えば、その理由は、この世全体が悪い者の支配下に置かれているからなのです。はじめの人アダムが神の言葉に背いて、悪魔の言葉に従ったことにより、この世全体は、悪魔の支配下に置かれているのです。しかし、イエス・キリストを信じて神に属する者となった私たちは、イエス・キリストが十字架の死と復活によって悪魔に決定的な勝利を収められたことを知っています。また、世の終わりに再び来られるイエス・キリストが、悪魔を火と硫黄の燃える池に投げ込まれることを知っているのです(黙示20:10「そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる」参照)。イエス・キリストは、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言われました(ヨハネ16:33)。それゆえ、私たちは、自分たちが世に勝利する勝利者であることをも知っているのです。

3.私たちは真実な方を知る力を与えられた

 20節をお読みします。

 わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。

 神様は、独り子イエス・キリストを遣わされることによって、御自分を示されました(ヨハネ1:18)。私たちはイエス・キリストを知ることによって、生きて働いておられる、まことの神様を知ることができたのです。自分のことを話して恐縮ですが、わたしは二十歳の頃、初めて礼拝に出席しました。そのときも、神はいるのではないかと思っていました。しかし、それがどのような神であるのかが分からなかったのです。人間の存在を超えた、神らしきものがいると思えても、それがどのような神であるかが分からないのです。今から考えると、それは致し方ないのです。なぜなら、神様は、聖書によって御自分を示してくださるからです。もっと言えば、聖書が証しするイエス・キリストを通して御自分を示してくださるからです。聖書もほとんど読んだことがなく、イエス・キリストについてもほとんど知らない、かつての私がまことの神様を知らないのは、今から考えると当然であったのです。しかし、そのような私が、また、私たちが、イエス・キリストを知ることにより、まことの神様を知ることができたのです。『ヨハネによる福音書』の第9章に、生まれながらに盲人であった人の話が記されています。生まれながら目の見えなかった人が、イエス様に言われたとおり、シロアムの池に行って、目を洗うと見えるようになった。そして、その人は、イエス様に出会い、イエス様のことをメシアと告白し、ひざまずくのです。この物語は、イエス・キリストに出会って、まことの神を知った私たちの物語です。私たちも霊的には盲目でした。神様が造られた世界に、神様によって生かされておりながら、神様を知らなかったのです。しかし、イエス・キリストが来て、聖霊と御言葉によって、私たちの霊的な目を開いてくださったのです。盲人はシロアムの池に行って、洗って見えるようになりました。このことは、私たちがイエス・キリストを信じて洗礼を受けたことを意味しています。私たちは、水の洗いによって霊の目を開かれて、イエスはメシアであり、神の子であると告白し、礼拝する者とされたのです。そのようにして、神のもとから来られたイエス・キリストは、私たちにまことの神を知る力を与えてくださったのです。

 続けて、ヨハネはこう記します。「わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです」。ここで注意したいことは、御子イエス・キリストの内にいるとき、私たちはまことの神様の内にいるということです。御子イエス・キリストを抜きにして、まことの神様との交わりはあり得ないということです。イエス様は、大祭司の祈りの中で、次のように言われました。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17:3)。これは、有名な永遠の命についての定義です。しかし、その知る順番から言えば、イエス・キリストを知ることが先に来るのです。イエス・キリストを知って、まことの神様を知るのです。そのようにして、私たちは、御父と御子イエス・キリストとの交わりである永遠の命に生きる者とされたのです。

 ヨハネは、「御子イエス・キリストこそ、真実の神、永遠の命です」と記します。これは、復活の主イエス・キリストに出会ったトマスの言葉を思い起こさせます。トマスは、復活されたイエス様にまみえたとき、「わたしの主、わたしの神よ」と告白しました(ヨハネ20:28)。そして、イエス様は、トマスに、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたのです(ヨハネ20:29)。見ないで信じる、それは使徒たちの証しである聖書の御言葉と聖霊の証しによって信じるということです。私たちは、使徒ヨハネの証しを受け入れて、イエス・キリストはまことの神であり、この御方の内にこそ、神様との親しい交わり、永遠の命が実現していることを信じているのです。まことの神であり、永遠の命であるイエス・キリストを信じて、私たちは父なる神様との親しい交わり、永遠の命に生かされているのです。

結.偶像を避けなさい

 21節をお読みします。

 子たちよ、偶像を避けなさい。

 ヨハネは、小アジアのキリスト者たちに親しく、「子たちよ」と呼びかけ、「偶像を避けなさい」と警告します。ここでの「偶像」とは何でしょうか?金の子牛のような神々の像のことでしょうか。おそらく、そうではないと思います。この手紙の文脈から考えると、ここでの偶像は、偽預言者たちが教えていた、人のように見えただけの純粋な霊であるイエス・キリストのことです。偽預言者たちは、イエス・キリストが人となって来られたことを公に言い表しませんでした(4:2参照)。偽預言者たちは、聖霊の証しを受け入れずに、自分たちが思い描く純粋な霊であるイエス・キリストを教えていたのです。その偽預言者たちが教えていたイエス・キリストを、ヨハネはここで「偶像」と呼んでいるのです。それゆえ、ヨハネによれば、偽預言者たちは偶像崇拝者であるのですね。そのような罪を犯すことがないように、私たちは、聖書の御言葉と聖霊が証しする、まことの神であり、まことの人であるイエス・キリストを信じて歩んで行きたいと願います。

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