神は愛です 2023年1月22日(日曜 朝の礼拝)

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神は愛です

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネの手紙一 4章7節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
4:11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
4:12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。ヨハネの手紙一 4章7節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 今年も、昨年に続いて、『ヨハネの手紙一』を御一緒に読み進めていきたいと願います。今朝は、第4章7節から12節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 7節と8節をお読みします。

 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。

 ヨハネは、この手紙の受取人である小アジアの兄弟姉妹を愛する者として、「互いに愛し合いましょう」と記します。ヨハネが、「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」と記すとき、その愛は、私たち人間が生まれながらに持っている愛ではありません。人間の本能に基づく、肉親に対する愛や男女の愛ではないのです。「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです」とあるように、私たちは聖霊によって注がれている神の愛、イエス・キリストの愛で、互いに愛し合う者とされているのです(ローマ5:5「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」参照)。私たちは、神様とイエス・キリストから愛されている者として、互いに愛し合うことが命じられているのです。私たちが互いに愛し合うならば、私たちは自分が神から生まれ、神を知っていることが分かるのです。ここでも、ヨハネは、教会を惑わせていた偽預言者たちのことを念頭に置いています。偽預言者たちは、イエス・キリストが人となって来られたことを否定していました(4:2参照)。偽預言者たちは、兄弟姉妹を愛することなく、教会の交わりから去って行きました(2:19参照)。それにもかかわらず、偽預言者たちは「自分たちは神を知っている」と言っていたのです。そのような偽預言者たちの主張を念頭に置きながら、ヨハネはこう記します。「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」。神は愛である。それゆえ、神を知っている者は互いに愛し合うのです。神は愛である。そのことは、神様の御心の表れである掟のことを考えても分かります。イエス様は、『マルコによる福音書』において、全身全霊で神を愛することと自分のように隣人を愛することが、最も重要な掟であると教えられました(マルコ12:29〜31参照)。それは、神様が愛であるからですね。全身全霊で神を愛することと自分のように隣人を愛することが、最も重要な掟であるのは、その掟を与えられた神様が愛であるからなのです。しかし、ヨハネは、そのようには記しませんでした。ヨハネは、神様が独り子を世に遣わしてくださった、クリスマスの出来事を記すのです。

 9節と10節をお読みします。

 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

 神様が独り子をお遣わしになった「世」とは、神様によって造られながらも、神様に背いている世のことです。また、神様の敵である悪魔が支配する世のことです(5:19参照)。そのような世界に、神様は大切な独り子を遣わしてくださいました。『ヨハネによる福音書』の第1章に記されているとおり、初めから神と共におられた、子なる神である言(ことば)が、肉となって、私たちの間に宿られました。神の御子イエス・キリストは、聖霊によって処女(おとめ)マリアの胎に宿り、人としての性質をお取りになったのです。イエス・キリストは、まことの神でありつつ、まことの人であるのです。なぜ、神様は、独り子イエス・キリストを世に遣してくださったのでしょうか。それは、私たちが生きるようになるためです。御父と御子イエス・キリストの交わりである永遠の命に、私たちが生きるようになるために、神様は独り子を世に遣わしてくださったのです。そして、ヨハネは、「ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」と記すのです。創造主である神の御子が、被造物である人間の性質を取られて、この地上にお生まれになった。この驚くべき出来事は、罪と悲惨の中にある私たちに、永遠の命を与えるためであったのです。このクリスマスの出来事によって、神様は私たちに対する愛を示されました。私たちは、神の霊である聖霊のお働きによって、その神様の愛を、自分に対する愛として受けとめることができたのです。ですから、私たちは、毎年、御子イエス・キリストの御降誕をお祝いしているのです。

 ヨハネは10節で、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」くださったと記します。私たちが神様を愛したので、その見返りとして、神様が私たちを愛してくださったのではありません。はじめの人アダムにあって創造された状態から堕落した人間は、自分の力で神様を知ることもできませんし、神様を愛することもできません。生まれながらの人間は、神様を愛するどころか、自分を神として、神様に逆らい、神様から遠く離れて生きているのです。私たちもイエス・キリストを信じる前は、神様に敵対して歩んでいました。しかし、神様は、そのような私たちを一方的に愛してくださったのです。このことは、神様の愛が、その対象に左右されない無償の愛、主権的で自由な愛であることを教えています。私たち人間の愛は、その対象に左右されます。私たち人間は自分のことを愛してくれる人を愛するのであって、自分に敵対する人を愛することはできません。私たち人間は、自分に利益をもたらす人を愛するのであって、その愛は自己愛の延長線上にあるのです。しかし、神様の愛は違います。神様は、私たちが神様に敵対していたとき、一方的に、自由に、私たちを愛してくださったのです(ローマ5:8「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」参照)。そして、私たちを滅びから救い出して、永遠の命に生きる者としてくださったのです。そのために、神様は、私たちの罪を償ういけにえとして、御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。神様が御子イエス・キリストを遣わしてくださったのは、御子イエス・キリストに私たちのすべての罪を担わせて、私たちの罪を償ういけにえとして、十字架のうえでほふられるためであったのです(イザヤ53章参照)。そのようにして、神様は、私たちへの愛をはっきりと示してくださいました。それゆえ、私たちは「神は愛です」とはっきりと告白することができるのです。私たちが無病息災(病気をせず元気であること)であるから、神の愛が分かるのではありません。「家内安全」「商売繁盛」であるから、神の愛が分かるのではないのです。もし、そうなら、私たちは、この世の不幸に見舞われたとき、神の愛が分からなくなってしまいます。そうではなくて、神様は、御子イエス・キリストを遣わしてださり、十字架の死へと引き渡されることによって、御自分の愛を示してくださったのです。それゆえ、イエス・キリストを信じる私たちは、どのような境遇にあっても、「神は愛です」と大胆に言うことができるのです。

 神様が、私たちに対する愛を、御子イエス・キリストの十字架の死によって示されたことは、その神様の愛が神様の正しさに裏打ちされた愛であることを示しています。神様は愛である。そうであれば、神様は、私たちの罪を罰することなく赦されるのかと言えば、そうではありません。神様は愛であると同時に義であられるからです。神様は愛であり、同時に義であられることは、『出エジプト記』の第34章6節と7節の御言葉からも分かります。そこにはこう記されています。

主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」

神様は、憐れみ深く、恵みに富、慈しみに満ちておられる愛なる御方です。そして同時に、罰すべき者を罰せずにはおかない正しい御方であるのです(ウェストミンスター小教理問答 問4「神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです」参照)。それゆえ、神様は、独り子イエス・キリストを、私たちの罪を償ういけにえとして、十字架の死へと引き渡されたのです。神様は、独り子イエス・キリストを十字架の死へと引き渡されることによって、御自分の愛と御自分の義を貫かれたのです。イエス・キリストの十字架は、独り子を与えられたほどの神様の愛と、罪を罪として罰する神様の正しさを私たちに示しているのです。

 11節と12節をお読みします。

 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内に全うされているのです。

 神様は、独り子をお与えになったほどに、私たちを愛してくださいました(ヨハネ3:16参照)。また、イエス・キリストは、自ら命を捨てられたほどに、私たちを愛してくださいました(ヨハネ10:11参照)。そうであれば、私たちも互いに愛し合うべきであるのです。私たちは神様とイエス・キリストから愛されている者として、互いに愛し合うという義務を負っているのです(ローマ13:8「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです」参照)。それゆえ、イエス・キリストは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という掟を、私たちに与えられたのです(ヨハネ13:34)。

 いまだかつて神様を見たものはいません(ヨハネ1:18参照)。神様は霊であり、肉の目で見ることのできない御方です(ヨハネ4:24参照)。しかし、私たちが神様の愛で互いに愛し合うならば、神様は私たちの内にとどまっておられることが分かるのです。私たちが神様とイエス・キリストによって愛されている者として、互いに愛し合うとき、神様の愛、イエス・キリストの愛は、私たちの内で全うされるのです。「全うされる」と訳されている言葉(テレイオー)は、「目的を達成する」とも「完成する」とも訳すことができます。神様の愛、イエス様の愛は、私たちが互いに愛し合うことによって目的を達成し完成するのです。神様の愛、イエス様の愛は、互いに愛し合う者たちの群れを創り出す、創造的な愛であるのです。私たちは、神様の創造的な愛によって、互いに愛し合う者たちとされているのです。創造的な愛とは、価値を生み出す愛とも言えます。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われる神様によって、私たちは価値ある者、愛されるべき神の子とされたのです(新改訳2017イザヤ43:4)。そのことを信じて、私たちは互いに愛し合っているのです。

今朝は最後に、神様の愛が神様の正しさに裏打ちされていることを確認したいと思います。イエス・キリストの十字架によって示された神様の愛は、神様の正しさと一体的な関係にあります。それゆえ、キリスト教会では、教会訓練、いわゆる戒規(かいき)を行うのです。『コリントの信徒への手紙一』の第5章を読むと、教会の中に、父の妻をわがものとするみだらな行いをする人がいました。パウロは、そのような者を教会の交わりから除外するようにと記しています。パウロは、主イエス・キリストの御名が汚されることがないように、教会の交わりに腐敗が広がらないように、その人が自分の罪を悔い改めて救われるようにと、その人を教会の交わりから除外するように命じたのです。そのパウロの言葉を読んで、「神は愛であり、教会は愛の交わりであるから、その人をそのまま受け入れるべきではないか」と反論する人がいたかも知れません。しかし、神様の愛は、神様の正しさに裏打ちされた愛であるのです。神様は、私たちの罪を赦すために、御子イエス・キリストを遣わして、十字架につける必要があったのです。そのような神の正しさに裏打ちされた神の愛で、私たちは互いに愛し合うことが求められているのです(愛することとあまやかすこととは違う)。

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