希望に満ちた約束 2022年11月20日(日曜 朝の礼拝)

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希望に満ちた約束

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネの手紙一 3章4節~10節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:4 罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。
3:5 あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。
3:6 御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。
3:7 子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。
3:8 罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。
3:9 神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。
3:10 神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。ヨハネの手紙一 3章4節~10節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ヨハネの手紙一』の第3章4節から10節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 前回学んだ、第3章2節と3節に、こう記されていました。「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように自分を清めます」。私たちキリスト者の望み、それは御子が現れるとき、御子をありのままに見て、御子に似た者となることです。御子イエス・キリストは、神の御心に完全に従われました。その御子イエス・キリストに私たちは似た者となるのです。イエス・キリストと同じ霊の体で復活して、聖霊の御支配に完全に従う者となるのです。そのような望みを抱いている神の子として、私たちは、御子が清いように、自分を清めるべきであるのです。自分を清めるとは、罪を犯さないようにするということです。では、罪とは、何でしょうか。今朝の御言葉は、そのことを私たちに教えてくれています。

 4節から7節までをお読みします。

 罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。

 罪とは何か。ヨハネは、「罪とは、法に背くことです」と記します。ここでの法は、神の御意志の表れである神の掟のことです。私たちは、神の掟に背くとき、罪を犯しているのです。人間は聖なる神の掟の前に立つとき、自分が神の掟に背く罪人であることを知るのです。神様は、心を御覧になる御方ですから、私たちの心の思いをもお裁きになるのです(サムエル上16:7参照)。そのことは、イエス様が教えてくださったことでもあります。新約聖書の7ページです。

 『マタイによる福音書』の第5章21節と22節で、イエス様は弟子たちにこう言われました。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』という者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。また、27節と28節で、イエス様は弟子たちにこう言われました。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。イエス様は、ここで十戒の第五の戒めである「あなたは殺してはならない」と第七の戒めである「あなたは姦淫してはならない」という掟を取り上げています。律法学者たちは、「自分は人を殺したことがない。自分は人妻と関係を持ったことがない。だから、自分は第五戒と第七戒を守っている」と考えていました。しかし、イエス様は、心の思いをも問題とされるのです。心を見られる神様は、殺人の源である兄弟に対する怒りや兄弟を軽んじる言葉をも裁かれるのです。また、他人の妻をみだらな思いで見ることを、心の中の姦淫として裁かれるのです。イエス様は、第5章20節で、こう言われました。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。律法学者やファリサイ派の人々にまさる義とは、言葉と行いだけではなく、心と言葉と行いからなる義であるのです。そう聞くと、「いったいだれが天国に入ることができるのか」と思います。心と言葉と行いからなる義によって天国に入られた御方、それは、律法と預言者を完成するために来られた御方、律法を守り、そうするように教えられるイエス・キリストだけであるのです。私たちは、そのイエス・キリストへの信仰によって、正しい者と認められて、天の国へ入るのです(ガラテヤ2:16参照)。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の444ページです。

 御子イエス・キリストは、罪を除くために現れました。洗礼者ヨハネがイエス様を指さして、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言った通りです(ヨハネ1:29)。御子イエス・キリストは、私たちの罪、いや、私たちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえとして、十字架の上で死なれたことによって、世の罪を取り除いてくださったのです(2:2参照)。その際、必要なことは、御子イエス・キリスト御自身に罪がないということです。罪のない神の御子だけが、多くの人の罪を担い、多くの人を罪から贖うことができるのです(イザヤ53:9参照)。聖霊によっておとめマリアの胎に宿られたイエス様は、罪のない御方でありました。『ウェストミンスター小教理問答』の問18によれば、罪は「罪責」と「腐敗」の大きく二つからなります。イエス様は、新しい契約の頭である最後のアダムとして、最初のアダムの罪責を負っていません。また、聖霊のお働きにより、おとめマリアから人の性質を取られながらも腐敗を受け継ぐことはなかったのです。罪のないイエス様が、罪の誘惑に遭われて、なおかつ罪を犯さなかった(ヘブライ4:15参照)。それは、イエス様が御父の内にいつもおられたからです。イエス様は御父との親しい交わりにいつも生きておられたゆえに、御父の御心に適うことをいつも行うことができたのです。

 イエス様は、御父の内にいつもおられたゆえに、罪を犯しませんでした。このことは、原理的には、私たちとイエス様との関係においても言えます。それゆえ、ヨハネは、「御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません」と記すのです。御子イエス・キリストの内にいつもいる人は皆、罪を犯さない。確かに原理的にはそうです。「罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません」。これも原理的には分かります。しかし、私たち自身の体験としては、受け入れがたいのです。なぜなら、私たちは、日々、神の掟に背いて罪を犯してしまうからです。そうであれば、私たちは御子を見たこともなく、知ってもいない者たちなのでしょうか。そもそも、ヨハネは、第1章8節で、「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません」と記していたではないか。そのように思わされるのです。ヨハネは、私たちに罪があること。私たちが罪を犯してしまうことを前提にして、罪を告白することと罪を犯さないようにすることを、これまで記してきました。しかし、今朝の御言葉で、ヨハネは、「御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません」と記すのです。このようにヨハネが記すのは、兄弟姉妹を惑わす偽預言者たちのことを念頭に置いているからです。偽預言者たちとの戦いの中で、原理的なこと、霊的な真理を、ヨハネは語っているのです。「義を行う者」とは罪を犯さない者、神の掟に背かない者のことです。イエス様は、正しい御方であり、何一つ罪を犯されませんでした。それゆえ、御子イエス・キリストの内にいつもいる人は、罪を犯さない、正しい人であるのです。他方、義を行わない者、罪を犯す者は、御子イエス・キリストを知らない者であり、悪魔に属する者であるのです。

 8節をお読みします。

 罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。

 ヨハネは、この御言葉を、『創世記』の第3章に記されている、エデンの園の物語を背景にして記しています。実際に開いて確認しましょう。旧約の3ページです。

神様は、最初の人アダムをエデンの園に住まわせ、耕し、守るようにされました。そして、一つの掟を与えられたのです。2章16節と17節です。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。そのように、神様は、アダムに、善悪の知識の木から食べることを禁じられたのです。神様は、そのような掟を与えることによって、人間が御自分に従うかどうかを知ろうとされたのです。神様の掟を守れば命の木に象徴される命が与えられる。しかし、神様の掟に背くならば必ず死ぬことになる。神の掟は人の生き死にに関わることである。そのことが、アダムに示されたのです。この後、神様は、アダムの助け手として、アダムのあばら骨から女を造られました。アダムと女は「二人は一体となる」と言われる夫婦として、エデンの園で生活していました。そのアダムと女に、誘惑する者である蛇が忍び寄って来ます。この蛇の背後には、神の敵であり、堕落した天使である悪魔がいます。悪魔は蛇の姿で、女に話しかけるのです。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」。このようにして、蛇は、女の関心を、「食べてはいけない木の実」に向けさせるのです。女は蛇にこう答えました。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」。女はアダムから神様の掟について聞いていたのでしょう。そのためか、女の知識は不正確です。神様は、「触れてもいけない」とは言われませんでした。また、神様は、「死んではいけないから」と言われたのではなくて、「必ず死んでしまう」と言われたのです。蛇は、女の知識が不正確であることを知って、こう言いました。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神は御存じなのだ」。神様は、「必ず死んでしまう」と言われました。しかし、蛇は、「決して死ぬことはない」と言ったのです。蛇は土を這うものの分際で、創造主である神様の御言葉を真っ向から否定したのです。創造主である神様の御言葉と、土を這うものである蛇の言葉。どちらを女は信じたでしょうか。当然、神様の言葉であるはずです。しかし、そうはならなかったのです。「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」という蛇の言葉を、女は真に受けたからです。6節に、「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」とあります。女の心の中は、食べてみたいという欲望で一杯なわけです。女は実を取って食べました。そして、アダムも女の手から木の実を受け取って食べたのです。アダムは、女の口から蛇の言葉を聞いて、神のように善悪を知る者となりたいという欲望から、禁じられた木の実を食べたのです。そのようにして、アダムは最初の罪を犯したのです。ヨハネは、エデンの園の物語を念頭に置いて、「罪とは、法に背くことです」。「悪魔は初めから罪を犯しています」と記したのです。また、ヨハネは、エデンの園の物語を念頭に置いて、「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです」と記したのです(パウロが、エデンの園の物語を念頭に置いて、ローマ書7章を記したように)。神様は、罪を犯したアダムと女の前で、蛇に対して、こう言われました。15節です。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く」。これは最初の福音、原福音と呼ばれる御言葉です。神様は、悪魔の頭を打ち砕く、女の子孫の誕生を約束してくださいました。この女の子孫こそ、アブラハムの子であり、ダビデの子であるイエス・キリストであるのです(マタイ1章の系図を参照)。神の御子イエス・キリストが現れてくださったのは、悪魔の頭を打ち砕き、その働きを滅ぼすためであったのです(ローマ16:20参照)。神の御子イエス・キリストは、十字架の死と復活によって、悪魔を滅ぼし、御自分の民である私たちを罪と死の支配から解放してくださったのです(ヘブライ2:14参照)。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の444ページです。

 9節と10節をお読みします。

 神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。

 『ヨハネによる福音書』において、「悪魔の子たち」とは、イエス・キリストを信じないで、イエス・キリストを殺そうとするユダヤ人たちのことでありました(ヨハネ8:44「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている」参照)。イエス・キリストこそ、悪魔の頭を打ち砕く女の子孫ですから、そのイエス・キリストを殺そうとする者は悪魔に属する者であるのです。他方、『ヨハネの手紙』において、「悪魔の子たち」は、イエス・キリストが人となったことを否定する偽預言者たちを指します。しかし、ヨハネは、偽預言者たちが、イエスが人となったことを公に言い表さないから悪魔の子だとは言いません。イエス様が「偽預言者たちを警戒しなさい。・・・あなたがたは、その実で彼らを見分ける」と言われたように、ヨハネは、彼らの実、生活ぶりによって、彼らを「悪魔の子たち」と判断するのです(マタイ7:15、16)。神の掟に従う正しい生活をしているかどうか、それによって、神の子たちと悪魔の子たちとを区別するのです。

 9節の御言葉、「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません」という御言葉も、偽預言者たちとの戦いを背景にした、原理的な、霊的な真理です。前々回の説教において、私は、終末論には、現在的な終末論と未来的な終末論があると申しました。ここでヨハネは、御子が現れるときに、将来に完成する救いが、あたかも今実現しているかのように語っているのです。罪を犯さない。罪を犯すことができない。このことが実現するのは、御子が現れたとき、御子をありのままに見て、御子に似た者となるときです。しかし、ヨハネは、「今、この地上で、神から生まれた人は罪を犯しません。神から生まれた人は罪を犯すことができません」と語るのです。そのように語り得るのは、神から生まれた私たちの内に、神の種がいつもあるからなのです。「神の種」とは私たちを神の子として生かす命のことです。「神の種」とは、私たちに与えられているイエス・キリストの聖霊と御言葉のことです(2:27の「御子から注がれた油」を参照)。神の種であるイエス・キリストの聖霊と御言葉が、私たちの内にいつもあるならば、私たちは罪を犯さないのです。いや、罪を犯すことができないのです。このヨハネの言葉は、御子の内にとどまり、神の子として生きる私たちへの希望に満ちた約束であります。「神から生まれた人は罪を犯しません。神から生まれた人は罪を犯すことができません」。このヨハネの言葉を、私たちは、私たちを断罪する言葉としてではなく、希望に満ちた約束の言葉として聞きたいと願います。

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