かの日に確信を持つために 2022年11月06日(日曜 朝の礼拝)

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かの日に確信を持つために

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネの手紙一 2章28節~29節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:28 さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。
2:29 あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。ヨハネの手紙一 2章28節~29節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は、『ヨハネの手紙一』の第2章28節から第3章3節までをお読みしましたが、今朝は、第2章28節と29節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 28節をお読みします。

 さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。

 イエス・キリストの使徒ヨハネは、この手紙の宛先である小アジアの兄弟姉妹に「子たちよ」と親しく呼びかけ、「御子の内にいつもとどまりなさい」と記します。これは、直前の27節の繰り返しです。イエス様は、『ヨハネによる福音書』の第15章で、御自分をぶどうの木に、弟子たちをぶどうの枝に譬えてこう言われました。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」。イエス様の「わたしにつながっていなさい」という御言葉は、「わたしにとどまっていなさい」とも訳すことができます。イエス様が「わたしにとどまっていなさい」と言われたように、ヨハネは「御子の内にいつもとどまりなさい」と言うのです。御子の内にとどまるとは、御子イエス・キリストの聖霊と御言葉のご支配にとどまるということです。ヨハネは、私たちの内にあるイエス・キリストの聖霊と御言葉を、「御子から注がれた油」と言い表しました。イエス・キリストを「神の御子、罪人の救い主」と信じて、洗礼を受けた私たちには、御子から注がれた油がある。私たちの内には、御子イエス・キリストの聖霊と御言葉があるのです。御子イエス・キリストの聖霊と御言葉のご支配に謙虚に従っていくとき、私たちは「御子の内にいつもとどまっている」と言えるのです。そのことを体験することができる時と場が、イエス・キリストの復活を祝う主の日の礼拝であるのです。主の日の礼拝においてこそ、私たちは、御子イエス・キリストの聖霊と御言葉のご支配に豊かにあずかることができるのです。

 ヨハネは、「そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません」と記します。ここでヨハネは、イエス・キリストの再臨と裁きについて記しています。イエス・キリストの再臨と裁きについては、『ヨハネによる福音書』の第5章に記されていました。実際に開いて、読んでみたいと思います。新約の172ページです。第5章19節から30節までをお読みします。

 そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意思ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである」。

 ここで、イエス様は、御自分が父なる神様から一切の裁きを任されていると語っておられます(22節)。イエス様こそ、裁きの権能を授けられた「人の子」であるのです(27節)。イエス様が「父は・・・裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである」と言われるとき、その「人の子」とは、旧約聖書の『ダニエル書』の第7章に、預言されている「人の子」のことを指しています。『ダニエル書』の第7章13節と14節には、こう記されています。「夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み/権威、威光、王権を受けた。諸国、諸属、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない」。イエス様は、この『ダニエル書』が預言する「人の子」こそ、わたしであると言われたのです。父なる神様は、御子であり、人の子であるイエス様に、裁きを行う権能をお与えになりました。そして、イエス様は父から聞くままに裁くのです。それゆえ、イエス様の裁きは、正しい裁きであるのです。

 また、ここで、イエス様は裁きの二つの局面について教えておられます。神学の言葉で言うと、「現在的終末論」と「未来的終末論」について教えておられるのです。「現在的終末論」とは、「終末の裁きが、現在すでに起こっている」という考え方です。また、「未来的終末論」とは、「終末の裁きが、未来に行われる」という考え方です。イエス様は、24節で、こう言われました。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」。ここでイエス様は、「終末の裁きを待つまでもなく、わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得ている。死から命へと移っている」と言われています。これが「現在的終末論」ですね。終末にあずかる恵みに、今、この地上であずかっている。イエス様の言葉を聞いて、父なる神を信じている私たちは、今既に、永遠の命を持っている。死の支配から解放されて、命の支配へと移っているのです。また、イエス様は、未来に起こる終末の裁きについても語っておられます。それが「人の子」としての裁きでありますね。28節と29節で、人の子であるイエス様は、こう言われます。「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出てくるのだ」。ここで、一つ注意したいことは、「善を行った」の「行った」と、「悪を行った」の「行った」は元の言葉では違う言葉であるということです。「善を行った」の「行った」(ポイエオー)は「(実を)結んだ」とも訳せます。「善を行った者」は「善の実を結んだ者」と訳すことができるのです。イエス様は、第15章で、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と言われました。その豊かな実のことが言われているわけです。使徒パウロが、ガラテヤ書の第5章で記している、聖霊の結び実、愛、喜び、平和などのことが言われているのです。そうしますと、イエス様につながっていること、御子の内にとどまっていることが、いかに大切なことであるかが分かってきます。私たちが御子の内にいつもとどまるならば、私たちは善の実を結び、御子が現れるとき、確信を持つことができるのです。

 今朝の御言葉に戻りましょう。新約の443ページです。

「さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御前で恥じ入るようなことがありません」。ここでの確信は、「救われている確信」のことでしょう。世の終わりに、天からイエス・キリストが来られて、すべての人をお裁きになる。そう聞けば、誰もが恐れるのではないでしょうか。なぜなら、誰もが、自分の行った悪を知っているからです。エデンの園において、禁じられた木の実を食べたアダムと女がそうでした。罪を犯したアダムと女は、主なる神様が来られると、園の木の間に隠れたのです。アダムと女は、神様の御前に恥じ入ったわけです。しかし、私たちは御子イエス・キリストの内にいつもとどまっているので、御子が現れるとき、救われている確信をもって立つことができるのです。そして、その確信は、御子イエス・キリストが正しい方であることを知っている、信仰に支えられた確信であるのです(ウエストミンスター信仰告白第18章「恵みの救いの確信について

」参照)。

 29節をお読みします。

 あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。

 「あなたがたは、御子が正しい方だと知っている」という御言葉は、私たちに、第2章1節の御言葉を思い起こさせます。「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」。イエス・キリストは、神の御心に適うことをいつも行われる正しい方であります。その正しい方が、私たちの罪を償うために、十字架の死を死んでくださいました。そして、復活したイエス・キリストは、自分の正しさと十字架の贖いを根拠として、私たちのために執り成してくださっているのです。私たちが罪を犯しても、御父のもとにおられるイエス・キリストが執り成してくださっている。それゆえ、私たちは罪を赦され、御父と御子との交わりにとどまり続けることができるのです。『ヨハネによる福音書』によれば、復活されたイエス様の手には、釘のあとがありました。その釘のあとを見せながら、イエス様は、「わたしが自分の民のために罪の刑罰を受けましたから、彼らの罪を赦してください」と父なる神様に執り成してくださっているのです。その弁護者であり、正しい方であるイエス・キリストが、世を裁くために来られるのです。御自分の命を捨てられたほどに、私たちを愛してくださっているイエス・キリストが来られるのです(ヨハネ10:11「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」参照)。ですから、私たちは、「主イエスよ、来てください」と祈りつつ、かの日を待ち望むことができるのです(黙示22:20参照)。

 今朝の説教題を「かの日に確信を持つために」とつけました。「かの日」とは、御子イエス・キリストが来られる終わりの日のことです。御子が来られる日に、私たちが確信を持つことができるのは、御子の内にいつもとどまっているからです。それは、言い換えれば、今すでに、御父と御子との交わりである永遠の命にあずかっているということです。先程、『ヨハネによる福音書』の第5章を開いて読みました。そのとき、「現在的終末論」と「未来的終末論」のお話をしました。私たちは、今すでに、御父と御子イエス・キリストの交わり、永遠の命を持っています。死から命へと移っているのです。私たちは、御子から油を注がれて、聖霊と御言葉によって善の実を結ぶ者とされているのです。ですから、御子イエス・キリストが現れるとき、救われている確信を持ってイエス・キリストをお迎えすることができるのです。世を裁くために来られる方は、御自分の命を捨てられたほどに、私たちを愛してくださっている御方である。御自分の正しさと十字架の贖いを根拠として、執り成してくださる御方が来てくださる。そのとき、私たちが罪に定められることがないのは、当然ではないでしょうか。私たちは、主の日の礼拝ごとに、罪を告白し、父と子と聖霊の御名によって罪の赦しの宣言を受けています。そして、私たちは、御子イエス・キリストが現れる主の日に、罪の赦しの宣言を受け、正しい者として受け入れられるのです。そのとき、『ヨハネの黙示録』の第21章に記されている新しい天と新しい地の祝福にあずかる者となるのです。今朝は、そのところを読んで終わります。新約の477ページ。第21章1節から4節までをお読みします。

 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

 これこそ、御子イエス・キリストが来られるときに、私たちに与えられる完全な救い、完成された永遠の命であるのです。

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