神を知っている者の歩み 2022年10月02日(日曜 朝の礼拝)

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神を知っている者の歩み

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネの手紙一 2章3節~6節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:3 わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。
2:4 「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。
2:5 しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。
2:6 神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。ヨハネの手紙一 2章3節~6節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝も最初に、これまでの振り返りをしたいと思います。

 『ヨハネの手紙一』は、イエス・キリストの使徒ヨハネが紀元90年頃、エフェソで、小アジアの教会に宛てて記した手紙です。当時、小アジアの教会は、偽預言者たちによって惑わされていました。偽預言者たちは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしませんでした(4:2参照)。偽預言者たちは、イエス・キリストが人となって来られたことを否定していたのです。偽預言者たちは、イエス・キリストは人となられたように見えただけであり、純粋な霊であったと言っていたのです。また、偽預言者たちは、「自分には罪がない。自分は罪を犯したことがない」と言っていました。偽預言者たちは、神との交わりを霊的なこと、罪を肉的なことと考えていたようです。神との交わりを持っている霊の人は、もはや肉の罪とかかわりがないと彼らは言っていたのです。イエス・キリストが人となって来られたことを否定し、自分たちの罪を否定していた偽預言者たちは、イエス・キリストの十字架の贖いをも否定していました。そのような偽預言者たちの主張を念頭に置きながら、ヨハネは、「すべての人に罪があり、すべての人が罪を犯している」と、人間の良心と聖書の言葉に基づいて記しました。また、ヨハネは、私たちの罪が御子イエスの血によって清められると記しました。ヨハネが、これらのことを書いたのは、私たちが開き直って、罪を犯すためではありません。むしろ、ヨハネは、私たちが罪を犯さないために、これらのことを書いたのです。私たちの罪を赦すために、神の独り子であり、正しい人であるイエス・キリストが血を流してくださった。このことに私たちの心を向けるとき、私たちは罪を犯さないようにしようと決意することができるのです。しかし、それでも、私たちは罪を犯してしまいます。そのような私たちに、ヨハネは、御父のもとに、弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられると言うのです。御父のもとにおられるイエス・キリストは、私たちの罪、全世界の罪を償ういけにえとして、十字架のうえで御自分の命をささげてくださいました。神の独り子であり、正しい人であるイエス・キリストの命は、全世界の人間の罪を贖ってあまりある価値と力を持っているのです。それゆえ、私たちがイエス・キリストの御名によって、自分の罪を公に言い表すならば、神様は私たちのすべての罪を赦し、私たちをあらゆる不義から清めてくださるのです。

 ここまでは、前回までの振り返りです。今朝は、その続きの第2章3節から6節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 3節から6節までをお読みします。

 わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内に真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人のうちには神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。

 4節に、「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内に真理はありません」と記されています。これは、偽預言者たちのことを念頭において記しているようです。偽預言者たちは、「神を知っている」と言いながら、神の掟を守っていませんでした。この神の掟とは、「互いに愛し合う」という掟です(3:11,23参照)。『ヨハネによる福音書』の第13章34節で、イエス様は弟子たちにこう言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。このように、キリストの弟子である私たちは、「互いに愛し合う」ことをイエス様の掟、神の掟として与えられているのです(原語では「彼の掟」と記されている)。しかし、偽預言者たちは、神を知っていると言いながら、神の掟を守りませんでした。偽預言者たちは、互いに交わりを持とうとせず、互いに愛し合うことをしなかったのです(1:7、2:11参照)。そのような偽預言者たちのことを念頭に置きながら、ヨハネは3節で、こう記します。「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります」。偽預言者たちは、神の掟を守ることを抜きにして、「自分たちは神を知っている」と主張していました。しかし、ヨハネは、「神の掟を守ることによって、神を知っていることが分かる」と言うのです。どうも、偽預言者たちは、神を知ることを知識の問題として考えていたようですね。しかし、聖書において、神を知るとは神に従うことであり、神の掟を守ることを抜きにしては考えられないのです(ヤコブ2:17「信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」参照)。神は創造主であり、人間は被造物であります。ですから、人間は神に従う義務を負っているのです。人間は神の掟を守る義務を負っているのです。神様と人間の関係は、主人と僕の関係、主従(しゅじゅう)関係であるのです。神様と人間の主従関係が破綻したのがエデンの園におけるアダムの罪であったのです。しかし、神様はアブラハムを選び、その子孫であるイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から導き出して、ご自分こそ、生けるまことの唯一の神であることを示されました(「十戒」参照)。その神様が、御子イエス・キリストを遣わしてくださり、十字架の血によって私たちを罪の奴隷状態から贖い、私たちに聖霊を与えて、ご自分を示してくださったのです。私たちは、イエス・キリストにあって、すべての罪を赦されて、神様を「アッバ、父よ」と呼ぶことができる親しい交わり、永遠の命に生かされているのです。その私たちが、自分は神様を知っていると実感できるのは、どのようなときでしょうか。ヨハネは、「神の掟を守っているときである」と言うのです。神の掟を守ることによって、私たちは、神様を主と告白する神の僕であり、神様を父と告白する神の子であることを実感することができるのです。

 「神を知ること」と「神の掟を守ること」は一つのことである。このことは、イエス様が弟子たちに教えられたことでもあります。『ヨハネによる福音書』の第14章21節でイエス様は、こう言われました。新約の197ページです。

 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。

 イエス様は、「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である」と言われました。この「愛する」は「知る」とも言い換えることができます。聖書において、「知る」とは「交わりの中で人格的に知る」こと、もっと言えば「愛する」ということであるのです。

 また、第14章23節で、イエス様は、こう言われました。

 わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。

 イエス様の言葉を守ること、それがイエス様を愛していることのしるし(証拠)であるのです。そして、御子イエス様を愛する人を父なる神も愛してくださり、イエス様と父なる神様が、聖霊において、その人の内に住み込んでくださるのです(原文では「私たちはその人のところに行き、一緒に住む」と記されている)。イエス様を愛し、イエス様の言葉を守る人を、父なる神様は愛してくださいます。そして、イエス様と父なる神様は、聖霊において、その人の内に住み込んでくださるのです(一コリント6:19「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神の神殿であり」参照)。

 今朝の御言葉に戻りましょう。新約の441ページです。

 4節で、「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内に真理はありません」と、ヨハネが記すとき、「真理」とは神の霊、聖霊のことであります(ヨハネ14:17「この方は、真理の霊である」参照)。イエス様は、ご自分の言葉を守る人を父なる神様が愛してくださること。その人の内に、イエス様と父なる神様が聖霊において住み込んでくださると約束してくださいました(ヨハネ14:23参照)。偽預言者たちは、神の掟を守らないにもかかわらず、自分たちは神を知っている。神の霊を持っていると主張していました。しかし、ヨハネは、そのような者は偽り者であり、神の霊を持っていないと言うのです。それは、偽預言者たちが神の掟を守っていないからですね。イエス様の御言葉によれば、イエス様の掟を受け入れず、守らない偽預言者たちは、イエス様を愛さない者、イエス様を知らない者であるのです。それゆえ、偽預言者たちは、父なる神様をも知らない者であり、聖霊を持っていないのです(4:3参照)。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内に神の愛が実現しているのです。ヨハネは、偽預言者たちを反面教師にしながら、私たちに神の言葉を守るようにと記しているのです。「神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています」。この「神の愛」には、二通りの解釈があります。一つは、神様に対する私たちの愛です(主格的属格)。そして、もう一つは、私たちに対する神様の愛です(対格的属格)。私は、どちらの解釈も正しいのではないかと思います。イエス様が、「わたしを愛する者はわたしの掟を守る」と言われたように、イエス様への愛はイエス様の掟を守る最も大切な動機づけであるのです。旧約聖書において、神様がイスラエルの民に求められたのもこのことです。神様は、イスラエルの民が御自分を愛して、御自分の掟を守ることを求められたのです(申命10:12、13参照)。ですから、私たちが神の言葉を守るならば、私たちの内に神様に対する愛が実現していると言えるのです。また、この神の言葉がイエス様の掟、「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」という掟であることを心に留めるとき、その言葉を守る私たちの内に、私たちに対する神様の愛が実現していることも分かります。私たちは、自分の生まれながらの愛で、互いに愛し合うことを命じられているのではありません。「わたしがあなたがたを愛したように」とイエス様が言われたように、私たちはイエス様の愛をもって互いに愛し合うことが命じられているのです(ローマ5:5、ガラテヤ5:22参照)。聖霊を源とするイエスの愛で、私たちが互いに愛し合うとき、私たちのうちに、私たちに対する神様の愛が実現していると言えるのです(4:12参照)。聖霊を源とする神の愛によって、神の掟を守って生きるとき、私たちは、自分が神の内にいることが分かるのです。「神の内にいる」とは、聖霊における神様との交わりに生きることです(祈りの中に生きること)。偽預言者たちは、「自分は神の内にいつもいる」と主張していました。そのような偽預言者たちの主張を念頭に置きつつ、ヨハネはこう記すのです。「神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」。なぜ、神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように歩まなければならないのか。それはイエス様こそ、神様の内にいつもおられた御方であるからです。『ヨハネによる福音書』の第14章9節と10節をお読みします。新約の196ページです。

 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエス様はこう言われました。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」

イエス様は聖霊において御父の内におられ、御父は聖霊においてイエス様の内におられます(聖霊における相互内在。三位一体の父と子との交わりは、言が肉となってからも続いている)。イエス様こそ、神の内にいつもおられる御方であるのです。それゆえ、神の内にいつもいると言う人は、イエス様が歩まれたように、自らも歩まなくてはならないのです。イエス様こそ、神様を愛し、神様の掟を守り、神様との交わりの内に歩まれたお方であります。イエスが歩まれたように歩むとは、神様を愛し、神様の掟を守り、神様との交わりの内に生きることであるのです。

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