光の中を歩もう 2022年9月11日(日曜 朝の礼拝)

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光の中を歩もう

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネの手紙一 1章5節~7節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:5 わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。
1:6 わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。
1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。ヨハネの手紙一 1章5節~7節

原稿のアイコンメッセージ

 先週から、私たちは、『ヨハネの手紙一』を学び始めました。『ヨハネの手紙一』は、イエス・キリストの使徒ヨハネが、紀元90年頃、エフェソで、小アジアの教会に宛てて記した手紙であります。当時、小アジアの教会は、偽預言者たちに惑わされていました。第4章1節と2節に、こう記されています。

 愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊からどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。

 このように、偽預言者たちは、イエス・キリストが肉となって来られたことを否定していたのです。偽預言者たちは、イエス・キリストは人となられたように見えただけであり、純粋な霊であると教えていたのです。それで、ヨハネは、この手紙を、こう書き出しました。第1章1節と2節をお読みします。

 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言葉について。ーーこの命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。

 御父と共にあったが、私たちに現れた永遠の命とは、肉となった言(ロゴス)である、神の独り子イエス・キリストのことです(ヨハネ1章参照)。ヨハネは、イエス・キリストの口から語られた教えを聞き、イエス・キリストの姿を目で見て、イエス・キリストの力ある業に神の栄光を見て、そのお体に触れたのです。ヨハネが伝えるのは、まことの神であり、まことの人であるイエス・キリストの言葉、イエス・キリストの福音(良い知らせ)であるのです。そして、ヨハネが福音宣教の初めからあった、イエス・キリストの福音を伝えるのは、この手紙を読む私たちが、ヨハネたちとの交わりを持つためであるのです。また、ヨハネがこの手紙を書くのは、ヨハネたちの喜びが満ちあふれるためであるのです。3節と4節にこう記されています。

 わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。

 「交わり」と訳されるコイノニアは、共有すること、分かち合うことを意味します。キリスト教会の交わりは、御父と御子イエス・キリストとを共有することによって成り立っているのです。私たち教会の根源にある交わり、それは御父と御子イエス・キリストとの交わりであり、その交わりに、私たちは、イエス・キリストを信じ、洗礼を受けて、加えられたのです。御父と御子イエス・キリストとの交わり、ここに永遠の命があります。永遠の命の交わりを、多くの人と共有することが、御父と御子イエス・キリストの喜びであり、ヨハネたちの喜びであり、私たちの喜びであるのです。永遠の命の喜びは、他の人々と分かち合うことによって、満ち溢れる喜びであるのです。私たちは、喜びに満ち溢れながら、イエス・キリストの福音を宣べ伝える者とされているのです。

 ここまでは、前回の振り返りになります。今朝は、5節から7節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 5節から7節までをお読みします。

 わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇がまったくないということです。わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。

 「わたしたち」とは、使徒ヨハネとその教会(ヨハネの共同体)のことです。ヨハネは、イエス様から聞いた知らせとして、「神は光であり、神には闇がまったくない」と記します。前回も申しましたように、ヨハネは、この手紙を『ヨハネによる福音書』を前提にして記しています。この手紙の序文がヨハネ福音書の序文と似ていることは、そのことを示しています。ヨハネは、福音書を記した後で、この手紙を記したのです。この手紙の宛先である教会は、『ヨハネによる福音書』を知っていたのです。しかし、ヨハネ福音書を読んでも、「神は光であり、神には闇がまったくない」というイエス様の御言葉を見つけることはできません。おそらく、ヨハネは、「わたしは世の光である」というイエス様の御言葉と、「わたしを見た者は、父を見たのだ」というイエス様の御言葉を根拠にして、「神は光であり、神には闇がまったくないことを、イエス様から聞いた」と記したのだと思います(ヨハネ8:12、14:9)。イエス様は、神を示される神の独り子ですから、イエス様について言えることは、神様についても言えるわけです(ヨハネ1:18参照)。

 ヨハネが「神は光であり、神には闇がまったくない」と記すとき、光は、正しさの象徴であり、闇は罪の象徴であると言うことができます。神様は完全に正しいお方、何一つ罪のないお方であるのです。神様に不正や悪があることは決してありません。しかし、偽預言者たちは、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩んでいたのです。6節に、「わたしたちが神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません」と記されています。これは、偽預言者たちの主張を念頭において記されています。では、なぜ、ヨハネは、「彼らが」とは記さずに、「わたしたちが」と記したのでしょうか。それは、偽預言者たちが、ヨハネが牧会する教会、手紙の宛先である教会の中から出てきたからです。第2章18節と19節をお読みします。

 子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が分かります。彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。

 このように、偽預言者たちは、ヨハネが牧会する教会の中から出てきたのです。この点は『ガラテヤの信徒への手紙』とは違いますね。ガラテヤの諸教会を惑わせていた偽教師たちは、外から来た、エルサレムから来たユダヤ主義キリスト者たちでした。彼らは、イエス・キリストを信じるだけではなく、律法を守らなければ救われないと教えて、ガラテヤの諸教会を惑わせていたのです。しかし、『ヨハネの手紙』の偽預言者たちは、教会の仲間の中から出てきたのです。偽預言者たちも『ヨハネによる福音書』を知っていました。彼らは『ヨハネによる福音書』を曲解して、イエス・キリストが肉となって来られたことを否定していたのです。ある研究者の言葉を借りれば、偽預言者たちは、超ヨハネ主義者たちであったのです。

 偽預言者たちは、神との交わりを持っていると主張しながら、平然と罪を犯していました。それで、ヨハネは、6節でこう記すのです。「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それは嘘をついているのであり、真理を行ってはいません」。神は光であり、神には闇が全くない。ですから、神との交わりを持っているなら、もはや闇の中を歩むことはできません。もし、闇の中を歩みながら、平然と罪を犯しながら、自分は光である神との交わりを持っていると言うならば、その人は嘘つきであり、真理を行ってはいないのです。では、神との交わりを持つとは、まったく罪を犯さないということなのでしょうか。そうではありません。ヨハネは、7節でこう記します。「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」。神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいると、どうして言えるのか。それは、イエス・キリストを信じる私たちが互いに交わりを持っているからです。私たちは、「互いに愛し合いなさい」というイエス様の掟に従って、互いに交わりを持っている。そのことは、私たちが光の中を歩んでいることのしるしであるのです。互いに交わりを持つことは、難しいことです。なぜなら、私たちは愛の乏しい者であり、他人を傷つけてしまったり、他人に無関心になってしまうからです。しかし、光の中を歩む私たちは、互いに交わりを持つことができます。それは、御子イエスの血によって、私たちがあらゆる罪から清められるからです。『ヨハネによる福音書』で、洗礼者ヨハネは、イエス様のことを指さして、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いました(ヨハネ1:29)。そして、イエス様は、十字架のうえで、永遠の過ぎ越しを成し遂げる神の小羊としてほふられたのです。イエス・キリストが十字架で流された血潮によって、私たちのすべての罪は清められたのです。このことの背景には、旧約聖書に記されている動物犠牲があります。神様は『レビ記』に代表される儀式律法を与えることによって、イスラエルの罪を赦し、ご自分と共に生きることができるようにしてくださいました。そのことは、『出エジプト記』の終わりと『レビ記』の始まりを読めば、よく分かります。『出エジプト記』は、臨在の幕屋が完成し、その臨在の幕屋に主の栄光が満ちた場面で終わっています(実際に、イスラエルがシナイを出発するのは、民数記10章において)。そして、次の書物である『レビ記』を読むと、主は臨在の幕屋からモーセを呼んで、罪を贖うための動物犠牲の掟を与えられるのです(レビ1〜7章参照)。また、動物犠牲をささげる祭司を聖別し、任職させるのです(レビ8章参照)。このように、罪に汚れたイスラエルの民が、罪のない聖なる神様と共に歩むためには、祭司によって動物犠牲がささげられ、罪の赦しにあずかり続ける必要があったのです。祭司と動物犠牲、これはどちらも御子イエス・キリストを指し示しています。『ヘブライ人への手紙』はこのことを詳しく教えています。神の御子イエス・キリストは、メルキゼデクのような永遠の大祭司として、ご自身の命を、永遠の贖いとしてささげられたのです。『レビ記』の第17章11節に、こう記されています。「生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである」。神様は、私たちの罪を贖うために、御子イエスの血を与えてくださいました。また、御子イエスは、私たちの罪を贖うために、ご自身の血を流してくださいました。その御子イエスの血(命)によって、私たちのすべての罪が清められるのです。神様は、御子イエスの血のゆえに、私たちのすべての罪を赦し、御前に、正しいもの、清いものとして受け入れてくださるのです。ですから、私たちは、光であり、闇が全くない神様と交わりを持ち、光である神様と共に歩むことができるのです。御子イエスの血によって、あらゆる罪から清められるゆえに、私たちは罪赦された者として、互いの罪を赦し、交わりを持つことができるのです(マタイ6:14,15、18:21~34参照)。御子イエスの血による罪の赦しは、神様との交わりだけではなくて、私たちの互いの交わりの土台でもあるのです。私たちは、礼拝の最初の方で、声を合わせて罪を告白し、父と子と聖霊の御名によって、罪の赦しの宣言を受けます。御子イエスの血によってあらゆる罪から清められて、神様を礼拝するのです。そして、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められて、互いに交わりを持つのです。このことを忘れるとき、私たちは互いを愛し合うことができなくなります。互いを比較し合い、裁き合うようになるのです。偽預言者たちは、まさにそうだったのです。教会の交わりの中で、優劣を語り、いじめのようなことを行っていたのです。しかし、それで、神との交わりを持っていると言えますか?とヨハネは問うのです。闇の中を歩みながら、互いに愛し合うことなく、交わりを持たないで、神との交わりを持っていると言うならば、私たちは、嘘つきであり、真理を行っていないと、ヨハネは言うのです。これは、今朝、私たちにも語られている御言葉であるのです。

 「神は光であり、神には闇が全くない」と教えてくださったイエス様は、私たちの罪の贖いとして十字架の上で血を流し、私たちに「互いに愛し合いなさい」という掟を与えられました。そのイエス様のゆえに、「神は光であり、神には闇が全くない」ことが、私たちの喜びとなり、希望となったのです。もし、イエス様がいなければ、「神は光であり、神には闇が全くない」と言われても、そのような神様に近づくことはできません(イザヤ6:5「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た」参照)。しかし、イエス・キリストは、十字架の血によって、私たちをあらゆる罪からきよめ、神様と交わりを持つことができるようにしてくださったのです。イエス・キリストは、私たちを愛してくださり、私たちが互いに愛し合うことができるようにしてくださったのです(ヨハネ13:34「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」参照)。そのようにして、イエス・キリストは、私たちが光の中を歩むことができるようにしてくださったのです。

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