復活されたイエス 2022年8月28日(日曜 朝の礼拝)

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復活されたイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 16章1節~8節

聖句のアイコン聖書の言葉

16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
16:2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
16:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
16:4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。
16:5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。マルコによる福音書 16章1節~8節

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序.マルコ福音書の終わりについて

 私たちは、2019年9月1日から、『マルコによる福音書』を学び始めました。今朝は、その最後の学びとなります。私たちは、およそ3年間に渡って、『マルコによる福音書』から御言葉の恵みにあずかり続けてきたのです。

 今朝は、第16章1節から8節までを読んでいただきました。その後にも、9節から20節前半までが「結び 一」として、20節後半が「結び 二」として記されています。9節から20節までは、亀甲の括弧が付けられています。新共同訳聖書の凡例を見ると、亀甲の括弧は、「後代の加筆と見られているが年代的に古く重要である個所を示す」と記されています。つまり、9節から20節までは、福音書記者マルコが記したものではなくて、後の世代の人が書き加えた文書であるのです。1節から8節までを読むと、復活されたイエス様が弟子たちに現れたことは記されていません。それで、後代の人が、他の福音書を参考にして、結びを書いたのです。『マルコによる福音書』の終わり方については、学者の中でも議論があります。マルコは、続きを書こうとしていたが事情があって書くことができなかったとか、書いたけれども失われたとか推測する人もいます。しかし、わたしは、マルコは、8節でこの福音書を書き終えたと理解して、お話ししたいと思います。

1.復活されたイエス

 イエス様が十字架につけられたのは、安息日の準備の日、金曜日でありました。イエス様は、身分の高い議員であるアリマタヤのヨセフの手によって、墓に葬られました。第15章46節にこう記されていました。「ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた」。イエス様は、金曜日の夕方に墓に葬られました。そして、安息日が始まったのです。ユダヤでは、日没から1日が始まります。金曜日の日没から土曜日の日没までは、働くことを禁じられていた安息日であったのです。その安息日が終わると、つまり、土曜日の夜に、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエス様に油を塗りに行くために香料を買いました。この婦人たちは、ガリラヤからイエス様に従い、仕えてきた者たちでした。また、イエス様の十字架の死と葬りの目撃者たちでありました(15:40、47参照)。彼女たちは、イエス様の御遺体を自分たちの手で葬りたいと願ったのです。イエス様の御体が良い香りを放つようにと、彼女たちは香料を買ったのです。そして、週の初めの日の朝早く、日が出るとすぐ墓に行ったのです。週の初めの日とは、日曜日のことです。婦人たちは、日曜日の朝早く、イエス様の墓へ向かったのです。彼女たちは、道すがら、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていました。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあったのです。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚きました。この「白い長い衣を着た若者」は、神様の御使い、天使であります(マタイ28:5参照)。婦人たちは、墓の中に、白い長い衣を着た若者、天使が座っていたので、ひどく驚いたのです。その婦人たちに、若者はこう言いました。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」。婦人たちは、墓の中に十字架につけられて死んだイエス様が亜麻布に包まれて横たわっていると思っていました。そのイエス様の御体に、香油を塗ろうとして墓にやって来たのです。しかし、天使は、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と言うのです。「復活なさって」と訳されている言葉(エーゲルテー)は、原文では受動態で記されています。「あの方は復活させられて」と記されているのです(岩波訳「彼は起こされた」参照)。これは、神様によって復活させられたという意味です(神的受動態)。天使は、十字架につけられて死んだナザレのイエスを、神様が復活させられたと言うのです。そして、その証拠として、「御覧なさい。お納めした場所である」と言うのです。お納めした場所に、イエス様はおられない。それは、イエス様が神様によって復活させられたからであるのです。

2.十字架の死と復活が示すこと

 神様は、十字架につけられたイエス様を、復活させました。このことは、神様がイエス様を一度はお見捨てになったが、再び深い憐れみをもって引き寄せてくださったことを示しています。イエス様の十字架の死と復活の出来事を正しく理解するための手引きとなるのは、イスラエルがバビロン帝国によって滅ぼされ、バビロンの地に連れて行かれ、再びカナンの地へ戻り、国家としての再建を果たした歴史的な出来事であります。旧約聖書に『哀歌』という書物があります。『哀歌』は、バビロン帝国によって滅ぼされたイスラエルの嘆きの歌です。その最後のところを開いて、読みたいと思います。旧約の1294ページです。第5章1節から22節までをお読みします。

 主よ/わたしたちにふりかかったことに心を留め/わたしたちの受けた嘲りに目を留めてください。わたしたちの嗣業は他国の民のものとなり/家は異邦の民のものとなった。父はなく、わたしたちは孤児となり/母はやもめとなった。自分の水すら、金を払って飲み/自分の木からすら、価を払って取り入れる。首には軛を負わされて追い立てられ/疲れても、憩いはない。わたしたちはエジプトに手を出し/パンに飽こうとアッシリアに向かった。父祖は罪を犯したが、今は亡く/その咎をわたしたちが負わされている。奴隷であった者らがわたしたちを支配し/その手からわたしたちを奪い返す者はない。パンを取って来るには命をかけねばならない。荒れ野には剣が待っている。飢えは熱病をもたらし/皮膚は炉のように焼けただれている。人妻はシオンで犯され/おとめはユダの町々で犯されている。君候は敵の手で吊り刑にされ/長老も敬われない。若者は挽き臼を負わされ/子供は薪を負わされてよろめく。長老は町の者の集いから姿を消し/若者の音楽は絶えた。わたしたちの心は楽しむことを忘れ/踊りは喪の嘆きに代わった。冠は頭から落ちた。いかに災いなことか。わたしたちは罪を犯したのだ。それゆえ、心は病み/この有様に目はかすんでゆく。シオンの山は荒れ果て、狐がそこを行く。主よ、あなたはとこしえにいまし/代々に続く御座にいます方。なぜ、いつまでも私たちを忘れ/果てしなく見捨てておられるのですか。主よ、御もとに立ち帰らせてください/わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして/昔のようにしてください。あなたは激しく憤り/わたしたちをまったく見捨てられました。

 「あなたは激しく憤り、わたしたちをまったく見捨てられました」。このような死を、イエス様は十字架のうえで死んでくださったのです。イエス様の十字架の死は、バビロン帝国によってイスラエルが滅ぼされるに等しい、神様から見捨てられた出来事であったのです。しかし、神様は、そのイスラエルを深く憐れみ、再び御もとに引き寄せてくださいます。その神様の御心が、『イザヤ書』の第54章に記されています。旧約の1150ページです。第54章1節から8節までをお読みします。

 喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え/産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは夫ある女の子供らよりも数多くなると主は言われる。あなたの天幕に場所を広く取り/あなたの住まいの幕を広げ/惜しまず綱を伸ばし、杭を堅く打て。あなたは右に左に増え広がり/あなたの子孫は諸国の民の土地を継ぎ/荒れ果てた町々には再び人が住む。恐れるな、もはや恥を受けることはないから。うろたえるな、もはや辱められることはないから。若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな。あなたの造り主があなたの夫となられる。その御名は万軍の主。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神/全地の神と呼ばれる方。捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように/主はあなたを呼ばれる。若いときの妻を見放せようかと/あなたの神は言われる。わずかの間、わたしはあなたを捨てたが/深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが/とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむとあなたを贖う主は言われる。

 特に、注目したいのは7節です。「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが/深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる」。これは、文脈としてはバビロン捕囚の出来事と約束の地カナンへの帰還のことを意味しています。しかし、そこに留まらず、イエス・キリストが十字架につけられて神様から見捨てられて死んだこと、そのイエス様を神様が復活させたことを意味しているのです。イスラエルを捨て、深い憐れみをもって引き寄せられた神様は、イスラエルの王であるイエス様を捨て、深い憐れみをもって引き寄せられたのです。神様は、憐れみ深い父なる神様として、すべての人の罪を担って、呪いの死を死んでくださったイエス・キリストを復活させ、栄光をお与えになったのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の97ページです。

 十字架につけられたナザレのイエスを、神様が復活させたことは、最高法院でのイエス様の証言が正しかったことを示しています。大祭司は、イエス様にこう尋ねました。「お前はほむべき方の子、メシアなのか」。それに対して、イエス様はこうお答えになりました。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」。最高法院の議員たちは、この言葉によって、イエス様を、神を冒涜する者として死に定めました。しかし、神様は、イエス様を死から復活させられることにより、イエス様の証言が正しい、真実な証言であったことを示されたのです。

 ここには、イエス様がどのような体で復活されたのかは記されていません。しかし、使徒パウロが記した『コリントの信徒への手紙一』の第15章を読みますと、イエス様は、朽ちることのない、栄光の体で復活させられたことが分かります。しかも、イエス様は、御自分を信じる者たちの初穂、最初の実り、保証として復活させられたのです。イエス・キリストを信じる私たちも、イエス・キリストと同じように、朽ちることのない、栄光の体で復活させられるのです。それゆえ、イエス・キリストの復活は、私たちの喜びであり、私たちの希望であるのです。

3.ガリラヤで待っておられる主イエス

 天使は続けてこう言います。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」。弟子たちは、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。また、ペトロは、イエス様との関係を三度否定してしまいました。その弟子たちとペトロに、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と告げなさいと天使は言うのです。これは、第14章28節のイエス様の御言葉であります。イエス様は、主の晩餐を終えて、ゲツセマネに向かう途上において、弟子たちにこう言われました。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。この御言葉のとおり、復活されたイエス様は、弟子たちより先にガリラヤに行かれる。そのガリラヤで、弟子たちはイエス様に再びお会いすることができるのです。このことは、イエス様と弟子たちとの関係が続いていることを教えています。弟子たちがイエス様を見捨てたときも、ペトロが三度イエス様のことを知らないと言ったときも、イエス様が弟子たちをお見捨てになったことはないのです。たとえ私たちがイエス様を見捨てるようなことがあっても、イエス様が私たちを見捨てるようなことはないのです。

結.恐れが喜びに変わるのは

 婦人たちは、天使の言葉を聞いてどうしたでしょうか。喜んで、すぐに弟子たちのもとへ向かったでしょうか。そうではありません。8節にこう記されています。「婦人たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。これが『マルコによる福音書』の終わりの言葉です。イエス・キリストの復活は、婦人たちを震え上がらせ、正気を失わせてしまうほどの神の御業であるのです。誰にも何も言えないほどの恐れに取りつかれてしまう、信じがたい神の御業であるのです。もちろん、この後、婦人たちは、天使に言われたとおり、弟子たちのもとへ向かったことでしょう。「結び 二」には、そのようなことが記されています。しかし、福音書記者マルコは、そのことを記しませんでした。それは、イエス・キリストの復活という出来事が、震え上がり、正気を失わせてしまうほどの出来事であることを示すためです。私たちは、昔の人は、素朴ですぐに喜んで信じたのではないかと思うかも知れません。しかし、そうではないのです。婦人たちは誰にも何も言えないほどに恐れたのです。その恐れが、喜びに変わるのは、「結び 一」に記されているように、復活されたイエス様と出会うことによってであります。しかし、福音書記者マルコは、復活されたイエス様と弟子たちとの出会いを記しませんでした。それは、『マルコによる福音書』の最初の読者たちが、復活されたイエス・キリストと顔と顔とを合わせて、お会いすることがもはやできなかったからだと思います。私たちもそうですね。私たちは誰もイエス様を肉の目で見たことはありません。ペトロたちのように、イエス様にお会いしたわけではないのです。しかし、その私たちが「イエス・キリストは復活された」と信じているのは、復活されたイエス・キリストと、御言葉と聖霊によって、人格的にお会いしているからなのです。『マルコによる福音書』の最初の読者たちも同じです。彼らも復活されたイエス・キリストと、聖霊と御言葉によって、人格的にお会いしていたのです。それゆえ、福音書記者マルコは、復活されたイエス・キリストと弟子たちとの再会の場面を記すことなく、この福音書を閉じたのです。

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