沈黙するイエス 2022年7月31日(日曜 朝の礼拝)

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沈黙するイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 15章1節~20節

聖句のアイコン聖書の言葉

15:1 夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。
15:2 ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。
15:3 そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。
15:4 ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」
15:5 しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。
15:6 ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。
15:7 さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。
15:8 群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。
15:9 そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。
15:10 祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
15:11 祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。
15:12 そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。
15:13 群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」
15:14 ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。
15:15 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
15:16 兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。
15:17 そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、
15:18 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。
15:19 また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。
15:20 このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。マルコによる福音書 15章1節~20節

原稿のアイコンメッセージ

 過越の食事を終えた夜、イエス様は、ゲツセマネにおいて捕らえられました。そして、大祭司の屋敷に連れて行かれ、最高法院による裁判をお受けになりました。その裁判の席で、大祭司は、イエス様にこう尋ねました。「お前はほむべき方の子、メシアなのか」。それに対してイエス様は、こうお答えになりました。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」。このイエス様の御言葉を聞いて、大祭司は衣を引き裂きながら、こう言いました。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか」。すると、一同は、死刑にすべきだと決議しました。最高法院の議員たちは、イエス様を、自分を神の子、メシアと主張する神を冒涜する者として、死刑にすることを決議したのです。この最高法院での裁判は、夜に行われた裁判でありました。今朝の御言葉には、その夜が明けた朝の出来事が記されています。

 夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエス様を縛って引いて行き、ピラトに渡しました。最高法院の議員たちは、イエス様をローマの総督ポンテオ・ピラトの手によって処刑することにしたのです。当時、ユダヤは、ローマ皇帝直轄の属州であり、総督であるポンテオ・ピラトによって治められていました。総督であるピラトは、いつもはカイサリアにいるのですが、祭りの期間は、治安維持のために、エルサレムに滞在していました。そのピラトに、最高法院の議員たちは、イエス様を引き渡したのです。このことは、イエス様が、弟子たちに予告しておられたことでした。第10章32節から34節までをお読みします。新約の82ページです。

 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。

ここでイエス様は、「祭司長たちは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す」と言われました。異邦人とは、神の民であるユダヤ人以外の民族のことです。この御言葉のとおり、最高法院は、イエス様に死刑を宣告して、異邦人であるローマの総督ポンテオ・ピラトの手に引き渡したのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の94ページです。

 ピラトは、イエス様に、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問しました。祭司長たちは、ピラトに、イエス様のことを「この男はユダヤ人の王と自称している」と訴えたのでしょう。「お前はユダヤ人の王なのか」。この問いは、極めて政治的な問いです。ユダヤ人の王と自称することは、ローマ皇帝に逆らうことを意味していました。そのような政治的な意味で、ピラトは、イエス様に、「お前はユダヤ人の王なのか」と尋問したのです。それに対して、イエス様は、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになりました。この言い方は、答えることを拒否する言い方です。あるいは、否定の答えを暗示する言い方です。ユダヤの最高法院において、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と大祭司から問われたとき、イエス様は「そうです」「わたしである」(エゴ・エイミー)と答えられました。しかし、ピラトの問いに対しては、イエス様は答えられない、あるいは否定の答えを暗示されるのです。それは、イエス様が、ピラトが考えているような、ローマ皇帝に逆らう政治的なメシアではないからです(12:35~37参照)。そこで祭司長たちは、いろいろとイエス様を訴えました。祭司長たちは、ローマの法廷においても、イエス様を有罪とするために、いろいろと訴えたのです(ルカ23:2「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」参照)。それで、ピラトは、イエス様に再び尋問しました。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに」。しかし、イエス様はもはや何もお答えになりませんでした。ピラトが不思議に思ったほど、イエス様は何もお答えにならなかったのです。訴えられた人は、一生懸命に自己弁護するのが普通です。しかし、イエス様は、何もお答えにならなかったのです。それで、ピラトは驚いたのです(新改訳2017参照)。イエス様は、今、自分に起こっていることが父なる神の御計画の実現であることを知っていました。それゆえ、イエス様は何も言われなかったのです(イザヤ53:7参照)。

 ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していました。これは、国のお祝いごとの際に行われる「恩赦」と呼ばれるものです。ちなみに「恩赦」とは、「行政権によって犯罪者に対して刑罰権の全部または一部を消滅させる処分」のことです(広辞苑)。さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいました。バラバとは、「父の子」(バル・アッバ)という意味です。このバラバこそ、ローマ皇帝に逆らう反逆者でありました。バラバは、暴徒たちのリーダーだったのでしょう。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めました。そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言いました。このようにピラトが言ったのは、祭司長たちがイエス様を引き渡したのはねたみのためだと分かっていたからです。イエス様を殺そうとしているのは、指導者である祭司長たちだけであって、群衆はそのようなことを望んでいないとピラトは考えたのです。しかし、祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動しました。かつてイエス様の教えに喜んで耳を傾けていた群衆が、祭司長たちに扇動されて、イエス様ではなくバラバを釈放してほしいと言うのです。そこで、ピラトは改めてこう言いました。「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」。このピラトの発言は、耳を疑うような発言ですね。裁判官であるピラトは、イエス様に対する判断を群衆に委ねてしまうのです。群衆は「十字架につけろ」と叫びました。十字架につけることは、ローマの極刑で、奴隷と属州の反逆者に対して行われた、最も残酷で、屈辱的な処刑方法でした。特に、ユダヤ人たちは、神に呪われた者としての死として、忌み嫌っていました。『申命記』の第21章23節に、「木にかけられた者は、神に呪われたものだからである」とあります。この御言葉に基づいて、十字架につけられて殺されることは、神に呪われて死ぬことであると考えられていたのです。群衆は、こともあろうに、自分たちの王を、「十字架につけろ」と叫んだのです。もちろん、群衆がこのように叫んだのは、イエス様のことを、自分たちの王として認めていないからです。群衆は、ピラトに、「十字架につけろ」と要求することにより、イエス様を自分たちの王として認めないことを明らかにしたのです。そして、この群衆の姿こそ、イエス・キリストを信じる前の、かつての私たちの姿であるのです。

 ピラトはこう言いました。「いったいどんな悪事を働いたというのか」。ピラトは、悪事を働いていないイエス様を十字架につけることに躊躇するのです。しかし、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫びました。ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放しました。そして、イエス様を鞭打ってから、十字架につけるために引き渡したのです。小見出しに「死刑の判決を受ける」とありますが、ここで、ピラトはまともな裁判をしていません。イエス様を十字架につけるように求めたのは群衆であり、その刑罰に相当する悪事も示されていません。ピラトは群衆を満足させようとして、群衆が求めたとおり、バラバを釈放し、イエス様を十字架につけるために引き渡すのです。なぜ、イエス様は十字架につけられるのか。そのことを、身をもって知った人物が一人います。それがバラバですね。バラバは、暴動のとき人殺しをして投獄された暴徒たちの一人でした。バラバは、ローマ皇帝に反逆した罪で、十字架につけられて死ぬはずでした。しかし、そのバラバの身代わりに、イエス様が十字架につけられることになるのです。そして、同じことが、イエス・キリストの民である私たち一人一人にも言えるのです。群衆は、イエス様のことをユダヤ人の王ではないと判断したからこそ、「十字架につけろ」と叫びました。しかし、実際はそうではありません。ユダヤ人の王であるイエス様は、十字架のうえで、律法の呪いの死を死なれることによって、御自分の民の救いを成し遂げられるのです。「バラバ」とは、父の子、「バル・アッバ」であると申しました。ピラトの尋問に何も答えられず、鞭打たれ、十字架の死に引き渡されるイエス様こそが、神様を「アッバ、父よ」と呼び、御心を行われるバル・アッバ、父なる神の御子であるのです。

 兵士たちは、総督官邸の中に、イエス様を引いて行き、部隊の全員を呼び集めました。そして、イエス様に紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼をしました。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾をはきかけ、ひざまずいて拝んだりしました。このように、兵士たちはイエス様を侮辱したのです。第14章65節に、最高法院のある者たちが、イエス様に唾をはきかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」(直訳は「預言してみろ」)と言ったことが記されていました。また、大祭司の下役たちが、イエス様を平手で打ったことが記されていました。イエス様は、ユダヤ人からも、異邦人からも、侮られ、辱められたのです(ユダヤ人はイエス様を宗教的なメシアとして、異邦人は政治的なメシアとして嘲る)。そして、このときも、イエス様は何も言われませんでした。イエス様は、沈黙しておられたのです。沈黙するとは、「だまって、口をきかない」ことであって、何も考えていないことではありません。むしろ、沈黙しているときにこそ、私たちは、いろいろなことを考えるものです。このとき、イエス様は、何を考えておられたのでしょうか。おそらく、イエス様は、『イザヤ書』の第50章に記されている「主の僕の忍耐」についての御言葉を思い起こしておられたと思います。今朝は、最後に、そのところを読んで終わりたいと思います。旧約の1145ページです。『イザヤ書』の第50章4節から9節までをお読みします。

 主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか/われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか/わたしに向かって来るがよい。見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めよう。見よ、彼らはすべて衣のように朽ち/しみに食い尽くされるであろう。

 イエス様は、この『イザヤ書』の御言葉を思い起こしながら、鞭を打たれ、嘲りと唾をお受けになったのです。御自分の正しさを認めてくださる父なる神様が近くにおられることを信じるがゆえに、イエス様は、祭司長たちから訴えられても何もお答えにならなかったのです(ヨハネ16:32「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」参照)。イエス・キリストの沈黙は、父なる神様への揺るぎない信頼に基づくものであったのです。「わたしの正しさを認めてくださる父なる神が共にいてくださる」。それゆえ、イエス様は、誰からも辱められることなく、誰からも罪に定められることはないのです。

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