泣き出したペトロ 2022年7月24日(日曜 朝の礼拝)

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泣き出したペトロ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 14章66節~72節

聖句のアイコン聖書の言葉

14:66 ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、
14:67 ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」
14:68 しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。
14:69 女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。
14:70 ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」
14:71 すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。
14:72 するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。マルコによる福音書 14章66節~72節

原稿のアイコンメッセージ

 先週、私たちは、イエス様が最高法院で裁きを受けられたことを御一緒に学びました。大祭司の質問、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」という質問に対して、イエス様は、こうお答えになりました。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれてくるのを見る」。このイエス様の自己証言によって、イエス様は神を冒涜する者として、死刑の判決を受けるのです。イエス様は、御自分を否むことのできない真実な御方として、大祭司と最高法院の議員たちの前で、立派な証しをなされたのです。今朝の御言葉には、イエス様の弟子であるペトロのことが記されています。

 先週お読みした53節と54節に、こう記されていました。「人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた」。イエス様が捕らえられた時、弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。ペトロも逃げてしまいました。しかし、ペトロは遠く離れてイエス様に従いました。ペトロは、遠く離れてはいますが、イエス様に従う弟子であったのです。ペトロは、イエス様が連れて行かれた大祭司の屋敷の中庭まで入って、大祭司の下役たちと一緒に座り、火にあたっていました。過越の祭りの夜ですから寒かったのでしょう。ペトロは火にあたって暖まっていたのです。ペトロは、大祭司の屋敷に連れて行かれたイエス様が、どうなってしまうのか、心配であったと思います。

 イエス様が、最高法院の議員たちを前にして、立派な証しをされたことは、先週学んだことでありますが、それと並行して、中庭にいるペトロのことが記されています。文書としては、イエス様の裁判の後で、ペトロのことが記されておりますが、出来事としては、同じ時に起こった出来事であるのです。66節に、「ペトロが下の中庭にいたとき」とありますが、上の屋敷の中で、イエス様が裁きをお受けになっている間の出来事が記されているのです。

 ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中(召し使いの女)の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて、こう言いました。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」。ペトロは、暖まるために火にあたっていましたが、その火はペトロの顔を照らしておりました。その火によって照らし出されたペトロの顔をじっと見て、大祭司に仕える女中が、「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と言ったのです。ペトロは、何と答えたでしょうか。「そうです。わたしは、ナザレのイエスの弟子です」と答えたでしょうか。そうではありませんでした。ペトロは、自分がナザレのイエスと一緒にいたことを否定して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言ったのです。そして、ペトロは出口の方へ出ていきました。ペトロは中庭から前庭へと移動したのです。すると、その時、鶏が鳴きました。ペトロは、自分の姿を照らし出す火と女中から離れたのです。しかし、女中はペトロを見て、今度は周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」と言い出しました。ペトロは再び打ち消しました。「自分は、あの人たちの仲間ではない」と言ったのです。しばらくして、今度は居合わせた人々がペトロに、こう言いました。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」。67節に、「ナザレのイエス」とありましたが、これは「ガリラヤ地方のナザレの町の出身のイエス」という意味です。女中も下役の人々も、イエス様がガリラヤの出身であることを知っていました。そして、人々は、ペトロもガリラヤの者だから、イエスの仲間に違いないと言うのです。なぜ、人々はペトロがガリラヤの者であることが分かったのでしょうか。『マタイによる福音書』の並行箇所を見ると、「言葉遣いでそれが分かる」と記されています(マタイ26:73)。ガリラヤ地方の特有の方言やイントネーション(抑揚)によって、人々はペトロがガリラヤ出身であることを見抜いたのです。すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めたのです。「呪いの言葉を口にして誓う」とは、「自分が真実を語っていないならば、呪われてもよい」と言って誓ったということです。そのような呪いの言葉を口にして、ペトロは「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めたのです。このようにして、ペトロは、イエス様との関係を完全に否定したのです。また、ペトロは、弟子である自分自身を否定したのです。自己に真実なイエス様とは違って、ペトロは自分自身を偽ってしまうのです。

 するとすぐ、鶏が再び鳴きました。その鶏の鳴き声を聞いて、ペトロは、イエス様の御言葉、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」という御言葉を思い出したのです。そして、ペトロはいきなり泣き出したのです。

 「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。このイエス様の御言葉は、第14章30節に記されていました。ここでは、27節から31節までをお読みします。新約の92ページです。

 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。

 ペトロが、30節のイエス様の御言葉、「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」という御言葉を思い出したとき、ペトロは、自分が語った言葉をも思い出したと思います。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。この自分が語った言葉をも思い出したはずです。ペトロは、本心からそのように思っていたに違いありません。しかし、実際には、イエス様が言われていた通りのことが起こったのです。ペトロは、呪いの言葉さえ口にして、イエス様との関係を完全に否定してしまったのです。

今朝の御言葉に戻ります。新約の94ページです。

 今朝の御言葉を読んで、率直に思うことは、「なぜ、ペトロは、イエス様との関係を否定してしまったのか」ということです。ペトロは12人の弟子であり、その筆頭でありました(3:16参照)。ペトロは、弟子たちを代表して、イエス様に「あなたは、メシアです」と告白しました(マルコ8:29)。先程、お読みしたように、ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言っていたのです。そのペトロが、女中の一言に動揺し、イエス様と一緒にいたことを否定してしまったのはなぜか。なぜ、ペトロは、呪いの言葉さえ口にして、イエス様との関係を完全に否定してしまったのでしょうか。

 その理由の一つは、ペトロがその場の雰囲気に飲み込まれたということです。ペトロは、大祭司の屋敷の中庭でイエス様を捕らえた下役たちと一緒に座って、火にあたっていました。ペトロの周りには、イエス様を信じる者はだれもいません。女中は「ナザレのイエス」と言いましたが、「ナザレのイエス」には、何の信仰告白も含まれていません。人々は「あの連中の仲間だ」と言ったように、イエスの弟子たちに何の好意をも持っていません。そのような女中や人々と対話する中で、ペトロは「そんな人は知らない」と、イエス様を「そんな人」呼ばわりするのです。このことを、私たち自身に引き寄せて考えてみたいと思います。私たちは、イエス・キリストを神の御子、罪人の救い主と信じています。そのことを、教会の交わりにおいて語ることは難しいことではありません。むしろ、私たちの喜びとするところです。しかし、この世の集まりにおいて、イエス・キリストを信じる人が一人もいない集まりにおいて、語ることは、難しいことです。イエス様に対して悪意を持っている人たちに、「わたしはイエス・キリストを信じています」と語ることは勇気がいることです。しかも、そのことによって、自分の身に損失や危険を招くならばどうであろうか。私たちも、ペトロのように、イエス様との関係を否定してしまうのではないか。そのように思わされるのです。

 ペトロが、イエス様との関係を否定した決定的な理由は、イエス様が祭司長たちによって捕らえられたことです。そして、イエスの仲間であることが分かれば、自分も捕らえられる恐れがあったということです。51節に、イエス様を捕らえた人々が、イエス様の弟子をも捕らえようとしたことが記されていました。一人の若者が、亜麻布を捨てて裸で逃げたことが記されていました。人々は、イエス様だけではなくて、その弟子たちをも捕らえようとしたのです。そのような危険があること承知のうえで、ペトロは、遠く離れてではありますが、イエス様に従って、大祭司の屋敷の中庭まで入って来たのです。そして、下役たちの一人に紛れて、ことの成り行きを見守っていたのです。そう考えると、ペトロがイエス様との関係を否定したとき、それほど深く考えていなかったかも知れません。ペトロは、イエス様のように裁判を受けているわけではありません。女中に、「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と言われただけです。ペトロは、それを否定して、しらばっくれて、終わると思っていたのでしょう。しかし、それでは終わらず、女中は、まわりの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」と告げ口するのです。さらには、人々から、「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」と証拠を突きつけられる。ここで、ペトロを捕らえていたのは恐れです。それも、死の恐れです。イエス様の仲間であることが分かれば、自分も捕らえられるかも知れない。自分も殺されてしまうかも知れない。その死の恐れから、ペトロは、呪いの言葉さえ口にして、「そんな人のことは知らない」と誓ったのです。

 この後、ペトロは鶏の鳴き声を聞いて、イエス様から言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出しました。しかし、もし、イエス様から「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と前もって言われていなかったら、ペトロはいきなり泣き出さなかったと思います。ペトロは、人々に自分がイエスの弟子であることを隠し通すことができたと安心したのではないでしょうか。しかし、実際、イエス様から、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われていましたので、ペトロは、いきなり泣き出したのです。イエス様は、夜が明ける前に、ペトロが御自分との関係を三度否定することをご存知であられた。そのことをご存知で、イエス様は、ゲツセマネにおいて、ペトロに、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と言われたのです。イエス様は、ペトロの弱さをよくご存知のうえで、弟子として導いてくださった。そのことに気づいたからこそ、ペトロはいきなり泣き出したのです。自分の不甲斐なさ、その不甲斐ない自分を受けいれてくださるイエス様の愛を思って、ペトロは泣いたのです。

 ペトロと言えば、後にエルサレム教会の柱と目された人物です(ガラテヤ2:9参照)。そのペトロが、イエス様が捕らえられた夜、イエス様との関係を三度否定したことは、衝撃的なことです。「ペトロ先生は、イエス様との関係を三度も否定したんですね」と言われたら、「そうです」と答えざるを得ない。ペトロにとって、人生の汚点とも言える出来事が、四つの福音書、すべてに記されています。それは、なぜなのでしょうか。それは、すべての人間が自分の力でイエス様に従うことができないことを教えるためです。また、神様の御心を行われるのは、イエス・キリスト、ただお一人であることを教えるためです。私たち人間は、死の恐れに捕らえられている。死の奴隷であるのです。しかし、その死の支配から自由なお方がおられる。死の支配ではなくて、命の支配に生きておられる御方がおられる。命である神の支配に徹底的に従われるお方がおられる。それが、私たちの主イエス・キリストであります。ペトロが死の支配から自由になるのは、十字架の死から復活された主イエス・キリストに出会い、その聖霊を注がれた後のことです。『マルコによる福音書』は、この後、ペトロがどうなったのかを記していません。ペトロはいきなり泣き出した後、この福音書から姿を消してしまいます。しかし、『使徒言行録』を読みますと、最高法院の議員たちを前にして、イエス・キリストの福音を大胆に語るペトロの姿が記されています(使徒4章参照)。ペトロは、死を恐れることなく、復活の命の主であるイエス・キリストを宣べ伝えるのです。ペトロのつまずきを預言されたイエス・キリストは、「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と言われました。そのガリラヤで、復活されたイエス・キリストは、ペトロに、「わたしの羊の世話をしなさい」と三度、お命じになるのです。(ヨハネ21章参照)。そのようにして、イエス・キリストは、ペトロを立ち上がらせ、御自分の教会の礎の岩としてくださったのです(マタイ16:18参照)。

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