イエスを引き渡す者 2022年6月12日(日曜 朝の礼拝)

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イエスを引き渡す者

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 14章12節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

14:12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
14:13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。
14:14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
14:15 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
14:16 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
14:17 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
14:18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
14:19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
14:20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。
14:21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」マルコによる福音書 14章12節~21節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 今朝は、『マルコによる福音書』の第14章12節から21節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1.除酵祭と過越祭について

12節に、「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」と記されています。除酵祭も過越祭も、その昔、主なる神が、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から導き出されたことを祝う祭りであります。少し長いですが、『申命記』の第16章1節から8節までをお読みします。旧約の306ページです。

 アビブの月を守り、あなたの神、主の過越祭を祝いなさい。アビブの月のある夜、あなたの神、主があなたをエジプトから導き出されたからである。あなたは、主がその名を置くために選ばれる場所で、羊あるいは牛を過越のいけにえとしてあなたの神、主に屠りなさい。その際、酵母入りのパンを食べてはならない。七日間、酵母を入れない苦しみのパンを食べなさい。あなたはエジプトの国から急いで出たからである。こうして、あなたはエジプトの国から出た日を生涯思い起こさねばならない。七日間、国中どこにも酵母があってはならない。祭りの初日の夕方屠った肉を、翌朝まで残してはならない。過越のいけにえを屠ることができるのは、あなたの神、主が与えられる町のうちのどこででもよいのではなく、ただ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所でなければならない。夕方、太陽の沈むころ、あなたがエジプトを出た時刻に過越のいけにえを屠りなさい。それをあなたの神、主が選ばれる場所で煮て食べ、翌朝自分の天幕に帰りなさい。六日間酵母を入れないパンを食べ、七日目にはあなたの神、主のために聖なる集まりを行い、いかなる仕事もしてはならない。

 この主の掟に従って、イスラエルの人々は、主がその名を置くために選ばれた場所、エルサレムで、過越の祭りを祝っていたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の91ページです。

2.過越の食事の用意

イエス様の時代、過越の小羊は、夕方に、エルサレム神殿で、祭司たちによって屠られました。また、過越の食事もエルサレムで食べることになっていました。それで、エルサレムの住民は、地方から訪れた巡礼者のために場所を提供することが聖なる義務とされていました。そのことを前提にして、弟子たちはイエス様に、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と尋ねたのです。そこで、イエス様は、次のように言われ、二人の弟子を使いに出されます。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい」。ここでイエス様は二人の弟子に「都へ行きなさい」と言われています。ですから、このとき、イエス様は、ベタニアにいたようです。イエス様は、祭司長たちが、御自分を殺そうとしていることをご存知であったので、ベタニアにいたのです。しかし、過越の食事は、神様がその御名を置かれた場所、エルサレムで食べなくてはなりませんでした。そこで、二人の弟子を都エルサレムへと遣わすのです。当時、水がめを運んだのは女性でした。男が水を運ぶ場合は、革袋に入れて運びました。ですから、水がめを運んでいる男は、珍しい、目印になるわけです。その男が入っていく家の主人に、「先生が『弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか』と言っています」と言えば、席が整って用意ができたの広い部屋を見せてくれると言うのです。そして、弟子たちが出かけて都に行ってみると、イエス様が言われたとおりであったのです。このことは、イエス様がすべてのことをご存知である、いわゆる千里眼をもった預言者であることを示しています。かつて、私たちは、これと似たお話を読んだことがあります。イエス様は、エルサレムに入られるときに、まだ誰も乗ったことのない子ろばにお乗りになりました。その子ろばを手配されたときも、イエス様は、すべてのことをご存知でありました。イエス様は、旧約の預言者サムエルのように、遠くで起こっていることや、これから起こることを知っているのです(サムエル上10章参照)。さらに言えば、イエス様は、霊の力によって人の心の中をご存知であるのです(2:8参照)。ある研究者は、「事前に、イエス様は家の主人と打ち合わせをしていたのではないか」と想像しています。しかし、私はそうではないと思います。福音書記者マルコが、ここで強調したいことは、「イエス様がすべてのことをご存知である神の人だ」ということです。そして、その「すべてのこと」の中に、水がめを運ぶ男の家の主人が、御自分の弟子であることも含まれていたのです。家の主人は、弟子たちから、「先生が、『弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています」という言葉を聞いたとき、この「先生」がイエス様であることが、すぐに分かったと思います。そして、家の主人は、喜んで、席が整って用意のできた二階の広間を、イエス様の部屋として提供したのです。その広間に、弟子たちは、過越の食事の準備をしました。過越の食事で食べる、酵母の入っていないパン、屠られた小羊、苦菜、ソース、ぶどう酒などを用意したのです。

3.イエスを引き渡す者

 夕方になると、イエス様は十二人と一緒にそこへ行かれました。そして、日没となり、夜になってから、一同は席について、過越の食事を始めたのです。「席について」とありますと、イスに座ったようですが、元の言葉は、「横になって」と記されています。祝宴では、横になって、左肘をついて、上半身を起こして、食事をしました。そのような姿勢によって、自由にされた喜びを表したのです。過越の食事は、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放されたことを祝う喜びの食事でありました。その喜びの食卓で、イエス様は、こう言われます。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」。「はっきり言っておく」は、直訳すると、「アーメン、私はあなたがたに言う」となります。これは、イエス様が神の御子としての権威を持って言われる決まった言い回しです。イエス様は、心を見られる神の御子の権威をもって、「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」と言われたのです。私たちは、先々週、十二人の一人イスカリオテのユダが、イエス様を引き渡そうと祭司長たちのところへ出かけて行ったことを読みました。ユダは、どうすれば折よくイエス様を引き渡せるかとねらっていました。ユダは、そのことをだれにも気づかれていないと考えていたはずです。しかし、すべてのことをご存知であり、人の心を見られるイエス様は、ユダが御自分を引き渡そうとしていることを知っておられたのです。けれども、イエス様は、ユダの名前を出しませんでした。それで、弟子たちは、心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めたのです。このことは、何を意味しているのでしょうか。それは、すべての弟子に、イエス様を裏切る可能性があったということです。「まさかわたしのことでは」。この言葉は、否定の答えを期待する疑問文で記されています。弟子たちは、イエス様から、「あなたのことではない」と言ってほしかったのです。そのような弟子たちに、イエス様はこう言われます。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去っていく。だが、人の子を裏切る者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。ここでも、イエス様は、ユダの名前を出しておられません。十二人のうちの一人で、自分と一緒に鉢に入ったソースを浸して食べている者、そのような親しい者に裏切られると言われたのです。「裏切る」と訳されている言葉(パラディドーミー)は、「引き渡す」とも訳すことができます。イエス様は、これまで、弟子たちに、ご自分が人々の手に引き渡されることを何度も語ってこられました。第10章32節から34節には、次のように記されていました。新約82ページです。

 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

 このように、イエス様は、エルサレムでご自分に起こることをご存知でありました。しかも、そのことを聖書に記されている神様のご計画として知っておられたのです。人の子を祭司長たちや律法学者たちに引き渡す者。それが十二人の一人で、イエス様と同じ鉢に食べ物を浸す親しい者であるのです。詩編41編10節に、「わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者が/威張ってわたしを足げにします」とあるように、イエス様は、食卓を共にする信頼していた者の手によって、引き渡されるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の91ページです。

結.キリストの真実と悔い改めへの招き

 人の子が去って行くことは、聖書に書いてある神様のご計画であります。では、人の子を引き渡す者には罪がないのかと言えば、そうではありません。イエス様は、御自分を引き渡す者についてこう言われているからです。「だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。これは、呪いの言葉ではありません。御自分を裏切ろうとする者に、悔い改めを迫る言葉です。イエス様は、ユダが御自分を裏切ろうとしていることをご存知でありました。しかし、イエス様は、ユダの名前を出さずに、十二人の中から御自分を裏切る者がでると言われました。イエス様は、そのようにして、ユダが裏切ろうとしていることを御自分が知っていることを伝えました。そして、御自分を裏切る者には、「生まれなかった方が、その者のためによかった」と言えるほどの、神の厳しい裁きが待っていることを伝えたのです。それは、イスカリオテのユダが悔い改めて、御自分を裏切るという罪を犯さないようにするためです。「裏切る」ことの前提には、信頼関係があります。イエス様とユダの間には、先生と弟子との信頼関係があります。ユダは、イエス様を祭司長たちに引き渡すことによって、イエス様との信頼関係を断ち切ろうとしているのです。そして、イエス様は、そのことをご存知であるのです。では、イエス様は、ユダとの信頼関係を御自分から断ち切られるのかと言えば、そのようにはなさらない。神の御子であるイエス・キリストには、そのようなことはできないのです。『テモテへの手紙二』の第2章13節に、こう記されています。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる」。また、『コリントの信徒への手紙一』の第13章7節に、こう記されています。愛は「すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。ユダがイエス様を裏切ろうとしていたときも、イエス様はユダを十二人の一人として信頼しておられるのです。もっと言えば、イエス様は、ユダを見捨てることができないのです。主なる神が御自分に背き続けるイスラエルの民を見捨てることができないように、イエス様の方からユダを見捨てて、滅びへと引き渡すことはできないのです(ホセア11:8参照)。ユダを滅びへと引き渡すのは、イエス様を祭司長たちの手に引き渡すユダ自身であります。ユダはイエス様を引き渡すことによって、自分自身を滅びへと引き渡してしまうのです。

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