目を覚ましていなさい 2022年5月22日(日曜 朝の礼拝)

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目を覚ましていなさい

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 13章28節~37節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:28 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
13:29 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
13:30 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
13:31 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
13:32 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。
13:33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
13:34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
13:35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
13:36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
13:37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」
マルコによる福音書 13章28節~37節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 前回、私たちは、世の終わりの日の徴、世の終わりをもたらす決定的な徴について学びました。それは、人の子であるイエス様が、大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来られるということです。十字架の死から復活して、天に上げられ、父なる神の右に座しておられるイエス・キリストが、栄光の主として再び来られるのです。そのとき、イエス様は、天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた人たちを四方から呼び集めます。人の子であるイエス・キリストが来られるとき、私たちはどこにいようとも、イエス・キリストの御前に集められるのです。

 今朝の御言葉は、その続きであります。

1.いちじくの木の教え

 イエス様は弟子たちにこう言われました。28節と29節。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝がやわらくなり、葉が伸びると、夏が近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」。

 ここで、イエス様は、世の終わりがいつ起こるのかを弟子たちに教えておられます。このことは、4節で、四人の弟子たちが尋ねたことでした。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」。ここで、弟子たちは、エルサレム神殿の崩壊がいつ起こるのか。また、世の終わりにはどのような徴があるのかを問うています。弟子たちは、エルサレム神殿の崩壊を、世の終わりと結びつけて、イエス様に問うています。しかし、イエス様は、「エルサレム神殿の崩壊は、世の終わりの決定的な徴ではない。終わりの時代の苦難ではあるけれども、まだ終わりの日は来ない。終わりの日の徴は、わたしが栄光の人の子として再び来ることである」と教えられたのです。では、栄光の人の子は、いつ来るのでしょうか。そのことを、イエス様は、いちじくの木にたとえて教えられるのです。

 イエス様と弟子たちは、過越祭を祝うために、エルサレムに来ています。過越祭は、春の祭りです。春の次の季節は夏ですね。イエス様は、いちじくの木の枝がやわらかくなり、葉が伸びると、夏が近づいていることが分かると言われます。私たちの教会の庭には、蝋梅の木があります。冬に蝋梅が咲くと、春が近づいていることが分かります。それと同じように、これらのことを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさいというのです。「これらのこと」とは、6節から22節に記されていたことですね。すなわち、偽メシアの出現、戦争の騒ぎやうわさ、地震や飢饉、人々からの迫害、福音の世界宣教、これまでにないほどの苦難のことです。これらのことは、既に起こったこと。また、今も起こっていることであります。ですから、私たちは、人の子であるイエス様が来られる日は近づいていると悟るべきであるのです。人の子が戸口に近づいていることを悟って、神様に立ち帰るべきであるのです。

 続けてイエス様はこう言われます。30節と31節。「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。

 「はっきり言っておく」と訳されている言葉は直訳すると「アーメン、私はあなたがたに言う」となります。これは、イエス様が神の子の権威をもって宣言されるときの決まった言い回しです。イエス様は、神の御子としての権威をもって、「これらのことがみな起こるまで、この時代は決して滅びない」と断言されるのです。ここでの「これらのこと」には、人の子が力と栄光を帯びて来られることも含まれています。この時代、この世界は、人の子が来られることを抜きにして、終わることはないと、イエス様は断言されるのです。イエス様は、この時代の終わりは、ご自分が栄光の人の子として来ることによってもたらされると言われました。そして、そのことは、必ず実現するのです。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われるほどに、イエス様が再び来られるという約束は確かなことであるのです(イエス様が来ないで、世が終わることはない)。それゆえ、私たちは、イエス様が再び来られる日に希望を置いて、「主イエスよ、来てください」と祈りつつ、待ち望むことができるのです(黙示22:20)。

2.目を覚ましていなさい

 さらに、イエス様は弟子たちにこう言われます。32節と33節。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」。

 イエス様は、「何年何月何日に、世の終わりが来る」とは言われませんでした。それどころか、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」と言われるのです。父が知っていても、子が知らないことがあるのですね。そして、イエス様はそのことに満足しているようです。それは、『コヘレトの言葉』にあるように、すべてのことには神によって定められた時があり、神のなされることは、時宜にかなって美しいからです(コヘレト3:1~11参照)。子であるイエス様が知らないことを、私たちは知ることはできませんし、知ろうとする必要もありません。それは、私たちが、自分に気をつけて、目を覚ましているためであるのです。

 このことをイエス様は、主人の帰りを待つ僕たちと門番に譬えて教えられます。34節から37節。「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかも知れない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」。

 ここでの旅に出た主人はイエス様のことです。また、仕事を割り当てられた僕たちや門番は、「イエスは主である」と告白する私たちのことです。ここで「責任」と訳されている言葉(エクスーシア)は「権能」とも訳せます。そして、この権能は、かつてイエス様が、十二人を遣わす際にお与えになった「汚れた霊に対する権能」を思い起こさせます(6:7参照)。つまり、主人であるイエス様が僕である私たちに権能を持たせて、割り当てられた仕事とは、福音宣教の働きであるのです。私たちでしたら、イエス様から権能を与えられて、羽生市を中心とする北関東に住む人々に福音を宣べ伝える働きが、割り当てられているのです。イエス様は、終わりの時代の徴として、「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」と言われました(13:10)。イエス様は、御自分の僕である私たちに、福音をあらゆる民に宣べ伝えるという働きを託されたのです。私たちは、イエス様から権能を与えられて、福音宣教というイエス様の働きを引き継いでいるのです(マタイ28:18~20参照)。そして、その私たちに求められることは、主人がいつ帰って来てもいいように、目を覚ましていることであるのです。門番の譬えでは、これは文字どおり眠らないこと、目を覚ましていることです。しかし、イエス様が、すべての弟子たちに、「目を覚ましていなさい」と言われるとき、これは文字どおりの意味ではなくて、「霊的に目を覚ましていなさい」ということです。主人であるイエス様が帰って来ることを覚えて、この地上の生活を過ごしなさいということです。では、私たちは目を覚ましているために、何をすればよいのでしょうか。お勧めしたい一つのことは、毎日、使徒信条を告白し、主の祈りを祈ることです。使徒信条を告白することによって自分が三位一体の神を信じていることを確認し、主の祈りによって、「御国を来たらせたまえ」と父なる神に祈る。そのようにして、私たちは目を覚まして、栄光のイエス・キリストを待ち続けたいと思います。また、週ごとにささげる主の日の礼拝を大切にしていきたいと思います。「主の日の礼拝」とは、「主イエス・キリストが復活された日にささげる礼拝」という意味ですが、旧約聖書において、「主の日」は「終わりの日」を意味しています。そのことも重ね合わせて覚えたらよいと思います。私たちは、主の日の礼拝ごとに、主イエスが復活されたことだけではなく、復活された主イエスが再び来られることにも心を向けて、目を覚ましていたいと願います。主イエス・キリストが再び来られる日、それは、私たちキリスト者にとって、救いが完成する希望の日です。また、主イエス・キリストにお会いすることができる喜びの日であります。その日を、私たちは、主の日の礼拝において、福音を宣べ伝えながら待ち望んでいるのです。

3.栄光の人の子をお迎えできる喜び

 イエス様は、「わたしが来る日は近い。だから、目を覚まして待っていなさい」と言われました。しかし、そう言われても、私たちは、自分が生きている間に、イエス様は来られないのではないかと考えてしまうのではないでしょうか。と言いますのも、イエス様が、このように言われてから、およそ2000年が経っているからです。しかし、たとえ、私たちが生きている内にイエス様が来られなくても、私たちが死んだ後にイエス様が来られたとしても、私たちは、復活して、その時代に生きているキリスト者たちと一緒に、栄光のイエス様をお迎えする喜びにあずかれるのです。今朝は、そのことを確認して終わりたいと思います。『テサロニケの信徒への手紙一』の第4章15節から18節までをお読みします。新約の378ページです。

 主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることはありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。

 『テサロニケの信徒への手紙一』は、イエス・キリストの使徒パウロが50年頃に記した最初の手紙です。このとき、パウロは、自分が生きている間に、栄光のイエス様が来られると考えていたようです。しかし、その前に、死んでしまった者たちがいたのです。その人たちは、栄光のイエス様をお迎えする喜びにあずかれないのでしょうか。パウロは、そうではないと記します。主イエスが来られるとき、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、生き残っている者たちが、空中で主と出会うために、彼らと一緒に引き上げられるのです。私たちキリスト者にとって、栄光のイエス・キリストが来られる日は、希望の日であり、喜びの日であります。そして、そのことは、私たちが生きている間に、イエス・キリストが来られなくても、変わらないのです。栄光の主イエス・キリストが来られて、私たちの救いを完成してくださるという希望は、死によって色あせてしまうことはないのです。栄光の主イエス・キリストをお迎えする喜びにあずかることができる。そのことを楽しみにしながら、私たちは目を覚ましていたいと願います。

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