魂を生き返らせる教え 2022年3月20日(日曜 朝の礼拝)

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魂を生き返らせる教え

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 19編8節~15節

聖句のアイコン聖書の言葉

19:1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】
19:2 天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。
19:3 昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。
19:4 話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても
19:5 その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。
19:6 太陽は、花婿が天蓋から出るように/勇士が喜び勇んで道を走るように
19:7 天の果てを出で立ち/天の果てを目指して行く。その熱から隠れうるものはない。
19:8 主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。
19:9 主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。
19:10 主への畏れは清く、いつまでも続き/主の裁きはまことで、ことごとく正しい。
19:11 金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。
19:12 あなたの僕はそれらのことを熟慮し/それらを守って大きな報いを受けます。
19:13 知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。
19:14 あなたの僕を驕りから引き離し/支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ/わたしは完全になるでしょう。
19:15 どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。

詩編 19編8節~15節

原稿のアイコンメッセージ

 先週は、1節から7節までを学びましたので、今朝は8節から15節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 『詩編』の第19編は、イスラエルの王であったダビデの詩編であります。2節から7節には、神様が造られた被造物によって、神様の栄光が示されていることが記されていました。優れた作品によって、それを造った人が優れていることが示されるように、神様がお造りになった天は、神様の栄光を物語っているのです。また、神様が営まれている、昼と夜の絶え間ない営みは、耳には聞こえませんが、神様をほめたたえているのです。ここでダビデは、主の律法を与えられた者として、また、神の霊である聖霊を注がれた者として、被造物によって示されている神の性質を見て、神様をほめたたえています。そして、同じことが、聖書の御言葉と聖霊を与えられている私たちにも言えるのです。聖書の御言葉と聖霊によって私たちは、主イエス・キリストを信じて、「天地の造り主、全能の父である神」を信じる者とされました。それゆえ、私たちは、被造物とそのすべての営みに神様の御業を見て、神様をほめたたえることができるのです。神様に贖われ、神様によって造られた者として、神様をほえたたえることができるのです。

 古代の多神教の世界において、太陽は神として崇められました。しかし、その太陽も、神様によって造られた被造物であり、その営みも神様によるのです。神様は悪人にも善人にも太陽を昇らせてくださいます。父なる神様はすべての人に対して恵み深いお方であるのです。その父なる神様にならって、神の子である私たちには、すべての人を愛することが求められているのです(マタイ5:43~45参照)。

 ここまでは、前回の振り返りであります。

 では、今朝の御言葉、8節から11節までをお読みします。

 主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。主への畏れは清く、いつまでも続き/主の裁きはまことで、ことごとく正しい。金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。

 ダビデは、2節から7節で、神様の創造と摂理の御業について記しましたが、8節から11節では、主の律法について記しています。主題が大きく変わったようですが、実は、どちらも同じ神様の啓示について語っています。神の啓示という視点によれば、2節から7節までは神の創造と摂理の御業による自然啓示(一般啓示)を、8節から11節までは律法による超自然啓示(特別啓示)を扱っているのです。天地を造られた神様は、イスラエルに、主という御名をお示しになり、律法をお与えになった神様であるのです。

 8節から10節に、「主」という神様の御名前が6回も記されています。「主」とは、「ヤハウェ」と発音されたであろう神様の御名前であります。神様は、その昔、ホレブの山で、モーセに、主、ヤハウェという御名前を示されました(出エジプト3章参照)。主、ヤハウェとは、「わたしはある」「わたしはあなたと共にいる」という意味であります。主、ヤハウェという御名前の中に、「わたしはいつもあなたと共にいる」という約束が含まれているのです。イスラエルは、その主、ヤハウェと、シナイ山で契約を結び、十戒を基本法とする律法を与えられたのです(出エジプト19、20章参照)。律法は、神様の御心の現れあり、神様の御意志であります。その主の律法を、ダビデは賛美するのです。今朝の週報に、『新改訳2017』の翻訳を記しておきました。ここでは、それを読みたいと思います。

 主のおしえは完全で/魂を生き返らせ/主の証しは確かで/浅はかな者を賢くする。主の戒めは真っ直ぐで/人の心を喜ばせ/主の仰せは清らかで/人の目を明るくする。主からの恐れはきよく/とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。

 『新改訳2017』は、「主の律法」を「主のおしえ」と翻訳しています。「律法」と訳されるヘブライ語の「トーラー」は、「教え」とも訳せるのです。ここで言われていることは、主の律法、教えは、神様からの恵みであるということです。神様は、アブラハムの子孫であるイスラエルを選び、エジプトの奴隷状態から導き出し、シナイ山で契約を結んで、御自分の宝の民とされました。そして、主は、イスラエルに主の律法、教え、トーラーを与えられたのです。このことは、イスラエルの人々にとって、光栄であり、誇りでありました。ダビデも、イスラエルの一員として、また、主に油を注がれたイスラエルの王として、主の教えを喜び、ほめたたえるのです。主の教えは、多くの純金にまさって望ましい。蜂の巣から滴る蜜よりも甘い、と言うのです。『サムエル記上』の第14章に、サウル王の息子であるヨナタンが、蜂の巣の蜜を口に入れると目が輝いたことが記されています(サムエル上14:27参照)。その蜂の巣の蜜よりも、主の教えは甘く、私たちの目に光を与え、私たちの魂を生き返らせるのです。その主の教えを、私たちは、主の日の礼拝ごとに味わっているのです。私たちは、完全で、確かで、まっすぐで、清らかで、まことである主の教えを聞いているのです。その主の教えによって、私たちの疲れた魂に新しい息吹が与えられ、知恵が与えられ、喜びが与えられ、目に光が与えられるのです。主のとこしえに変わらない正しい裁きを聞くことができる。それは、何にも替えがたい、神様の恵みであるのです。

 12節から15節までをお読みします。

 あなたの僕はそれらのことを熟慮し/それらを守って大きな報いを受けます。知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。あなたの僕を驕りから引き離し/支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ/わたしは完全になるでしょう。どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前におかれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。

 ここには、主の教えを受けた、ダビデの応答が記されています。ダビデは、主の僕として、主の教えを熟慮し、それらを守って大きな報いを受けました。主の教えを守ることによって、主の恵みの御支配のなかに生きることができるのです。主の律法の書である『申命記』は、モーセの遺言とも言える説教ですが、その最後で、モーセはこう語っています。「あなたたちは、今日わたしがあなたたちに対して証言するすべての言葉を心に留め、子供たちに命じて、この律法の言葉をすべて忠実に守らせなさい。それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。この言葉によって、あなたたちはヨルダン川を渡って得る土地で長く生きることができる」(申命32:46、47)。主の御心は、イスラエルが主の教えを守って、祝福を受けることでありました(申命28:1、2参照)。その主の御心に従って、ダビデは主の教えを守り、大きな報いを受けてきたのです。しかし、ダビデは、主の教えを学べば学ぶほど、主の掟に従うことのできない自分の罪に気がつきます。そして、ダビデは、知らずに犯した罪、隠れた罪があることを告白するのです。これは、いわゆる過失のことです。神様に対する罪には、私たちが気づかない、知らずに犯した、隠れた罪があるのです。このことは、人間関係においても言えますね。自分の振る舞いが、他人を傷つけてしまっても気づかないということがあるわけです。私たちは、神様に対して、それこそ数え切れないほどの気づかない、隠れた罪を犯しているのです。カルヴァンは、このところを解説して、「聖徒はどれほど厳格にみずからを顧みようと苦労しても、〔自分が犯した罪の〕100分の1ほどもしることができないのである」と記しています。その「知らずに犯した罪から、わたしを清めてください」とダビデは願うのです。

 14節に「驕り」とありますが、口語訳聖書は「故意の罪」と翻訳しています。口語訳聖書では、13節と14節を次のように翻訳しています。「だれが自分のあやまちを知ることができるでしょうか。どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。また、あなたのしもべを引き止めて、故意に罪を犯さず、これに支配されることのないようにしてください。そうすれば、わたしはあやまちのない者となって、大いなるとがを免れることができるでしょう」。私たちの罪には、知らずに犯した罪と、知っていて犯した罪があります。神様が掟によって禁じられていることを知ったうえで、故意に罪を犯す。そのとき、人は驕り高ぶっているのです。神様の掟よりも、自分の考え(欲望)に従う。これはまさしく、エデンの園におけるアダムの罪でありますね。アダムは、神様から、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という掟を与えられていました(創世2:16、17参照)。しかし、アダムは、女の口を通して、蛇の言葉を聞いたときに、「神のように善悪を知る者となりたい」と考えたのです。そして、アダムは、神様の掟よりも自分の考えに従ったのです。アダムは神様の掟を知っていながら、故意に罪を犯したのです。私たちが故意に罪を犯すとき、このアダムのパターンに従っているのです。

 この詩編は、ダビデの詩編ですから、ダビデのことを考えてみたいと思います。ダビデは、ウリヤの妻であるバトシェバと関係を持ちました。また、ダビデは、バトシェバが自分の子供を身ごもったことを知ると、ウリヤを戦場から呼び戻して、バトシェバと床を共にするように仕向けました。しかし、ウリヤが自分の家に帰らないので、ダビデは、ウリヤを戦争の最前線に送り出し、敵の手によって殺してしまうのです。そして、ダビデは、未亡人となったバトシェバを、自分の妻として迎え入れたのです。聖書は、「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」とはっきり記しています(サムエル下11章参照)。ダビデは「あなたは姦淫してはならない」という掟を知っていました(十戒の第七戒)。また、「あなたは殺してはならない」という掟を知っていました(十戒の第五戒)。しかし、そのダビデが、姦淫の罪と殺人の罪を犯したのです。それは、ダビデが傲慢な思いに捕らわれていたからです。ダビデは、神の掟よりも自分の欲望を優先して、自分が神であるかのように振る舞ったのです。そのような「驕りから引き離して、支配されないようにしてください」とダビデは主の僕として願うのです。ダビデは、主の教えが完全であるから、その主の教えを守れば完全になれるとは言っていません。ダビデは、完全で清い主の教えの前に立ったとき、自分がその教えに従うことのできない罪に汚れた、傲慢な者であることを知ったのです。ですから、ダビデは、「わたしを重い罪から清めてください。そのようにして、主がわたしを完全な者にしてください」と願うのです。また、ダビデは、「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように」と願います。ここで、ダビデが願っていることは、完全で、清い主なる神様との交わりに生きる、私たちの願いでもあります。ダビデは、最後に、「主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ」と呼びかけます。ダビデと主の交わりは、ダビデが罪を犯すか、犯さないかにかかっているのではありません。ダビデと共にいてくださり、ダビデを守り、ダビデを罪から贖ってくださる主にかかっているのです。「主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ」。私たちは、この言葉を、主イエス・キリストに対して、はっきりと告白することができます。なぜなら、主イエス・キリストこそ、私たちを、知らずに犯した過ちから、また、故意に犯した罪からも贖ってくださる御方であるからです。主イエス・キリストは、私たちを、神様との親しい交わりに生かしてくださる岩、拠り所であるのです。私たちは、主イエス・キリストを「わたしの岩、わたしの贖い主よ」と呼び、日々、自分の罪を告白し、赦しをいただいて、神様との親しい交わりに生きることができます。そのような祝福に、すべての人が生きるために、神の言(ことば)が人となって、この地上に生まれてくださったのです(ヨハネ1章参照)。主イエス・キリストこそ、人となられた神の律法、教え、トーラーであるのです。その主イエス・キリストの御人格と御業を想い巡らしつつ、今週も歩んでいきたいと願います。

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