恵みの中に立つ 2022年3月06日(日曜 朝の礼拝)

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恵みの中に立つ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ペトロの手紙一 5章12節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:12 わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。
5:13 共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。
5:14 愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように。ペトロの手紙一 5章12節~14節

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序.

 一昨年の2020年11月15日から『ペトロの手紙一』を学んできました。今朝はその最後の学びとなります。今朝は、第5章12節から14節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1.シルワノによって

 12節をお読みします。

 わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神の恵みであることを証ししました。この恵みにしっかりと踏みとどまりなさい。

 「わたし」とは、イエス・キリストの使徒ペトロのことです。第1章1節に、「イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散している選ばれた人たちへ」とありましたように、この手紙は、イエス・キリストの使徒ペトロが、小アジアのキリスト者たちに宛てて記した手紙であるのです。その手紙を結ぶにあたって、ペトロは、自分が、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、手紙を書いたことを打ち明けています。「シルワノ」とは、エルサレム会議の決定をアンティオキア教会に伝えるために派遣された「シラス」のことです(使徒15:22参照)。シラス(シルワノ)は、エルサレム教会の兄弟たちの指導的な立場にいました。それゆえ、ペトロと親しかったのでしょう(ガラテヤ2:9によれば、ペトロはエルサレム教会の柱の一人)。また、シラス(シルワノ)は、パウロと一緒に宣教した人物でありました。シラス(シルワノ)は、パウロと一緒に、フィリピやテサロニケで福音を宣べ伝えたのです(使徒16、17章参照)。そのシルワノによって、ペトロはこの手紙を記したのです。おそらく、ペトロは、シルワノを書記として、口述筆記でこの手紙を記したのだと思います。そして、結びの言葉である12節から14節までは、自分で筆を取って記したと考えられるのです。また、この手紙は、シルワノによって、小アジアの教会に届けられたのでしょう。それゆえ、ペトロは、シルワノのことを「忠実な兄弟と認めているシルワノ」と記したのです。シルワノが信頼できる人物であることを、ペトロは保証しているのです。

2.恵みの中に立つ

 ペトロは、「このように短く手紙を書き、勧告し、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかりと踏みとどまりなさい」と記します。確かにこの手紙は、朗読しても、20分ほどで読むことができる短いものです。しかし、その短い手紙は、神のまことの恵みを証ししているのです。「神のまことの恵み」とは、この手紙の内容全体を言い表したものと読むことができます。けれども、ある研究者(N.ブロックス)は「この神のまことの恵み」を、第2章19節と20節の御言葉と結びつけて解釈しています。第2章19節と20節には、こう記されていました。

 不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことなのです。

 ここに「御心に適うことなのです」という言葉が二度記されています。この「御心に適うことなのです」と訳されている言葉(カリス)は直訳すると「恵みです」となります。第5章12節の「神のまことの恵み」とは、ペトロが最後に強調しておきたい恵み、第2章19節と20節に記した恵みであるのです。ペトロは、手紙を閉じるにあたって、自分が一番強調しておきたい恵み、善を行って受ける苦しみを耐え忍ぶことができる神の恵みについて記すのです。

 私たちが不当な苦しみを受ける。私たちが善を行って苦しみを受ける。そのとき、私たちは、どう思うでしょうか。理不尽だ。おかしいと思う。そして、不当な苦しみを加える者を呪う。あるいは、善を行うことを止めてしまう。しかし、イエス・キリストを信じたあなたがたは、苦しみの中で、神に祈りつつ、善を行って生きることができる。それが、私たちキリスト者に与えられている神の恵みであるとペトロは記しました。そして、ペトロは、「この恵みの中に立ちなさい」(直訳)と、小アジアのキリスト者たちに、また、私たちに言うのです。なぜなら、私たちの主イエス・キリストが、この恵みの中に立ち続けられたからです。主イエス・キリストは、不当な苦しみをお受けになりました。善を行って苦しみを受けられたのです。そして、その苦しみの中で、正しい審判者である神様にすべてを委ねて、神様の御心を行われたのです。正しい方が、正しくない者たちの罪を担って、十字架の死を死んでくださったのです。神様は、そのイエス・キリストを、栄光の体で復活させられ、天にあげられました。イエス・キリストは、今、父なる神の右の座についておられます。そのことを私たちは信じているがゆえに、キリストのために苦しむことを喜びとすることができる。キリストのために受ける苦しみを通して、いよいよキリストと共に栄光を受けることになると確信することができるのです(キリストのために苦しむことは、善を行って苦しむことの最たるものである。善を行うこと、御心に適うことを行うこと、義を行うこと、イエス・キリストを信じることは、私たちにとって一つのことである)。

イエス・キリストを信じても、問題が解決されるわけではないかも知れない。病が癒されるわけでもないかも知れない。けれども、私たちは、その問題や病を、私たちを心にかけてくださる父なる神様の御手から受け取るのです。私たちを正しい者とするために、十字架で命をささげてくださった主イエス・キリストの御手から受け取るのです。そのとき、私たちはその問題や病の中で、祈ることができるようになる。その問題や病の中で、神の御心を行って生きることができるようになる。それが、ペトロが証しした神のまことの恵みです。イエス・キリストを信じるならば、問題や病がすべて解決する。イエス・キリストを信じる者は、無病息災(むびょうそくさい)、家内安全、商売繁盛で過ごすことができる。そのような神の恵みをペトロは証ししたのではありません。奴隷でイエス・キリストを信じた者は、奴隷のままです。横暴な主人から不当な苦しみを受ける。その奴隷の背中には、ミミズ腫れの鞭の跡がある。何も変わっていないように思える。キリストを信じて、何になるかと思う。しかし、ペトロは、その傷は、イエス・キリストが、あなたのために受けた傷だと言うのです。あなたは、イエス・キリストの傷によって、癒されたと言うのです。それが、ペトロが証ししてきた神の恵みです。その恵みの中に立ち続けるとき、私たちが気をつけねばならないことがある。それは、悪魔の誘惑です。悪魔は、神様からの試練を、誘惑として用い、私たちを滅ぼそうとします。悪魔は、「苦しみを耐え忍んで、善を行うことのどこが恵みだ」と問いかけてくる。その悪魔の問いかけに、私たちは、答えられるようにならねばならない。そして、その答えを、私たちは、『ペトロの手紙一』から御一緒に学んできたのです。私たちをイエス・キリストを通して永遠の栄光へと招かれた神様は、私たちを苦しみの中に、捨ておくことはされない。神様は、しばらくの間苦しんだ私たちを、完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださるのです。主イエス・キリストが来られる日は近づいている。また、私たちが主イエス・キリストのもとへ召される日は近づいているのです。今なお、苦しみは続くでしょう。その苦しみの中で、神を崇め、イエス・キリストを崇め、希望をもって生きることができる。この神の恵みの中に立ち続けたいと願います。

3.平和があるように

 13節と14節をお読みします。

 共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように。

 「バビロン」とは「異教の都」という意味で、「ローマ」のことを指しています(黙示14:8参照)。ですから、「共に選ばれているバビロンにいる人々」とは、「ローマにいるキリスト者たち」のことです。ペトロは、この手紙をローマで書き記したのです。ペトロは、9節で「あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです」と記しました。ローマにいるキリスト者たちも、キリストのために苦しみを受けていたのです。その兄弟たちからの挨拶をペトロは記すのです。また、ここには「わたしの子マルコ」からの挨拶も記されています。マルコは、エルサレムで集会が行われていた家の息子であり(使徒12:12参照)、パウロとバルナバとの激しい衝突の原因となった、ヨハネ・マルコのことです(使徒15:37、38参照)。このマルコは、後に、『マルコによる福音書』を記したとも言われています。マルコは、ペトロによって信仰へと導かれたのでしょう。それゆえ、ペトロは、マルコのことを「わたしの子マルコ」と親しく呼ぶのです。小アジアのキリスト者たちは、マルコのことを知っていたのでしょう。それで、ペトロは、マルコからの挨拶を記すのです。

 ペトロは、「愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」と記します。これは親愛のしるしでありますね。私たちは、このとおり行うに必要はありませんけれども、互いに挨拶を交わすことは大切なことであります。今は、マスクをしていて、表情も分かりづらいのですが、このようなときこそ、挨拶を交わすことを大切にしたいと思います。

 ペトロは最後に、「キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように」と記します。ペトロは、この手紙の最初に、「恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」という祈りの言葉を記しました(一ペトロ1:2)。そして、その最後に、「神の恵みの中に立つ、キリストに結ばれているあなたがた一同に平和があるように」と記すのです。ここでの平和は、何よりも神様との平和であります。主イエス・キリストの十字架の贖いによって与えられている神様との平和、神の平安であります(一ペトロ2:24、25「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」参照)。主イエス・キリストを信じる私たちには、苦しみの中にあっても、神様との平和、神の平安が与えられているのです。そのような者として、私たちは、「平和があるように」と互いのために祈りたいと願います。

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