信仰に踏みとどまる 2022年2月27日(日曜 朝の礼拝)

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信仰に踏みとどまる

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ペトロの手紙一 5章8節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:8 身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
5:9 信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。
5:10 しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。
5:11 力が世々限りなく神にありますように、アーメン。ペトロの手紙一 5章8節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ペトロの手紙一』の第5章8節から11節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 8節と9節をお読みします。

 身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。

 イエス・キリストの使徒ペトロは、小アジアのキリスト者たちに、また私たちに、「身を慎んで目を覚ましていなさい」と記します。「身を慎む」とは「御言葉に従って生活を送ること」であります。また、「目を覚ましている」とは「絶えず祈ること」であります。ペトロは、「御言葉に従う生活によって身を慎み、絶えず祈ることによって目を覚ましていなさい」と命じるのです。なぜなら、「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っている」からです。ここで、突然、「悪魔」がでてくるので、私たちは戸惑うのではないでしょうか。悪魔とは、神の敵であり、神の御業を破壊しようとする者です。悪魔は堕落した天使であり、この世の人々の背後に働いている霊的な存在です。小アジアのキリスト者たちは、キリストの名のゆえに、まわりの人々から悪口を言われ、仲間外れにされるなどの苦しみを受けていました。そのまわりの人々の背後で働いているのが、神の敵である悪魔であるのです。そのことを、使徒パウロは、『エフェソの信徒への手紙』の第6章で、はっきりと記しています。

 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

 このように私たちの信仰の戦いは血肉(人間)を相手にするものではなく、人間の背後に働く悪の諸霊を相手にする霊的な戦いであるのです。具体例として、イエス様が受けられた誘惑のことを考えたらよいと思います。荒れ野で、悪魔は、「神の子なら石をパンに変えたらどうだ」とイエス様を誘惑しました。そして、ゴルゴタで、悪魔は人々を通して、「神の子なら十字架から降りてこい。そうしたら信じてやろう」と誘惑したのです(マタイ4:3、27:42,43参照)。

 「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」。このペトロの言葉を読んで、少しオーバーではないかと思うかも知れません。と言いますのも、小アジアのキリスト者たちは、投獄されたり、処刑されていたわけではないからです。私たちの現状を顧みても、少し大げさに思えるかも知れません。しかし、これが霊的な現実なのです。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のようにだれかを食い尽くそうと探し回っている」。この霊的な現実を、今朝、私たちはしっかりと見据えたいと思います。そうでなければ、私たちは身を慎んで目を覚ましていることができず、悪魔に食い尽くされてしまうのです。もし、私たちが、悪魔がほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っていることを認めないならば、それこそ、悪魔の思う壺です。悪魔とその手下である悪霊にとって、自分たちが存在していないかのように思われている方が都合がよいのです。まことの神様を信じない、この世の人々は、悪魔の働きを見抜くことができません。生まれながらの人間は、悪魔の虜となっているからです。はじめの人アダムは蛇に惑わされて罪を犯してしまいました。この蛇の背後には、悪魔がいたのです。アダムは、悪魔に従うという仕方で神の掟に背き、罪を犯してしまったのです。そのようにして、アダムは悪魔の支配下に入ってしまったのです。けれども、神様は、悪魔の頭を打ち砕く女の子孫の誕生を約束してくださいました(創世3:15参照)。その女の子孫が、聖霊によって、おとめマリアからお生まれになった主イエス・キリストであるのです。ですから、主イエス・キリストを信じる私たちは、悪魔の支配から解放されて、神様の支配に生きる者とされているのです。神の敵である悪魔は、主イエス・キリストを信じる私たちの敵でもあるのです。悪魔がほえたける獅子のように、私たちを食い尽くそうとしている。そこで言われていることは、悪魔は、私たちをイエス・キリストから引き離そうとしているということです。私たちは、イエス・キリストを信じることにより、天の御国を受け継ぐ神の子とされました。私たちの生き生きとした希望は、十字架の死から復活されたイエス・キリストにあるのです。ですから、ペトロは、9節でこう記します。「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」。信仰にしっかり踏みとどまる。それは、悪魔に勝利された主イエス・キリストにしっかり踏みとどまるということです。

 私たちの主イエス・キリストは、十字架の死と復活によって悪魔に勝利してくださいました。そのことを聖書から確認いたしましょう。『ヘブライ人への手紙』の第2章14節と15節には、こう記されています。

 ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。

 また、『ヨハネの手紙一』の第3章7節と8節には、こう記されています。

 子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。

 さらに、イエス様御自身、『ヨハネによる福音書』の第16章33節で、こう言われています。

 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 イエス様は、十字架の死と復活によって、世に勝利されました。ここでの世は悪魔が支配する領域のことです。ですから、イエス様は十字架の死と復活によって、悪魔に勝利されたのです。それでは、なぜ、悪魔は、今も、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っているのでしょうか。その答えが、『ヨハネの黙示録』の第12章に記されています。新約の466ページ。第12章7節から12節までをお読みします。

 さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。わたしは天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と/自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。このゆえに、もろもろの天と、その中に住む者たちよ、喜べ。地と海とは不幸である。悪魔は怒りに燃えて、お前たちのところへ降って行った。残された時が少ないのを知ったからである。」

 ここでの「ミカエル」は、玉座へと引き上げられたメシア、イエス・キリストのことです(5節参照)。イエス・キリストが天へと上げられたことにより、天では、イエス・キリストと悪魔との戦いが起こりました。そして、イエス・キリストは勝利し、悪魔は地上に投げ落とされたのです。この悪魔が怒りに燃えて、イエス・キリストを信じる者たちを食い尽くそうと捜し回っているのです。『ヨハネの黙示録』は、ローマ皇帝ドミティアヌスの時代の教会に宛てて記された書物であります。ローマ皇帝ドミティアヌスは、自分を神として崇めることを求めました(皇帝礼拝)。そして、自分を神として崇めない者たちを、捕らえ、処刑したのです(黙示2:13参照)。なぜ、教会は、そのような激しい迫害の中におかれているのか。キリストは悪魔に勝利されたのではなかったのか。そのような疑問が当然、沸き起こってきたと思います。そのような教会に対して、イエス様は、「女と竜」の幻を示されるのです。イエス・キリストが天に上げられ、勝利されたからこそ、悪魔が地上に投げ落とされて、激しい迫害が起こっていること。そして、その迫害はしばらくの間であることを示されるのです。「主イエス・キリストが悪魔に勝利されたなら、なぜ、悪魔は今も働いているのか」。そう私たちは疑問に思うわけですが、実は、主イエス・キリストが悪魔に勝利されたからこそ、悪魔は地上に投げ落とされ、最後の悪あがきに、誰かを食い尽くそうと探し回っているのです。ですから、私たちは、十字架の死に至るまで父なる神の御心に従い、悪魔に勝利された主イエス・キリストへの信仰にしっかりと踏みとどまることが求められているのです。主イエス・キリストは、父なる神に十字架の死に至るまで従われることによって、悪魔に勝利されました。その主イエス・キリストへの信仰にしっかりと踏みとどまるならば、私たちは悪魔に抵抗することができるのです。それは、具体的に言えば、周りの人々から悪口を言われても、イエス・キリストを信じて生きるということです。イエス・キリストの体である教会に連なる者として生きるということです。そのとき、私たちは、主イエス・キリストの勝利に連なる者となるのです。主の晩餐においてあずかる杯は、勝利の杯であるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の434ページです。

 ペトロは、「あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです」と記します。このペトロの言葉は、私たちの思いを各個教会レベルから、中会レベル(関東、甲信越にある教会の交わり)、大会レベル(日本全国にある教会の交わり)、さらには全世界の国々にあるキリストの教会の交わりへと向けさせます。今は、インターネットで、多くの教会がホームページ公開しています。ホームページを見ると、信仰を同じくする兄弟姉妹が、困難(コロナ禍)の中にあっても、礼拝をささげていることが分かります。そのことは、私たちにとって、大きな励ましであります。イエス様は、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われました(マタイ18:20)。その約束を信じて、それぞれの場所で、礼拝がささげられている。そのような教会の一つの枝として、私たちも、羽生の地で礼拝をささげ、神の栄光をあらわしているのです。

 10節と11節をお読みします。

 しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へと招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことのないようにしてくださいます。力が世々限りなく神にありますように、アーメン。

 私たちの敵である悪魔は、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。悪魔は、この世の人々の背後に働いて、イエス・キリストを信じる私たちを苦しめます。しかし、その苦しみは、しばらくの間であるのです。なぜなら、キリスト・イエスを通して、私たちを永遠の栄光へと招いてくださったのはあらゆる恵みの神様であるからです。神様が、私たちを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださるのです(聖徒の堅忍)。ここで、ペトロが言っていることは、私たちの救いは、究極的には神の業であるということです。神様は、イエス・キリストを通して、私たちを永遠の栄光へと招いてくださいました。その神様が、しばらくの間苦しんだ私たちを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことのないようにしてくださるのです。『ヨハネの黙示録』によれば、主イエス・キリストが再び来られるとき、神様は悪魔を火と硫黄の池に投げ込まれます(黙示20:10参照)。それゆえ、私たちは、「力が世々限りなく神にありますように、アーメン」と祈ることができるし、また祈るべきであるのです。

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