謙遜と信頼 2022年2月20日(日曜 朝の礼拝)

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謙遜と信頼

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ペトロの手紙一 5章5節~7節

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5:5 同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、/「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。
5:6 だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。
5:7 思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。ペトロの手紙一 5章5節~7節

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序.

 先程は、『ペトロの手紙一』の第5章1節から7節までをお読みしました。前回は、1節から4節までを学びましたので、今朝は、5節から7節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1.若い人たちへの勧め

 前回学んだ1節から4節までには、「長老たちへの勧め」が記されていました。今朝の5節には、「若い人たちへの勧め」が記されています。ペトロは、「同じように、若い人たち、長老に従いなさい」と記します。「同じように、長老に従う」とは、自ら進んで、献身的に、群れの模範として、長老に従うということです。長老たちの、神の羊の群れを牧する(世話をする)心構えが、そのまま、若い人たちの長老たちに従う心構えとなるのです。ここで「長老たち」と訳されている言葉(プレスブテロイス)は、「老人たち」とも訳すことができます。長老たちは、経験を重ねた老人から選ばれることが多かったのでしょう。長老たちの中には、テモテのような若い人もいましたが、多くは年配の人であったようです。若い人たちは、血気盛んで、しばしば反抗的な態度をとります。そのような若い人たちに、神の羊の群れを牧する長老たちに、自ら進んで、献身的に、群れの模範として従いなさいと記すのです。ここで「従う」と訳されている言葉(ヒュポタッソー)は、元々は「下に(ヒュポ)配置する(タッソー)」という意味です。「従う」とは、自分を相手の下に置く、主体的な行為であるのです。それは、長老たちが、自分たちよりも年上であるからということに留まらず、神様によって召され、立てられた者たちであるからです。さらには、自ら進んで、献身的に、群れの模範として、神の羊の群れを牧する者たちであるからです。長老たちに従うことは、その長老たちの大牧者であるイエス・キリストに従うことであるのです(『政治規準』第42条(職務の権威)御自身の聖霊と御言葉により、またその民の奉仕によって支配を行うことが、普遍的かつ各個の教会におけるキリストの固有の職務である。教会におけるすべての職務の権威は、キリストに由来し、職務そのものには帰属しない故に、職務に就く者は、他のキリスト者に対して霊的優位性を主張してはならない。彼らは奉仕者、弟子、しもべに過ぎない)。

2.謙遜を身に着けなさい

 ペトロは、若い人たちだけではなく、すべての教会員に対して、「皆互いに謙遜を身に着けなさい」と記します。当時の奴隷たちは仕えるために、エプロンを身に着けていたと言われます。その奴隷たちのように、主イエス・キリストを信じるあなたたちは、謙遜というエプロンを身に着けて、互いに仕え合いなさいと言うのです。このとき、ペトロは、弟子たちの足を洗われた主イエスのお姿を思い起こしていたと思います。『ヨハネによる福音書』の第13章に、イエス様が上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとい、弟子たちの足を洗われたことが記されています。そのところを開いて、読んでみたいと思います。新約の194ページです。『ヨハネによる福音書』の第13章1節から17節までをお読みします。

 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたに分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

 さて、イエスは弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。

 当時、足を洗うことは奴隷の仕事でありました。その奴隷の仕事を、主であり、師であるイエス様が、弟子たちに対してなされたのです。これは、まことに驚くべきことです。ペトロは、恐れ多くて、「わたしの足など決して洗わないでください」と断っています。このイエス様が弟子たちの足を洗う、いわゆる洗足の出来事には、後で分かるようになる意味と、今分かる意味があります。洗足の出来事には、今は分からないが、後で、分かるようになる意味があるのです。結論だけを申しますと、後で分かる意味とは、十字架と復活の主イエス・キリストの名によって洗礼を受けることです。それゆえ、イエス様は、ペトロに、「わたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われたのです。ちなみに「既に体を洗った者は、全身清い」とは、洗礼(浸礼)を受けて、すべての罪が赦されたことを、「足だけ洗えばよい」とは、日々、罪を告白し、赦しをいただくことを指しています。私たちは、実際の体験として、イエス様に足を洗っていただいたことはありません。しかし、十字架と復活の主であるイエス・キリストの名によって洗礼を受けた者たちとして、私たちはイエス様に足を洗っていただいたのです。

 また、洗足の出来事の今分かる意味は、主であり、師であるイエス様に倣って、互いに足を洗い合わねばならないということです。私たちは、イエス様から足を洗っていただいた者たちとして、謙遜というエプロンを身に着けて、互いに仕え合わねばならないのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の434ページです。

 ペトロは、私たちが互いに謙遜を身に着けねばならない理由として、旧約聖書の『箴言』第3章34節を引用しています。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」。高慢な者とは、自分を高くする人、自分が神であるかのように振る舞う人のことです。そのような高慢な人を神様は敵と見なされます。しかし、自分を低くして、神様に依り頼む人には、恵みをお与えになるのです。このことは、私たちの主イエス・キリストに起こったことですね。神様は、自分を低くして、神様に依り頼んだイエス様に恵みをお与えになりました。神様は、イエス様を栄光の体で復活させられ、天へと上げられ、あらゆる名にまさる名、「主」という名をお与えになったのです(フィリピ2:6~11参照)。

3.謙遜と信頼

 私たちキリスト者の謙遜は、神の力強い御手の下で自分を低くすることから始まります。旧約聖書において、「神の力強い御手」は、神の救いの御業と結びついています(出エジプト12:3参照)。私たちは、イエス・キリストを信じて救われたのですが、そのことは言い換えれば、神の力強い御手の下で自分を低くすることによって救われたのです。自分を低くしなければ、十字架に磔にされたイエスを救い主であると告白することはできません。ですから、神の力強い御手の下で自分を低くすることは、十字架につけられたイエスを主と告白する私たちにとって、変わることのない姿勢であるのです。

新共同訳聖書は、「そうすれば、かの時に高めていただけます」と記していますが、新改訳2017は、このところを、「神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます」と翻訳しています。新共同訳のように「かの時に」と翻訳すると、「世の終わりの時」を指していると読むことができます。主イエス・キリストが再び来られる終わりの日に、私たちは高められ、あらゆる思い煩いから解放されるのです。また、新改訳2017のように、「ちょうど良い時に」と翻訳すると、「神様が定められた時に」と読むことができます。『コヘレトの言葉』の第3章に、「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と記されています(コヘレト3:1)。神様は、ちょうど良い時に、私たちを高く上げ、思い煩いから解放してくださるのです。

 ペトロは、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」と記していますが、このことは「神の力強い御手の下で自分を低くすること」と一体的な関係にあります。もし、「この思い煩いは神様にお任せできない」と考えるならば、私たちは、まだ、神の力強い御手の下で自分を低くしていないのです。では、思い煩いを何もかも神にお任せするとは、何もしないということなのでしょうか。確かにそのようなときもあると思います(イザヤ30:15「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」参照)。しかし、多くの場合は、主に祈りつつ、最善を尽くすのだと思います(神の摂理の協働の教理)。そのようにして、私たちは謙遜と信頼を学ばせていただくのです。

私たちには、それぞれに心を悩ます、思い煩いがあると思います。その思い煩いを、何もかも神様にお任せしましょう。なぜなら、神様は、私たちのことを心にかけてくださる御方であるからです。新改訳2017によれば、「神があなたがたのことを心配してくださるからです」。ここでも、私たちは、主イエス・キリストの御言葉を思い起こすことができます。イエス様は、「思い煩うな」と弟子たちに三度お語りになりました(マタイ6:25~34参照)。イエス様は、命と体を与えてくださった父なる神が、その命を養う食べ物と体を守る衣服を与えてくださるに違いないと言われました。また、空の鳥を養い、野の花を装ってくださる父なる神が、神の子であるあなたたちを養い、装ってくださらないはずはないと言われました。「思い煩わないで、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、必要なものを父なる神は与えてくださるから」と約束してくださったのです。その父なる神とイエス様が、私たちのことを心にかけていてくださるのです。神様とイエス様だけではありません。牧師と長老たちと執事たちが、主にある兄弟姉妹たちが心にかけて、執り成しの祈りをささげているのです(「教会員と共に、教会員のために祈ること」は教会役員の任務、『政治規準』第46条1項、第55条5項、第58条5項参照)。私たちは、そのことを忘れないで、一つの群れとして歩んで行きたいと願います。  

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