神が栄光を受けるために 2022年1月30日(日曜 朝の礼拝)

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神が栄光を受けるために

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ペトロの手紙一 4章7節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:7 万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。
4:8 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。
4:9 不平を言わずにもてなし合いなさい。
4:10 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
4:11 語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。ペトロの手紙一 4章7節~11節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 今朝は、『ペトロの手紙一』の第4章7節から11節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1.万物の終わりが迫っている

 7節をお読みします。

 万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。

 イエス・キリストの使徒ペトロは、小アジアの教会に、「万物の終わりが迫っています」と語ります。そして、このことは、今朝、私たちにも語られていることであるのです。ペトロの手紙が記されてから、およそ2000年が経ちました。では、ペトロの言葉は、間違いであったのかと言えばそうではありません。なぜなら、主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようであるからです(二ペトロ3:8参照)。永遠なる神様と被造物である私たち人間の時間の尺度は違うからです。むしろ、私たちは、この手紙が記された頃よりも、いよいよ万物の終わりが迫っていると考えるべきであるのです(ローマ13:11参照)。

 万物の終わりは、万物を造られた神様がもたらされます。旧約の預言者たちは、万物の終わりの日を「主の日」と呼びました(マラキ3:19~24参照)。主の日は、主がすべての人を裁かれる日であります。ペトロは、前回学んだ5節で、人間の欲望に従って乱行にふける者たちが、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければならない、と記しました。主の日が到来したとき、生きている者だけではなくて、死んだ者も生き返って、裁きを受けることになるのです(ダニエル12:2参照)。神様によって造られ、生かされた、すべての人が裁きを受けるのです。そして、神様は、その裁きの権能を、主イエス・キリストに授けられたのです(ヨハネ5:22、27参照)。「主の日」とは、主イエス・キリストが裁き主として、この地上に再び来られる日であるのです。ですから、「万物の終わりが迫っています」とは、「主イエス・キリストの再臨が迫っています」という意味であるのですね。「主イエスよ、来てください」と祈る私たちにとって、万物の終わりの日は、恐ろしい裁きの日ではなくて、主イエス・キリストにお会いする喜びの日であるのです(一ペトロ1:5、7参照)。

 万物の終わりが迫っている。主イエス・キリストが来られる日が近づいている。それゆえ、ペトロはこう命じます。「だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」。かつて預言者アモスは、「イスラエルよ、お前は自分の神と出会う備えをせよ」と語りました(アモス4:12)。私たちは、主イエス・キリストに出会う備えをしなければならないのです。そして、その備えとは、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈ることであるのです(マタイ24:36~25:46参照)。先程、私は、イエス・キリストを信じる私たちにとって、主の日は恐ろしい裁きの日ではなくて、主イエス・キリストに出会う喜びの日であると申しました。では、イエス・キリストを信じる私たちは、裁きを受けないのかと言えば、そうではありません。ペトロは、17節でこう記しています。「今こそ、神の家から裁きが始まるときです」。主イエス・キリストを信じる私たちは、滅びに定められることはありません。主イエス・キリストが、私たちの身代わりとして、十字架の死を死んでくださったからです。しかし、主イエス・キリストに救われた者として、どのように生きたかが問われるのです。賜物を与えられた者たちとして、その賜物をどのように用いたかが問われるのです。私たちは、救われた者として、また、賜物を与えられた者として、主イエス・キリストの御前に立つことになる。このことを心に留めて歩むときに、私たちは、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈ることができるようになるのです。

2.心を込めて愛し合え

 8節と9節をお読みします。

 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。

 ペトロは、小アジアの教会に、また、私たちに、「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい」と語ります。私たちは、神様とイエス・キリストから愛されている者たちです。神様は、独り子を与えられたほどに、私たちを愛してくださっています(ヨハネ3:16参照)。また、イエス様は、命を捨てられたほどに、私たちを愛してくださっています(ヨハネ15:13参照)。その神様の愛、イエス様の愛が、聖霊において、私たち一人一人に注がれているのです(ローマ5:5参照)。私たちは、神様を父とし、イエス様を長兄とする神の家族とされています。そのような私たちに、何よりも求められること。それが、心を込めて愛し合うということであるのです。「心を込めて愛し合う」とは、言い換えれば、「イエス様の愛で愛し合う」ということです(ヨハネ13:34「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」参照)。イエス様から愛されている者として、私たちは、互いに愛し合うことが命じられているのです。このイエス様の愛で愛し合うときに、私たちは、互いの罪を赦し合うことができるのです。「愛は多くの罪を覆う」の「覆う」とは「赦す」ということです(詩32:1「いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は」参照)。イエス様の愛は、多くの人に罪の赦しをもたらしました。そのイエス様の愛で、私たちが愛し合うとき、私たちは、互いの多くの罪を赦し合うことができるのです。

 ペトロは、愛し合うことの具体的な行為として、「不平を言わずにもてなし合いなさい」と語ります。「もてなす」とは、家に招いて食事をふるまうことです。このことは、私たちがあまりしていないこと、してこなかったことではないかと思います。では、私たちは、もてなし合うことをまったくしてこなかったかと言えば、そうではないと思います。私たちの教会では、イースターとクリスマスに、祝会をしておりました。祝会では、賜物のある方が、それぞれに料理を作って、持ち寄ってくださいました。そのようにして、私たちの教会も、もてなし合いをしてきたわけです。そのとき、一つ注意すべきことがある。それが、「不平を言わない」ということです。主イエスのもてなしを受けている者として、不平を言わずにもてなし合うということです。私たちは、毎月、第一主の日に、主の晩餐にあずかります。そのようにして、私たちは、主イエス・キリストのもてなしを受けているのです。私たちは主イエス・キリストのもてなしを受けている者として、不平を言わずに、互いにもてなし合うことが求めてられているのです。

3.神が栄光を受けるために

 10節と11節をお読みします。

 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように。

 ここでの賜物は、聖霊の賜物のことです。神様によって与えられている才能、能力のことです。「賜物」と訳されている言葉は、カリスマです。そして、「恵み」と訳されている言葉は、カリスです。神様が恵み(カリス)として与えてくださったもの、それが賜物(カリスマ)であるのです。「イエスは主である」と告白する私たちには、それぞれに聖霊の賜物が与えられています。皆が賜物を授かっているのです。先程、愛餐会のことを申しましたが、料理を作ることも賜物ですよね。私たちはそれぞれ賜物を授かっている。それゆえ、私たちには、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えることが求められているのです。自分に与えられている賜物を、自分だけのために用いるのではなく、兄弟姉妹のために用いることが求められているのです。

 ペトロは、神のさまざまな賜物のうち、語る賜物と奉仕する賜物について記しています。「語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい」。このペトロの言葉は、私のような説教者が肝に銘じるべき言葉であります。私が説教で語ることは、わたしの主義主張であってはならない。わたしが聞き取った神の言葉でなくてはならないのです。また、説教で用いる言葉も、神の言葉を語るのに、ふさわしい言葉であることが求められるのです。さらに言えば、神の言葉をふさわしく語るとは、自分がその神の言葉に従う者として語るということです。語る者には、神の言葉に対する聖なる畏れと愛が求められるのです。

 また、ペトロは、奉仕をする人について、次のように記します。「奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい」。教会は、教会員のさまざまな奉仕によって成り立っています。私たちの教会も、そうですね。奏楽の奉仕、献金の奉仕、会計の奉仕、お花の奉仕、説教題を書く奉仕、掃除の奉仕、礼拝に出席する奉仕、お祈りの奉仕、とさまざまな奉仕によって、教会は成り立っているのです。わたしは今、「礼拝に出席する奉仕」と言いましたが、礼拝に出席することが、一番の奉仕であることを強調しておきたいと思います。イエス様が喜ばれるのは、礼拝に出席して、御言葉に耳を傾けることであるのです(ルカ10:42参照)。このように、教会は多くの人の奉仕によって成り立っているのですが、そのとき大切なことは、神がお与えになった力に応じて奉仕をするということです。それは言い換えれば、無理な奉仕はしないということです。奉仕とは、究極的には主イエスに仕えることですから、そこには喜びがあるはずです。しかし、そこに喜びがなくなっているならば、それは与えられた力を超えて奉仕していることによるのです。

 語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語る。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕をする。それによって、礼拝を中心とする教会の営みは成り立っています。その教会の営みの目的は何か。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためであるのです。説教者が栄光を受けるためではありません。また、奉仕をする人が栄光を受けるためでもありません。私たちを、イエス・キリストによって救ってくださった神様が栄光を受けるためであるのです。私たちは、イエス・キリストの名によって集まり、神様を礼拝しています。教会の営みは、礼拝をささげ続けるための営みです。その礼拝において、私たちが願うこと、それは、イエス・キリストを通して、神様が栄光をお受けになることであるのです。礼拝に出席して、私たちが、イエス・キリストの父なる神様は本当にすばらしい御方である。恵み深い御方であることを知って、神様の御名をほめたたえる。そのとき、私たちを通して、神様の栄光がこの地上にあらわれるのです。

 ペトロは、今朝の御言葉を頌栄の言葉(神様をほめたたえる言葉)で結んでいます。「栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン」。この祈りこそ、礼拝に集う私たち一人一人の祈りでありますね。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように。そのような祈りをもって、私たちは、教会として集い、礼拝をささげるのです。私たちが礼拝に集うのには、さまざまな目的があると思います(兄弟姉妹との交わり、自分の信仰を保つためなど)。その究極的な目的が、神様の栄光をあらわすという目的であるのです(ウェストミンスター小教理問1「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」参照)。そのことを、改めて心に刻んで、私たちは、ペトロの祈りに、「アーメン、そのとおり」と声を合わせたいと願います。

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