神のものは神に返しなさい 2022年1月09日(日曜 朝の礼拝)

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神のものは神に返しなさい

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 12章13節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:13 さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。
12:14 彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」
12:15 イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」
12:16 彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、
12:17 イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。マルコによる福音書 12章13節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『マルコによる福音書』の第12章13節から17節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 13節に、「さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした」とあります。この「人々」は、第11章27節に記されていた「祭司長、律法学者、長老たち」であります。祭司長、律法学者、長老たち、彼らはユダヤの最高法院の議員たちであります。彼らは、イエス様を殺そうとしておりました。第11章18節に、そうはっきり記されていました。「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである」。祭司長たちや律法学者たちは、神殿を強盗の巣と呼ぶイエス様を殺そうとしていました。しかし、群衆がイエス様を支持していたので、できなかったのです。その祭司長、律法学者、長老たちが、イエス様を陥れるために、言葉の罠を作ったのです。その言葉の罠を仕掛けるために、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々を、イエス様のもとに遣わしたのです。「ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々」。この組み合わせは、第3章6節にも記されていました。そこには、こう記されています。「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」。ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々も、イエス様を殺そうとしていました。イエス様を殺すという目的においては、最高法院の議員たちも、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々も一致していたのです。それにしても、「ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々」という組み合わせは、奇妙な組み合わせであります。「ファリサイ派の人々」は、律法を守ることに熱心な真面目な人々でありました。彼らは異邦人であるローマ帝国の支配を快く思っていませんでした。他方、「ヘロデ派の人々」は、ヘロデの支配を支持する人々でありました。ヘロデ家は、ローマ帝国の力添えによって王になりましたので、彼らはローマの支配を歓迎しておりました。ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々、彼らはイエス様を殺すという目的においては一致していても、ローマ帝国の支配については正反対の立場であったのです。その彼らが、イエス様にこう言うのです。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないでしょうか」。ここで、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々は、イエス様をほめちぎります。イエス様を持ち上げて、自分たちの問いに答えずにはおれないようにするのです。彼らの問いは、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか。納めてはならないでしょうか」というものでありました。これが彼らの仕掛けた言葉の罠であります。ここでの「皇帝」は、ローマ皇帝、カエサルのことです。また、ここでの「税金」は、人頭税のことです。人頭税は、ローマ帝国が支配する属州の人々に課した税金でありました。ユダヤの人々もローマ帝国の支配の下にありましたから、ローマの貨幣で人頭税を支払う義務を負わされていたのです。ユダヤの人々は、年に一度、一デナリオンを人頭税として、ローマ帝国に納めねばならなかったのです。一デナリオンは、一日分の労働賃金でありますから、金額としてはそれほどではありません。しかし、人頭税は、神の民であるユダヤ人にとって、大変な屈辱でありました。『使徒言行録』の第5章37節に、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたことが記されています。住民登録は、人頭税を課すためのものでありました。それで、ガリラヤのユダは立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたのです。彼らは、ローマ皇帝に人頭税を納めることは、ローマ皇帝の支配を受け入れることであり、主がイスラエルの王であることを否定する冒涜行為であると考えたのです。このような人々が後に、「熱心党」と呼ばれるようになったと言われます。「熱心党」は、ローマ帝国の支配に反対する者たちで、武力を用いることもよしとしました。今で言うと、テロリストですね。この「熱心党」によって、後に、ユダヤの国はローマ帝国との戦争へと突き進んでいくことになるわけです。このように、ローマ皇帝に人頭税を納めるべきか、納めるべきではないかという問題は、ユダヤ民族のアイデンティティー(自己同一性)に関わるデリケートな問題であったのです。

 この問題が、言葉の罠であるのは、どちらに答えても、イエス様を陥れることができるからです。もし、イエス様が「皇帝に税金を納めるべきである」と答えるならば、イエス様を取り巻いていた群衆はがっかりして、イエス様のもとから離れていったでしょう。なぜなら、多くの人々は、皇帝の支配を快く思っていなかったからです。ユダヤの人々は、イスラエルをローマ帝国の支配から解放してくれるメシア、王を待ち望んでいました。それは具体的に言えば、皇帝に人頭税を納めなくて済むようにしてくれるメシア、王を待ち望んでいたということです。群衆の中には、イエス様こそ、そのようなメシア、王ではないかという期待が高まっていたと思います。そのイエス様の口から、「皇帝に税金を納めるべきである」との言葉を聞けば、群衆は、興ざめして、イエス様から離れていくに違いないのです。そうすれば、祭司長たちは、群衆を恐れることなく、イエス様を捕らえることができるわけです。

 また、もし、イエス様が「皇帝に税金を納めるべきではない」と答えるならば、祭司長たちは、イエス様をローマ皇帝の支配に背く者として訴えることができるわけです。自分たちの手を汚すことなく、ローマの総督に訴えて、イエス様を殺すことができるのです。

 その彼らの下心を見抜いて、イエス様はこう言われます。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」。イエス様は、彼らが真理の道を教えて欲しいのではなく、自分を試して、陥れようとしていることを見抜かれました。そして、彼らに、人頭税として納めるデナリオン銀貨を持って来るように言うのです。彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエス様は、「これは、だれの肖像と銘か」と言われました。彼らは「皇帝のものです」と答えます。ローマ帝国の貨幣であるデナリオン銀貨には、皇帝の横顔の形と「崇拝すべき神の崇拝すべき子、皇帝ティベリウス」という文字が刻まれていました(週報の図を参照)。デナリオン銀貨には、「皇帝は崇拝すべき神の子である」と刻まれていたのです。そのことを踏まえて、イエス様はこう言われるのです。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。「皇帝のもの」とは、皇帝の肖像と名前が刻まれているデナリオン銀貨のことです。「デナリオン銀貨には、皇帝の肖像と名前が刻まれている。それは皇帝のものだから、皇帝に返したらよい」とイエス様は言われるのです。そして、続けて、「神のものは神に返しなさい」と言われたのです。このイエス様の言葉は、皇帝が神であることを否定する言葉です。デナリオン銀貨には、「皇帝は崇拝すべき神の子である」と書いてあるのですが、イエス様は、皇帝と神を区別することによって、皇帝が神であることを否定したわけです。では、「神のもの」とは何でしょうか。「神のものは神に返しなさい」と言われる「神のもの」とは何か。それは、私たち人間のことです。私たち人間は、神のかたちに似せて造られ、その心に神の言葉を書き記されているゆえに、神のものであるのです。私たち人間は、神のかたちに似せて造られているゆえに心を持つ人格的な存在であり、その心に神の言葉が記されているゆえに宗教心や良心があるのです。この「神のもの」の中に、皇帝も含まれています。なぜなら、皇帝も神のかたちに似せて造られ、その心に神の言葉を書き記されている人間であるからです。

 ここで、イエス様は、皇帝に税金を納めるべきだと言われたのでしょうか。イエス様は、「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言われたのですから、確かに、皇帝に税金を納めるべきであると言われています。しかし、それは、皇帝を神とする服従のしるしではありません。ローマ帝国のさまざまな恩恵にあずかっている者として納める税金であるのです。ユダヤ人もローマ帝国のさまざまな恩恵にあずかっているのですから、皇帝に税金を納めるべきであるのです。私たちでしたら、「日本銀行券」と記されている紙幣や「日本国」と記されている貨幣を用いて生活している者として、日本国に税金を納めるべきであるのです。

 イエス様は、続けて「神のものは神に返しなさい」と言うことによって、ローマ皇帝を神ではなく、一人の王として位置づけました。先程、「神のものとは、私たち人間そのものである」と申しましたが、その私たち人間が全身全霊でささげる礼拝も神のものでありますね。ローマ皇帝は、自らを神として礼拝することを求めました。絶対的な服従を求めたのです。それは、ローマ皇帝だけではなくて、大日本帝国憲法下における天皇にも言えることです。今は、日本国憲法によって、天皇は国家の象徴となっています。しかし、天皇を国家の元首として、国家主義的な国にしようとする動きが根強くあります(日本会議、自民党の憲法草案など)。国家主義とは、個人ではなく、国家を第一する考え方ですね。分かりやすく言えば、「国のために生き、国のために死ぬことを誉れとする」のが国家主義であります。戦前、戦時中の教育は、まさにそのような国家主義の教育でありました。そのような国家主義の国に、日本を戻そうとする動きが根強くあるのです。ですから、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というイエス様の御言葉は、私たちとは関係のない御言葉ではありません。ある人は、日本の教会の歴史を振り返って、「日本の教会は、神のものを皇帝に返すことを強制されてきた」と述べています。天皇を現人神としなければ、生きていかれない社会は、まさに、神のものを皇帝に返すことを強制する社会であったと言えます。しかし、今は違います。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返す」ことができる社会です。私たちは、「生きるとすれば、主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」と大胆に語ることができるのです(ローマ14:8)。

 イエス・キリストの使徒パウロが、『ローマの信徒への手紙』の第13章で記しているように、私たちは、すべての権威が神様によって立てられていることを信じています。ですから、私たちは、神様によって立てられている国家を重んじて、税金を納めるべきです。そこで、パウロは、次のように記しています。「あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」(ローマ13:6、7)。では、私たちキリスト者は、国家の言うことを何でも聞くべきなのでしょうか。そうではありません。国家が神様の掟に背くことを命じるとき、私たちは、国家に従ってはならない。人間ではなく、神に従わなくてはならないのです(使徒5:29参照)。そのことを教えているのが、『ヨハネの黙示録』の第13章です。そこには、ローマ帝国が獣として描かれています。ローマ帝国という獣は、自らを神として礼拝することを強要しました。そのような状況において、主イエスは御自分の教会に、忍耐と信仰を求められたのです。すなわち、獣ではなく、屠られた小羊である御自分を礼拝することを求められたのです。今朝の御言葉で言えば、「神のものを神に返す」ことを求められたのです。

 国は私たちに対して権威を持っています。しかし、神様は、その国よりも権威を持っておられます。国と言っても、そこにいるのは人間であって、神ではありません。私たちは、まことの神様を知っている者たちとして、国家を非神話化しなければなりません。まことの神様を知っている者として、神でないものを神としてはならないのです。私たち人間は、創造主である神様に、全身全霊をささげて生きることが求められているのです(マルコ12:30参照)。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。この主の御言葉を心に刻んで、私たちは神のものとして歩んで行きたいと願います。

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