成長させてくださる神 2021年12月26日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:6 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
3:8 植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。
3:9 わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。コリントの信徒への手紙一 3章6節~9節

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 今朝は、私たち羽生栄光教会の伝道開始41周年を感謝して、礼拝をささげています。1979年12月30日に、「羽生栄光伝道所設立式」が行われました。その時の会員数は陪餐会員5名と未陪餐会員4名の合計9名でありました。そして、1980年1月1日から、羽生の地で礼拝を開始しました。それから、41年間、今日に至るまで、休むことなく、主の日の礼拝をささげて来たのです。

 私たち羽生栄光教会が、どのようにして始められたのかは、『10年史』に詳しく記されています。福音伝道教団の羽生キリスト教会の会員であった人たちが、改革派信仰に目覚めて、羽生の地に、改革派教会を立てられました。二つの家族(のちに三家族)が、牧師を招聘して、伝道所を設立したのです。そして、神様は、その小さな群れに、会員を加えてくださり、今日まで成長させてくださいました。

 羽生栄光教会の初代牧師は嘉成公悦先生であります。嘉成先生は、5年間、奉仕してくださり、教会の基礎を築いてくださいました。次に、今井献先生が13年間、奉仕してくださいました。今井先生のとき、1990年4月22日に、羽生栄光伝道所は教会設立を果たしました。牧師と長老たちからなる小会が霊的に統治する教会になりました。次に、矢内昭二先生が5年間、奉仕してくださいました。矢内先生の時に、羽生栄光教会は宗教法人になりました。これらのことについては、『25年史』に詳しく記されています。矢内先生の次に、私が赴任しまして、今、19年目になっています。パウロは、6節で、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」と記しました。それになぞらえて言えば、「嘉成先生は植え、今井先生、矢内先生、わたしは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神である」のです。

 9節に、「あなたがたは神の畑、神の建物なのです」とありますように、私たち羽生栄光教会は、「神の畑」であるのです。神の畑ということを考えるときに、忘れてはならないのは、主イエス・キリストが、神の国を成長する種に譬えられたことです。『マルコによる福音書』の第4章26節から29節までをお読みします。新約の68ページです。

 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂に豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

 神の国とは神の王国、神の王的な御支配のことです。神の国は、イエス様において到来しました(マルコ1:15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」参照)。イエス様が、あらゆる病気を癒され、悪霊を追い出されたことは、イエス様において、神の国が到来していることのしるしでありました。では、イエス様において到来した神の国の支配を、私たちは今、どこに見ることができるのでしょうか。それは、イエス・キリストの名によって集まり、ささげられる礼拝においてであります。神様とイエス様を王たちの王、主たちの主と告白し、従う私たちの只中に、神の国は到来しているのです。イエス様は、その神の国を人が種を蒔くことに譬えられます。人が種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は成長して、芽を出し、茎を伸ばし、穂を実らせるのです。28節に、「土はひとりでに実を結ばせる」とありますが、それは種の中に、命があるからですね。その種の中にある命が土の中で育まれて、芽を出し、茎を伸ばし、穂を実らせるのです。イエス様は、「わたしにおいて到来した神の国はそのようなものだ」と言われるのです。神の国の成長、それは教会の成長と言ってもよいと思います。先程も申しましたように、神の国の中心的な現れは、キリストの教会がささげる礼拝であるからです。教会を成長させるためには、どうしたらよいのでしょうか。それは、神の言葉という種を蒔き続けることですね。神の言葉という種を蒔いて、寝起きしているうちに、神の言葉という種は、それを聞いた人の心の中で育まれ、成長していくのです。そして、ついには、「イエスは主である」との信仰の実を結ぶのです。ここで、イエス様が言われていることは、とても楽観的ですね。神の国は、教会は、命の言葉を蒔き続けるならば、自ずと成長していく。「自ずと成長していく」とは、言い換えれば、「神様が成長させてくださる」ということです。こう聞きますと、「現実はそんなに簡単ではありません」と言いたくなるかも知れません。しかし、イエス様は「命の言葉を蒔き続けるならば、あとは放っておいてよろしい。命の言葉は自ずと、神様によって、成長させられ、実を結ぶから」と言われるのです。ここで、イエス様は、水を注ぐことも言われていません。それほどまでに、イエス様は、種が持つ命の力と、種を成長させてくださる神様に信頼しているのです(イザヤ55:11参照)。

 神の言葉という種を蒔くことは、一度限りのことではありません。「嘉成先生が、伝道開始のときに、一度だけ種を蒔いた」ということではありません。それは、歴代の牧師たちが、週ごとの礼拝においてしてきたことであります。礼拝において、聖書が読まれ、その解き明かしである説教が語られる。そのとき、それを聴いている人々の心に、御言葉の種が蒔かれるのです。そして、説教者は、蒔かれた御言葉の種が、一人一人の心の内に育まれ、生活において実を結ぶことを祈るのです。御言葉が持つ命の力に信頼して、成長させてくださる神様に祈るのです。

 また、教会のチラシを配ることも、種蒔きと言えましょう。そのチラシには福音のメッセージと聖書の御言葉が記されているからです。私たちが、教会の外にいる人たちにできることはそれほどないと思います。求めている人に対してならば、語ることができますが、求めていない人に対して語ることは難しいからです。『使徒言行録』の第16章に、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」という有名な御言葉があります。しかし、この御言葉も、求めていない人に語られたのではありません。パウロは、この言葉を、「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」と真剣に問うた看守に語ったのです。そのことを考えるときに、チラシを配っても、人がなかなか来ない理由がよく分かります。求めていない人の心に、福音のメッセージはなかなか届かないのです。しかし、求めている人もいるはずでありますね。ですから、私たちは、御言葉の種を蒔き続けなくてはならないのです。日曜日ごとに主の日の礼拝をささげ、この礼拝へと人々を招き続けねばならないのです。そして、そのようにして、私たち自身が、命の言葉によって、教会としても、キリスト者としても、成長していくのです(一テモテ4:16参照)。

 かつて仙台教会の牧師であった吉岡繁先生が、1988年に開催された二中会合同協議会で、「東日本伝道における東北と首都圏の教会協力の回顧と展望」という講演をされました。その講演記録を一部抜粋して読みたいと思います(『第1回二中会合同協議会記録』27~29頁)。

 先にふれましたように、地方都市伝道においては、伝道の効果は急速にはあがりません。それどころか、技術文明が今のような方向で進む限り、過疎地においては伝道の数的効果は恒久的に期待できません。そこで伝道するには忍耐が必要であり希望が必要です。忍耐と希望は、主が自分をここに遣わして下さっているという召命感と、効果があがらない伝道にも意味を見出す伝道観によって支えられます。ここでは、伝道の効果という視点が問われなければなりません。伝道は効果をあげることが目標ではないということは、わが教会では大方が賛成する考えだと思いますが、伝道には又当然効果が期待されるのです。それは、神の祝福であり、福音に仕える者はその実によって励まされるのです。私たちは伝道の成功談とか教会成長論に心をひかれるのです。そして、もし伝道の効率を求めるならば、伝道地を大都市とその周辺に集中するのは当然でしょう。私たちが、伝道の目標は教会形成であるというとき、教会の経済的自立という経営的視点が入っていることを否定できません。伝道の効率をあげるという次元で考えるとき、地方都市伝道の評価は低くなります。

 東北地方に伝道しながら感じることですが、地方都市伝道は、近隣の教会から離れた孤立感の中で(一県一教会)、貧しさに耐え、会員数も遅々として増加せず、折角育てた若者は都会に就職を得、老人のみ残るという状況ですから、教会はいつまでたっても自立できず、援助は半永久的に続けられねばならないのです。この状況はとめようがありません。若者が都会へ出ていってしまうと嘆く牧師や長老の子女すらが、そこにとどまれないというのが現実です。

 伝道の努力が効果的にあらわれなくても、伝道の意味はあるのか。それでも尚喜んで伝道できることを可能にする伝道観は何か。私は敢えて答を書きません。皆さんが見事な答をもっていると信じています。ただ、このような伝道の根本的問題を、自明なこととして棚上げしてしまうのではなく、現実の伝道の苦闘の中で、くりかえし共同で問い直していくことが大切であると、私は思います。そうでないと、地方伝道は積極的な意味をもたず、大都市伝道に対して、いたずらにコンプレックスを生むのみだと思われます。

 「効果があがらない伝道にも意味を見出す伝道観とは何か」。これはまことに重い問いであります。このことについて、私なりに考えてきました。そして、コロナ禍にあって、礼拝さえままならず、外に向かって伝道ができないという状況において、その答えをようやく見つけたように感じています。それは、「効果がなくても、伝道そのものに意味がある」ということです。伝道をしないと教会はだめになってしまうのです。なぜなら、私たちの主イエス・キリストの福音は喜びの知らせであり、だれかに宣べ伝えずにはおれない良き知らせであるからです。コロナ禍において、明らかになったこと。それは、教会は礼拝をささげるために存在していること。また、礼拝そのものが伝道であること。伝道とは礼拝へと人々を招くことであるということです。そこで問題となるのは、効果ではありません。チラシを配って、たとえ人が来なくても、そのチラシを配る行為によって、私たち自身の信仰が養われるのです。そして、そのとき、私たちは、主イエス様に信頼して、祈ることができるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の302ページです。

 「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」。私たち羽生栄光教会を成長させてくださるのは神様であります。神様は、牧師だけではなく、長老たちや執事たち、教会員一人一人の奉仕を有効に用いて、羽生栄光教会を成長させてくださるのです。それは必ずしも、教会員の数が増えていくことではないかも知れません。私たち人間の目には、衰退しているように映るかも知れません。しかし、神様の目にはそうではないのです。神様の目に映る教会は、ひとつの聖なる公同の使徒的な教会であるからです(ニケア信条参照)。私たちは、教会というと、各個教会のことを考えます。私たちなら、羽生栄光教会のことを考えるのです。しかし、私たち羽生栄光教会は、ひとつの聖なる公同の使徒的な教会の部分であるのです。そして、ひとつの聖なる公同の使徒的な教会は、天上と地上を貫く教会であるのです。教会員の方が天に召されると、教勢としては、会員数が減ります。しかし、天上の教会のことまで考えるならば、会員数は減っていないのです。神様が御覧になっている教会は、天上と地上を貫く、ひとつの聖なる公同の使徒的な教会です。そのような神様の視点に立つならば、私たちの働きが決して無駄になることはないことが分かるのです(黙示14:13参照)。

 今朝は最後に、復活された主イエス・キリストの御言葉を聞いて終わりたいと思います。新約の60ページ。『マタイによる福音書』第28章18節から20節までをお読みします。

 イエスは、近寄って来ていわれた。「わたしは天と地の一切の権能を授けられたいる。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の御名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

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