権威についての問答 2021年12月05日(日曜 朝の礼拝)

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権威についての問答

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 11章27節~33節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:27 一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、
11:28 言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」
11:29 イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
11:30 ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」
11:31 彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。
11:32 しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。
11:33 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」マルコによる福音書 11章27節~33節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 前回(11月14日)、私たちは、いちじくの実とも言える、祈りについて教えられました。イエス様は、私たちに、神の子としての全幅の信頼をもって、父なる神様に祈るように教えてくださいました。今朝の御言葉はその続きであります。

1.何の権威で、このようなことをしているのか

 イエス様が神殿を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来ました。祭司長、律法学者、長老たち、この三者は、ユダヤの最高法院を構成する者たちであります(週報の図を参照)。ですから、祭司長、律法学者、長老たちは、最高法院を代表する者たちとして、イエス様のもとにやって来たのです。彼らは、イエス様にこう言います。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」。ここでの「このようなこと」は、15節以下に記されている、イエス様が神殿から売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返されたことを指しています。神殿は、祭司長、律法学者、長老たちからなる最高法院が管理していました。彼らは、その権威を神様から与えられていると自負していたのです。その自分たちが管理している神殿で、イエス様は商人を追い出すという暴挙に出たのです。さらに、イエス様は、人々に教えてこう言われました。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった」。このようにイエス様は、神殿を管理している祭司長たちを非難されたのです。神殿祭儀がもたらす莫大な利益に心を奪われて、祈りをおろそかにしている祭司長たちを非難されたのです。これを聞いて、祭司長たちはどうしたでしょうか。悔い改めたでしょうか。そうではありません。「祭司長たちや律法学者たちは、これを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った」のです(18節)。エルサレム神殿を「強盗の巣」と呼んで冒涜する者は、死に値すると彼らは考えたのです。そうであれば、現行犯で捕らえればよかったのですが、できませんでした。なぜなら、群衆が皆、イエス様の教えに心を打たれていたからです。それで、彼らはイエス様を恐れて、手を出すことができなかったのです。おそらく、祭司長たちはその晩に集まって、イエス様について話し合ったと思います。そして、翌日、最高法院の代表者として祭司長、律法学者、長老たちが、イエス様のもとにやって来て、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と問うたのです。この彼らの発言の背後には、自分たちは神様によって権威を与えられて、神殿祭儀を管理しているという自負心があります。最高法院の議員の中には祭司長たちがおり、その議長は大祭司でありました。神様によって油を注がれた者たちが、神様の名によって、神殿祭儀を営んでいたのです(出エジプト29章参照)。その神殿祭儀を妨害し、神殿を「強盗の巣」と呼ぶ、あなたは何の権威を持っているのか。だれがその権威を与えたのか。このように、祭司長たちは、権威ある者として、イエス様を尋問するのです。

2.イエス・キリストの権威

 「権威」(エクスーシア)とは、「人を従わせる権利と力」を意味します。イエス様の権威については、第1章21節以下のイエス様がカファルナウムの会堂で、汚れた霊を追い出すというお話しに記されていました。イエス様は安息日に、カファルナウムの会堂で教えられました。そのイエス様の教えを聞いた人々は非常に驚きました。なぜなら、イエス様は律法学者のようにではなく、権威ある者として教えられたからです。律法学者は、聖書の御言葉や先祖の言い伝えの権威に基づいて語りました。しかし、イエス様は、教えそのものに、人を従わせる権利と力、権威があったのです。そして、そのイエス様の権威は、悪霊さえも従う権威であったのです。人々は、イエス様が汚れた霊を追い出されたのを見て、こう言いました。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」。このようにイエス様には、悪霊を従わせる権威があるのです。しかし、第3章を見ますと、エルサレムから下って来た律法学者たちは、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言いました。それに対してイエス様は、「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と言われて、御自分が、神の霊、聖霊の力によって悪霊を追い出していることをはっきりと示されたのです。

 また、イエス様は、悪霊だけではなく、人間をも従わせる権威を持っておられます。第2章13節以下に、「レビを弟子にする」というお話しが記されています。イエス様は、レビが収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われました。すると、レビは立ち上がって、イエス様に従ったのです(1:16~20の「四人の漁師を弟子にする」も参照)。このようにイエス様は、人を従わせる権威を持っておられるのです。

 また、イエス様は、地上で罪を赦す権威を持っておられます。第2章に、イエス様が中風の人をいやすお話しが記されていました。イエス様は、中風に人を運んで来た人たちの信仰を見て、中風の人にこう言われます。「子よ、あなたの罪は赦される」。これを聴いていた律法学者たちは、心の中であれこれと考え始めます。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」。イエス様は、そのような彼らの考えを見抜かれて、御自分が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせるために、中風の人をいやされたのです。

 また、イエス様は、風や海を従わせる権威を持っておられます。第4章に、イエス様が突風を静めるというお話しが記されていました。激しい突風によって、舟が水浸しになるほどの嵐の中で、弟子たちは、眠っているイエス様を起こして、「先生、私たちは滅んでしまいます」と叫びました。イエス様は、起き上がり、風を叱り、湖に、「黙れ、静まれ」と言われます。すると、風はやみ、すっかり凪になったのです。それを見て弟子たちは、非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言ったのです。

 イエス様の教えには権威がありました。それは、悪霊を従わせるほどの権威でありました。また、イエス様は、人を従わせる権威、地上で罪を赦す権威、風や湖を従わせる権威を持っておられます。このような権威をイエス様は、どのようにして、また誰から与えられたのでしょうか。福音書記者マルコは、その答えをイエス様が登場された最初の場面で記しています。第1章9節から11節にこう記されています。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上げるとすぐ、天が裂けて霊が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が天から聞こえた」。ここには、神様がイエス様に聖霊を注いで、メシアとされたことが記されています。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。この天からの声は、イエス様が神の独り子であり、イスラエルの王であり、主の僕であることを示しています(創世22:2、詩2:7、イザヤ42:1参照)。イエス様が、神様によって聖霊を注がれて、与えられた権威は、神の独り子としての権威であり、イスラエルの王としての権威であり、主の僕としての権威であるのです。そのイエス様から権威ある教えを聞き、イエス様の力ある業を見てきた弟子たちが、第8章において、イエス様に、「あなたは、メシアです」と告白するわけですね。私たちも、『マルコによる福音書』を最初から学んできましたので、イエス様の権威が神様から与えられたメシアの権威であることを知っているわけです。そして、イエス様は、そのことを、子ろばに乗って、エルサレムに入城されることによって示されました。また、エルサレム神殿から商人を追い出すことによって、示されたのです。旧約聖書の『ゼカリヤ書』は、柔和な王が子ろばに乗ってエルサレムに入城すること(ゼカリヤ9:9参照)。また、終わりの日には、神殿から商人がいなくなることが預言していました(ゼカリヤ14:21参照)。イエス様は、その預言を成就する御方として、子ろばに乗ってエルサレムに入り、神殿から商人たちを追い出されたのです。そのようにして、御自分が約束のメシア、主によって油を注がれた者であることを示されたのです。

3.権威についての問答

しかし、祭司長たちは、イエス様がメシアであることを認めませんでした。彼らは、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」とイエス様に問うのです。そのことを、イエス様の口からあえて言わせようとするのです。それは、イエス様を陥れるためであります。彼らは、イエス様が、「神の権威によってである」と答えるならば、神を冒涜した者として殺そうとしていたのです(レビ24:15参照)。また、イエス様が、「人間(自分)の権威によってである」と答えるならば、神殿を冒涜した者として殺そうとしていたのです。祭司長たちの問いは、どのように答えても、イエス様を陥れる問いであったのです。そのことをイエス様は見抜かれまして、こう言われます。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも人からのものだったか。答えなさい」。イエス様は、質問に対して、質問で答えられました。このようなことは、当時の律法学者たちの議論でも行われていたようです。イエス様は、「わたしの質問に答えたら、わたしもあなたたちの質問に答えよう」と言われるのです。ここでの「ヨハネ」はイエス様に先立って、活動した洗礼者ヨハネのことであります。福音書記者マルコは、イエス様の活動に先立って、洗礼者ヨハネの活動を記しました。洗礼者ヨハネは、荒れ野で、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。そして、多くの人がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けたのです。しかし、最高法院の議員である祭司長たちは、ヨハネから洗礼を受けなかったようです。それは、彼らがヨハネの洗礼を神からのものだとは認めていなかったからです。ですから、祭司長たちの答えは、「ヨハネの洗礼は人からのものだ」となるはずです。しかし、彼らは、自分たちがどう判断するかよりも、その判断によってもたらされる不利益について論じ合います。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。しかし、『人からのものだ』と言えば・・・・・・」。祭司長たちはヨハネを信じなかったのですから、ヨハネの洗礼が神からのものではないと考えていました。しかし、彼らは「人からのものだ」とは言えなかった。なぜなら、群衆がヨハネのことを本当に預言者だと思っていたからです。祭司長たちは、群衆からの支持を失うことを恐れたのです。また、『ルカによる福音書』によれば、民衆から石を投げられて殺されることを恐れたのです(ルカ20:6「『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから」参照)。そこで、祭司長たちは、イエス様に、「分からない」と答えました。すると、イエス様は、こう言われます。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」。このように、イエス様は、祭司長たちの言葉の罠から逃れられたのです。また、ここには、ヨハネの洗礼が神からのものであることが分からないならば、イエス様の権威が神からのものであることが分からないという真理が秘められています。ヨハネの洗礼が神からのものであることが分からない人には、イエス様の権威が神からのものであることが分からないのです。

神様は、イエス様に先立って、洗礼者ヨハネを遣わされ、人々が悔い改めて、洗礼を受けることをお求めになりました。そして、ヨハネの後から来られる優れた方であるイエス様が、ヨハネの洗礼に神からの権威を認めて、洗礼を受けられたのです。イエス様は、罪のない御方であり、何一つ罪を犯したことのない御方ですから、ヨハネから洗礼を受ける必要はありませんでした(ヨハネの洗礼は、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼!)。しかし、イエス様は、ヨハネの洗礼に神からの権威を認めて、御自分の民の罪を担われる御方として、洗礼を受けられたのです。そして、そのようなイエス様に、神様は聖霊を注いで、メシアとしての権威をお与えになったのです。

 現代の私たちにとって、ヨハネの洗礼を天からのものと認めるとは、どのようなことでしょうか。それは、自分が神様の御前に罪深い者であることを認めて、イエス・キリストを神の御子、罪人の救い主と信じることです。洗礼者ヨハネは、自分の後から来られる優れた方、イエス・キリストを証ししました。私たちは、洗礼者ヨハネの証しを受け入れて、イエス・キリストを信じているのです。それゆえ、イエス・キリストを信じる私たちは、ヨハネの洗礼が神様からのものであったことをも信じているのです。  

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