へりくだる神 2021年11月28日(日曜 朝の礼拝)

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へりくだる神

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 18章32節~51節

聖句のアイコン聖書の言葉

18:32 主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。
18:33 神はわたしに力を帯びさせ/わたしの道を完全にし
18:34 わたしの足を鹿のように速くし/高い所に立たせ
18:35 手に戦いの技を教え/腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。
18:36 あなたは救いの盾をわたしに授け/右の御手で支えてくださる。あなたは、自ら降り/わたしを強い者としてくださる。
18:37 わたしの足は大きく踏み出し/くるぶしはよろめくことがない。
18:38 敵を追い、敵に追いつき/滅ぼすまで引き返さず
18:39 彼らを打ち、再び立つことを許さない。彼らはわたしの足もとに倒れ伏す。
18:40 あなたは戦う力をわたしの身に帯びさせ/刃向かう者を屈服させ
18:41 敵の首筋を踏ませてくださる。わたしを憎む者をわたしは滅ぼす。
18:42 彼らは叫ぶが、助ける者は現れず/主に向かって叫んでも答えはない。
18:43 わたしは彼らを風の前の塵と見なし/野の土くれのようにむなしいものとする。
18:44 あなたはわたしを民の争いから解き放ち/国々の頭としてくださる。わたしの知らぬ民もわたしに仕え
18:45 わたしのことを耳にしてわたしに聞き従い/敵の民は憐れみを乞う。
18:46 敵の民は力を失い、おののいて砦を出る。
18:47 主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ。
18:48 わたしのために報復してくださる神よ/諸国の民をわたしに従わせてください。
18:49 敵からわたしを救い/刃向かう者よりも高く上げ/不法の者から助け出してください。
18:50 主よ、国々の中で/わたしはあなたに感謝をささげ/御名をほめ歌う。
18:51 主は勝利を与えて王を大いなる者とし/油注がれた人を、ダビデとその子孫を/とこしえまで/慈しみのうちにおかれる。詩編 18章32節~51節

原稿のアイコンメッセージ

 前回(先週)は、1節から31節よりお話ししましたので、今朝は、32節から51節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

 第18編は、1節にありますように、「主の僕の詩。ダビデの詩」であります。ダビデは、主に油を注がれてイスラエルの王となりました。そのダビデが「主の僕」と呼ばれていることは深い意味があります。なぜなら、王は主の御言葉に従うことによって、イスラエルのまことの王が主であることを表すことが求められていたからです。この詩編は、「主がダビデをすべての敵の手から、また、サウルの手から救い出されたとき」に歌われました(サムエル下22章参照)。サウルは、イスラエルの最初の王であり、ダビデのことを妬んで、殺そうとしました。ダビデは、サウルの手を逃れて、荒れ野をさまよいました。ダビデはサウルに捕らわれそうになりますが、主はダビデをサウルの手に渡しませんでした。このサウルの手からの救いを念頭において、前回は、31節までをお話ししました。とは言っても、30節の敵軍は、サウルのことではなくて、イスラエルの周辺にいた異邦人たちのことであります。ダビデはサウルと戦うことをしなかったからです。ダビデは、サウルから逃げるだけで、戦おうとはしませんでした。サウルを殺す機会が二度もありながら、ダビデはサウルを殺さなかったのです(サムエル上24、26章参照)。それは、サウルが主に油を注がれた者であったからです。ダビデは、サウルに油を注いで王とされた主を重んじるゆえに、自分の手でサウルを殺すことをせず、その裁きを主に委ねたのです。

 『サムエル記上』の第8章に、イスラエルの長老たちがサムエルに王を立てるように求めたことが記されています。それは、イスラエルを周辺の異民族(その代表はペリシテ人)から守るためでありました。周辺の異民族と戦うには、王を立て、王のもとにイスラエルが結束する必要があると長老たちは考えたのです。ダビデは、サウルに仕えていたときから、ペリシテ人と戦って来ました。ダビデは、イスラエルの王となる前から、王としての働きをしてきたのです。そして、ダビデは、イスラエルの王になった後で、周辺の異民族を撃退するだけではなく、屈服させるのです。『サムエル記下』の第8章を読みますと、ダビデがアラム、モアブ、アンモン、ペリシテ、アマレクといった異邦の民を屈服させたことが記されています。そのことを背景にして、『詩編』第18編は記されているのです。

 32節から35節までをお読みします。

 主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。神はわたしに力を帯びさせ/わたしの道を完全にし/わたしの足を鹿のように速くし/高い所に立たせて/手に戦いの技を教え/腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。

 ここには、ダビデの信仰告白が記されています。ダビデの敵である異民族もそれぞれに自分たちの神を持っていました。例えば、ペリシテ人は、ダゴンという神を持っていました。『サムエル記上』の第5章を読みますと、ペリシテ人がイスラエルから神の箱を奪ったこと。そして、その神の箱をダゴンの神殿に運び入れたことが記されています。そのようにして、ペリシテ人は、自分たちが信じているダゴンに、イスラエルの神の箱を戦利品としてささげたのです。しかし、翌朝になると、主の箱の前にダゴンの像がうつ伏せに倒れていたというのです。主の箱に、ダゴンがひれ伏していたのですね。主の箱は、ペリシテ人の町に災いをくだし、最終的には、ペリシテ人の手によってイスラエルに送り返されます。このように、イスラエルとペリシテ人との戦いは、イスラエルの神とペリシテ人の神との戦いであると考えられていたのです。そのことをダビデも、はっきりと弁えていました。『サムエル記上』の第17章に、ダビデがペリシテ人の代表戦士であるゴリアトと戦ったことが記されています。ゴリアトは、自分の神々の名によって、ダビデを呪い、「さあ、来い。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」と言いました。それに対して、ダビデはこう言います。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。わたしは、お前を討ち、お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される」。そして実際、ダビデは、石投げ紐と石一つでこのペリシテ人を撃ち倒すのです。

 敵との戦いは、敵が信じる神々との戦いでもある。それゆえ、敵軍を追い散らし、敵の城壁を越えたダビデは、「主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない」と歌うのです。ここでの「岩」は「安全と保護」の象徴であります。イスラエルの神、主だけが、私たちを守ってくださる御方であるのです。そして、それは、私たちに力を与え、私たちの道を完全にすることによるのです。ダビデが33節で、「わたしの道を完全にし」と記すとき、この完全は、31節の「神の道は完全」と結びついています。主は、ダビデに御自分の完全な道を守らせることによって、ダビデの歩みを完全にされるのです(22節も参照)。主は、ダビデの足を速くし、高い所に立たせ、戦いの技を教え、青銅の弓を引く力を与えてくださる神であるのです。主は、悪魔との霊的な戦いを戦う私たちに、力を与えてくださる神であるのです(エフェソ6:10、11「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」参照)。

 36節から46節までをお読みします。

 あなたは救いの盾をわたしに授け/右の御手で支えてくださる。あなたは、自ら降り/わたしを強い者としてくださる。わたしの足は大きく踏み出し/くるぶしはよろめくことがない。敵を追い、敵に追いつき/滅ぼすまで引き返さず/彼らを打ち、再び立つことを許さない。彼らはわたしの足もとに倒れ伏す。あなたは戦う力を身に帯びさせ/刃向かう者を屈服させ/敵の首筋を踏ませてくださる。わたしを憎む者をわたしは滅ぼす。彼らは叫ぶが、助ける者は表れず/主に向かって叫んでも答えはない。わたしは彼らを風の前の塵と見なし/野の土くれのようにむなしいものとする。あなたはわたしを民の争いから解き放ち/国々の頭としてくださる。わたしの知らぬ民もわたしに仕え/わたしのことを耳にしてわたしに聞き従い/敵の民は憐れみを乞う。敵の民は力を失い、おののいて砦を出る。

 ここで、特に注意したいのは、36節の後半であります。「あなたは、自ら降り/わたしを強い者としてくださる」。このところを、新改訳2017は次のように翻訳しています。「あなたの謙遜は私を大きくします」。ダビデは、神様に「あなたのへりくだりがわたしを大きくしてくださった」と言うのです。ダビデは、エッサイの八人の息子の末っ子であり、羊を飼う者でありました。その小さな者であるダビデに神様は目を留めてくださり、サムエルを通して油を注ぎ、サウルに代わるイスラエルの王とされました。それは、まさに、神様のへりくだりによるものであります(サムエル下7:18以下のダビデの祈りを参照)。神様のへりくだりによって、ダビデは今や、周辺の諸民族を屈服させる、国々の頭とされたのです(サムエル下8章参照)。同じことが、主イエス・キリストと私たちとの関係においても言えます。主イエス・キリストは、神の御子でありながら、私たちと同じ人となってくださいました。そして、私たちに仕えてくださり、私たちを罪から贖うために、十字架の上で命をささげてくださったのです。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と言われたほどに、イエス様はへりくだられたのです。(マルコ10:45)。そのイエス様のへりくだりによって、私たちは救われ、大いなる者、神の子とされたのです。

 47節から51節までをお読みします。

 主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ。わたしのために報復してくださる神よ。諸国の民をわたしに従わせてください。敵からわたしを救い/刃向かう者よりも高く上げ/不法の者から助け出してください。主よ、国々の中で/わたしはあなたに感謝をささげ/御名をほめ歌う。主は勝利を与えて王を大いなる者とし/油注がれた人を、ダビデとその子孫を/とこしえまで/慈しみのうちにおかれる。

 ここでダビデは、「主をほめたたえよう」と私たちを招いています。ダビデが「主は命の神」と言うとき、「主は生きて働かれる神である」ということです。命を持たない動くことのできない偶像ではなくて、主は生きて働かれる、命の神であるのです。その主がダビデを守り、ダビデを救ってくださったのです。ダビデだけではありません。主はご自分に依り頼む貧しい人々を守り、救ってくださるのです(28節参照)。ダビデは、主を「わたしのために報復してくださる神」と呼びます。主はサウルに対しては、ペリシテ人の手によって報復されました。サウルは、ギルボア山で、ペリシテ人と戦い、命を落とすのです。他方、イスラエルを脅かす周辺の異民族に対しては、王であるダビデに力を与え、ダビデを用いて報復されるのです。

 50節に「主よ、国々の中で/わたしはあなたに感謝をささげ/御名をほめ歌う」とあります。この御言葉は、使徒パウロが、『ローマの信徒への手紙』の第15章9節で引用している御言葉です。実際に開いて、読みたいと思います。新約の295ページです。8節と9節をお読みします。

 わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。

 パウロは、キリストが神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたと記しています。私たちはここにも、主のへりくだりを見ることができます。主イエス・キリストのへりくだりによって、割礼のあるユダヤ人も、割礼のない異邦人も神様の大いなる救いにあずかる者とされました。それゆえ、パウロは、異邦人の中で、異邦人と共に、主イエス・キリストの御名をほめたたえるのです。詩編とはだいぶ文脈が異なりますね。ダビデは、異邦人に勝利して、その異邦人の中で主をほめたたえました。しかし、パウロは、異邦人を救われた主イエス・キリストを、異邦人の中で讃美するのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の850ページです。

 最後の51節に、こう記されています。「主は勝利を与えて王を大いなる者とし/油注がれた人を、ダビデとその子孫を/とこしえまで/慈しみのうちにおかれる」。このことは、『サムエル記下』の第7章で、預言者ナタンを通して、ダビデに告げられたことでありました(サムエル下7:16「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」参照)。ここで注意したいことは、「とこしえまで慈しみのうちにおかれる」の「慈しみ」と訳されている言葉が「契約に対する誠実な愛」を表すヘセドであるということです。ダビデは、26節で、「あなたの慈しみに生きる人に/あなたは慈しみを示す」と記しました。しかし、ダビデとその子孫が神様の契約に誠実に生きることができなくても、神様はダビデとその子孫に対する契約に、誠実でいてくださるのです。このことを、神様の恵みと言うのですね。神様は契約に誠実な愛の御方として、ダビデの子孫から、主イエス・キリストを遣わしてくださったのです。

 今朝の説教題を「へりくだる神」としました。主イエス・キリストこそ、へりくだられた神であられます。しかし、神様は、へりくだられた主イエス・キリストを高くあげられました。神様は、イエス・キリストを栄光の体で復活させられ、天へと上げられ、御自分の右の座に着かせられたのです(フィリピ2:6~11参照)。そのようにして、神様は、ダビデの王権をとこしえに堅く据えられたのです(使徒2章、13章参照)。主イエス・キリストは、永遠に活きておられ、全世界とそのあらゆる領域を王として支配しておられます。それゆえ、私たちは、いつでも、どこでも、「主イエス・キリストは命の神。わたしの岩をたたえよ」と、心からほめ歌うことができるのです。

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